私の新刊『Bruce Springsteen: The Stories Behind the Songs』では、これまで公式にリリースされたブルース・スプリングスティーンのスタジオ音源について、1曲ごとにまつわる物語を伝えている。本人との5回のインタビューを含めた長年の取材レポートに加え、彼がキャリアを通じて関わってきたミュージシャンやプロデューサー、その他のコラボレーターたち(マックス・ワインバーグ、ロイ・ビタン、ニルス・ロフグレン、スージー・タイレル、トム・モレロ、デイヴィッド・サンシャスほか多数)の60時間を超える新規インタビューがこの本には収められている。その一部を、2004年からスタッフとして関わっているローリングストーンで独占公開させてもらえることを誇りに思う。本の中では1曲ごとに章が別れているが、ここではスプリングスティーンが1984年に発表したアルバムのタイトルトラックについて抜粋したものをご覧いただこう。
1968年、ブルース・スプリングスティーンは兵役から逃れようとしていた。ニュージャージー州ニューアークの選抜徴兵局に、自分がベトナムでの戦闘にいかに不向きであるかを伝えるために奮闘し、ゲイでありLSD常習者であるとも主張したがそれは必要のないことであった。前年のバイク事故で患った脳震盪が原因で、彼は身体検査を通らなかったのだ。スプリングスティーンは安堵し大いに喜んだが、数年後、罪悪感を抱くようになった。「誰が自分の代わりに行ったのだろうと思うことが時折あった」と、彼は回顧録『ボーン・トゥ・ラン』に綴っている。
1978年頃、スプリングスティーンは盲目的愛国者だったロン・コーヴィックが海軍に入隊し、ベトナム戦争から下半身不随で帰還して反戦活動家となったという強烈な回顧録『7月4日に生まれて』を読んだ。彼がアリゾナのドラッグストアでその本を購入してまもなく、ロサンゼルスのサンセット・マーキス・ホテルのプールで、コーヴィック本人が彼のところにやってきた。彼らは意気投合し、コーヴィックは米国ベトナム戦争退役軍人会の創設者の1人である活動家ボビー・ミュラーを彼に紹介した。
翌月、家に戻ったスプリングスティーンが『ネブラスカ』に収録されることになる曲を作り始めた時、彼は「ベトナム」というタイトルの曲にも取りかかっていた。おそらくそれは、ジミー・クリフによる同名のプロテスト・クラシックからインスピレーションを受けたものと思われる。どこに行っても「ベトナムで死んだ」と言われる帰還兵の話をもとに、スプリングスティーンはラジカセでいくつかデモを録っていた。
歌詞の一部は(シングル「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の)B面「シャット・アウト・ザ・ライト」にも再び使われているが、Aメロは、工場長が自分が決められるのであれば君を雇ってあげたいのだけどね、と言っているのが見事に問題が要約された形で歌われている。帰還兵のガールフレンドがロックンロールシンガーと逃げたと繰り返される歌詞(帰還兵の罪悪感を暗示?)もあり、またスプリングスティーンが「よそ者(the stranger)は俺だ」と歌うのは、彼が拠り所の1つとしていたスタンレー・ブラザーズの「ランク・ストレンジャー」に言及している。
ニュージャージー州コルツネックにある、彼の自宅のオーク製の机の上には、映画監督のポール・シュレイダーから送られてきた『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の脚本が置かれていた。スプリングスティーンは「ベトナム」を作ってまもなく、その映画のタイトルを使った曲を書き始めた。最初のサビでは「born in the U.S.A.」と韻を踏ませるために「the American way(アメリカのやり方)」と皮肉を込めて称賛するような歌詞を書いたがすぐボツになった。彼がその頃に読んだアメリカの歴史書には1979年の『Sideshow: Kissinger, Nixon and the Destruction of Cambodia(邦題:キッシンジャーの犯罪)』も含まれるが(フランク・ステファンコが1982年にスプリングスティーンの家を撮影した写真にこの本が写り込んでいる)、この新しい曲の歌詞の下書きは、その一冊から彼が学んだことに対する個人的な感情のはけ口のように見えた。
疑いを持つ人がいるかも知れないので言っておくと、曲の最終版で歌われている「黄色人種」と戦うために送られたという内容の歌詞には人種差別に反対する意図があったこともこの下書きからはっきりと読み取ることができる。カンボジア人がどんな気持ちか、「雨のように降る」爆弾の恐怖を目の当たりにするのはどんな気持ちか想像しながら「彼らは白人をそんなふうに扱わない」と彼は歌う。別の下書きからはスプリングスティーンの内容を要約し言葉をまとめ上げるスキルがいかに高くなったかをうかがい知ることができ、精錬所や汚染された町の描写など最終版でははっきりと語られない部分について多くのことを知ることができる。
スプリングスティーンは「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を『ネブラスカ』の曲と一緒に彼の4トラック・レコーダーで録音し、カセットテープをマネージャー/共同プロデューサーのジョン・ランドーに送った。メロディにまとまりがなくエコーがかった宅録音源は曲が持ちうるインパクトを鈍らせており、『ネブラスカ』にあった”ローファイの魔法”はこの曲にはかからなかった。最後の40秒にスプリングスティーンがオーバーダブした、一聴すると捉えにくいかもしれないエレキギターがメインリフの上にうっすらと入り、アウトロのファルセットの叫び声は派手なノイズを予感させる。
1982年4月、スプリングスティーンとEストリート・バンドは『ネブラスカ』のバンド版のレコーディングのためにパワー・ステーションのスタジオAに戻った。ソニー・スタジオの利用記録を見た作家のクリントン・ヘイリンは2012年、ついにEストリート・バンドがこのアルバムのほとんど、もしくはすべての曲をレコーディングしていたことを明らかにしたのだ。その音源は一切リークされておらず、おそらくボックスセットとしてリリースされるのを待たなくてはならないだろう。スプリングスティーンは2日目に「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」に取りかかった。ロイ・ビタンは、彼が4トラックで取ったデモを流すのではなく、アコースティック・ギターを弾きながらその曲を歌ってバンドに説明していた、と回想する。
この頃までにはメロディも改良されており、ビタンはスプリングスティーンが歌ったサビを元に、6つの音のモチーフを作ったと回想する。「彼が歌うのを聞いて僕は言ったんだ。『リフはそれだ』ってね。とてもシンプルなリフだ」とビタンは言う。彼は非常にフレキシブルな最新アナログ・シンセサイザー、YAMAHA CS-80の前に行き、そのサウンドを形にしていった。「僕は曲が何について歌われたものなのかを知るため、いつも熱心に聞いていた。そして彼が何について歌っているのかがわかった時に、自分が生み出したのは東南アジアテイストの変わったシンセサウンドだった。それであのリフを弾いたんだ」とビタンは語る。ビタンが2回目を弾くまでにマックス・ワインバーグがそれに合わせてスネア・ドラムを叩き始めていた。
そこからダニー・フェデリッチが一度だけピアノを弾き、スティーヴ・ヴァン・ザントがアコースティック・ギターを奏で、曲のレコーディングが始