クイーンのブライアン・メイは、デフ・レパードのロックの殿堂の任命式で思いを込めた感動的な任命スピーチで彼らを讃え、フロントマンのジョー・エリオットがメイの命を救った時のエピソードを振り返った。

クイーンのブライアン・メイは、デフ・レパードの昔からの友人であり、ファンであり、これまでも彼らと数々の共演を果たしてきた。
1992年に開催された、エイズに対する意識を高めることを目的としたフレディ・マーキュリー・トリビュート・コンサートで、彼らが一緒に「ナウ・アイム・ヒア」を演奏したことは特に有名だ。2006年にはメイとデフ・レパードがカバーしたTレックスの「20センチュリー・ボーイ」は、ロック音楽に大きく影響を与えたバンドに与えられるVH1 ロック・オーナーズを授与された。さらに、1983年まで遡ると、メイがデフ・レパードのライブに飛び入りして、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「トラヴェリン・バンド」とレッド・ツェッペリンの「ロックン・ロール」という気の利いたマッシュアップを披露した(この模様はデフ・レパードの『炎のターゲット』のデラックス盤に収録されており、この曲の終わりでメイは炎に包まれて命を落としかけた)。メイがデフ・レパードの任命スピーチを行ったのはこれが始めてではない。2000年にハリウッドのロックウォークにデフ・レパードの手形が刻まれたときも彼が任命スピーチを行っている。

では、メイのロックの殿堂の任命スピーチの全文を以下に紹介。

ビル・ヘイリーが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を歌ってから65年が経った今も、ロックンロールは元気に生き続けている。そうだよね? 私の生業は世界一の仕事だ。デフ・レパードのロックの殿堂入を任命することは、自分にとって非常に光栄なことであり、名誉なことでもある。

まずは、ジョー・エリオットの哲学書から一説ご紹介したい。それは、いいことをやるチャンスが一度だけ訪れたら、絶対に失敗しちゃダメだ、だ。これが今夜の私の指針で、これが本当だと証明したい――つまり、彼らの本当の価値を認めたいし、彼らの歴史を話すのではなく、私自身の思いをみんなに伝えようと思う。
彼らとの出会い、彼らの大切さをみんなに伝えたい。

1981年、クイーンはミュンヘンのスタジオで『ホット・スペース』のレコーディングを行っていた。途中、私は友人に会うためにちょっとだけ外出した。それがリッチー・ブラックモアズ・レインボーで、そのとき、彼らのサポートを務めていたのが早熟の若手バンド、デフ・レパードだった。ところが私が到着したときは彼らの出番はすでに終わっていて、申し訳なく思いながら楽屋を探して彼らに会いに行った。入り口から頭を突っ込んで「よう、みんな、君たちの演奏を見逃してしまってとても残念だから、挨拶だけでもと思って来たんだ。俺はクイーンのブライアン・メイっていうよ」と、彼らに話しかけた。そうしたら、彼らが最初に発した「マジかよ」がちょっと嬉しくて、そこからすべてが始まったと思う。彼らはクイーンにかなり影響を受けたと教えてくれた。そんなふうに、自分が誰かに影響を与えられると思えるのは、どんなときも最高の気分だ。

ここで1983年まで一気に飛ぶ。さて、みんな、ツアー中がどんな生活か知っているよね。
ツアーに出て、車や飛行機で移動している最中、誰かが自分のレコードを流していないかと思ってボタンを押す(ラジオ局を探す)。まあ、私がよくやっていたのがそれで、ボタンを押すたびに聞こえてくるのが、高音のアルペジオっぽいギター、素晴らしいハーモニーと大きくて興味をそそるベースライン、分厚いドラム。それはクイーンの曲ではなくて、青年たちが組んでいる早熟のバンド、デフ・レパードの曲「フォトグラフ」だった。これは驚くほど素晴らしい曲で、この曲で彼らの人気が急上昇した。あの頃、ラジオをつけるといつもこの曲が流れてきた。そしてクイーンのアルバムが完成する前に、彼らのアルバム『ヒステリア』がリリースされて、1000万枚を売り上げたのである。

じゃあ、ここで83年9月まで一気にワープするよ。そのとき、私はロサンゼルスにいた。このときもレコーディングで、確か『ザ・ワークス』の制作中だったと思う。このときも作業中に外出して、今回は地元のアリーナ、つまり伝説のザ・フォーラムでプレイするデフ・レパードを観に行った。目立たないように会場に入り、後方の席に座った。彼らがステージに登場したとき――これは嘘でも大げさでもなく、あんなライブは一度も見たことがない。
ザ・フォーラムで素晴らしいライブを何度か観たことがあるが、あれほどまでの観客の熱狂ぶりは未だかつて見たことがない。観客は立ち上がり、一度も着席しない。演奏中、最初から最後まで叫んだり、吠えたりして歓声を上げ続けている。あの夜、デフ・レパードはすべてを圧倒した。終演後、メンバーに会いにバックステージに行ったら、楽屋に招待された。クイーンが始めてアメリカでライブを行ったときと同様に、彼らも両親を招いていて、そこには自分の息子が自慢気な親御さんたちがいた。私を親御さんたちに紹介したあと、彼らは「明日の夜、一緒にプレイしないか?」と言ってきた。私はイエスと答え、あとは知っての通り。「トラヴェリン・バンド」を演奏した。この共演が記憶に残る出来事となった理由は、このときの私はキャリアも命も失う寸前だったこと、これは『炎のターゲット』で、ステージのプロダクションにあらゆる種類の炎が仕掛けが設置されていたことだ。ジョーは私に警告していた。「最後の花火に気をつけて。
とにかく注意してくれ」と言って。しかし、「トラヴェリン・バンド」の最後で私たちはドラムセットの後方に移動していた。足元には小さな裂け目があって、火が吹き出す直前だった。私にはそれが何かわからず、歩を進め、そこで最高の演奏を見せようとした。そしたら、ジョーの「ブライアン! ブライアン!」と呼ぶ声が聞こえてきた。彼が演奏を褒めてくれているのだと思っていたら、ジョーが「ブライアン、ブライアン、火だ!」と叫ぶのが聞こえた。そのとき、大きな火柱が私の目の前に現れ、すんでのところでジョーが私の身体を引っ張ってくれたのだ。あのとき彼が引っ張らなかったら、私は今夜ここにいなかっただろう。つまり、デフ・レパードは若い頃に私の命を救ってくれたのだ。

デフ・レパードの歴史は非常にカラフルで、あらゆることが詰まっていて、ここでは紹介しきれない。そんなに時間がないからね。デフ・レパードが始まったのは1977年8月、イギリスのシェフィールドで。
ここは素敵な場所とは呼び難いし、ここを出たいと望む人たちが大勢いる町でもある。彼らは11枚の素晴らしいアルバムを作り、何度も何度も世界中を回って最高のライブを見せてきた。彼らのやり方は伝統的ロックバンドのやり方だ。とにかく演奏あるのみ。来る日も来る日も演奏を続け、スタジオでは最高の音楽を作った。そして、最終的に1億枚以上のアルバムを売った。人気のある時期も人気のない時期も持ち堪えた。これはありがちなことで、特にイギリスのようにメディアが冷たい国ではよく起きていた。私にはその風潮の原因が分からないが、ヒット・レコードを作るとなぜか攻撃されてしまうのだ。ここで、彼らが生んだヒット曲をいくつか紹介してもいいかな? まずは「ブリンギン・オン・ザ・ハートブレイク」、「フォトグラフ、「フーリン」、「シュガー・オン・ミー」、「アーマゲドン」、「ラヴ・バイツ」、「ロック・オブ・エイジ」、「ロケット」などなど。まだまだヒット曲はたくさんある。彼らはシングル50枚をリリースし、そのほとんどがヒットし、多くがナンバー1になった。
そのせいか、メディアには、特にイギリスのメディアがそうだが、彼らをダサいバンドに見せいたという空気が漂っていた。でも、真実は違う。彼らが作ったヒット曲はすべて、人々が一緒に口ずさんだり、記憶し続けることのできる本物の歌で、だからこそデフ・レパードは未来永劫、私たちが地球からいなくなっても、人々の心と頭の中に記憶されるバンドになるはずだ。

彼らが長続きしている点にも言及しないといけない。デフ・レパードというバンドは家族であり、常に進化し続ける家族だ。素晴らしいベーシストのリック・サヴェージは最初から最後までこのバンドにいる男だ。今、最後とは言ったが、彼らの物語は現在進行中で、まだ終わらない。まずリックがいたバンドにジョー・エリオットが加入し、その直後に聴覚障害を持ったネコ科の動物を指し示すバンド名になった。この頑固者ふたりがバンド誕生の瞬間に居合わせたわけだが、その後、家族が大きくなり、進化し、ありとあらゆる困難に直面した。1984年にドラマーのリック・アレンが片腕を失ったことは大きな衝撃であり、彼らにとっての挫折となり、バンドとしての将来が絶たれる可能性も秘めていた。でも、リックは驚異的な忍耐力で回復し、デフ・レパードという家族は最高の忠誠心と結束力で、リックがバンドに復帰するのをサポートした。そのおかげで、彼らはあらゆる面で大きく成長し、リックだけでなく、バンド全体にこの一件がプラスに働いたのだ。リックが事故に勝利をおさめて凱旋したドニントンでの復帰ライブには私もいた。さらに1991年にはスティーヴ・クラークが他界した。驚異的なリフ職人で、本当に最高のプレイヤーで、魅力に溢れたギタリストだった。こうなってしまうとバンドは解散するだろうと考えた人が多かったと思う。弱い人間だったらそうなっていたかもしれない。しかし、現在のフィル・コリンとヴィヴ・キャンベルのギターデュオは最高だ。実際、コリンとキャンベルはギターデュオとして背筋がゾクゾクするほど素晴らしいと私は思っている。

多くの人たちが見落としていることは、彼らは観客を楽しませるだけでなく、演奏技術という点でも非常に優れている点だ。彼らはすべてを備えているのだ。私にとって彼らは全員、素晴らしい友人であり、家族だ。だからこそ、私がここに立っていることがとても重要で、自分以外の誰にもこのスピーチはさせたくない。彼らは1992年のフレディ・マーキュリーのトリビュート・コンサートにも参加してくれたし、これまで数え切れないほどの共演を果たしている。特にジョーと私は貴重で楽しい時間を何度も一緒に過ごしているし、互いにクレージーなツアー生活に誘い合ったりもした。私たちふたりの絆は強力で、ジョーは親友のひとりだ。スティーヴが死んだとき、ジョーが最初に受けた電話が私からだったと教えてくれた。フレディが他界したと報道されたとき、私が最初に受けた電話がジョー・エリオットからだった。

デフ・レパードは、伝統的なロックグループの姿という点で、見事なロックグループと言える。あと2つほど、彼らについて話させてほしい。まだ若い頃、ジョーが「ロックグループとして成功する秘訣って何?」と言ったことがあった。私は「分裂しないこと」と答えた。それから数年経って、ジョーが「成功する秘訣をあと2つ見つけたよ。太っちゃダメってことと、髪の毛を維持すること」と教えてくれた。確かに、彼らは太らないし、髪の毛も維持しているし、分裂しなかったし、みなさん、彼らは全員揃って今夜ここにいる。デフ・レパードはヨークシャー出身の、いやイギリス出身の、いや地球出身の人間として、正直で、常識的で、最高の集団だ。彼らをロックの殿堂に迎える役を仰せつかって光栄です。紳士淑女のみなさま、デフ・レパードです!
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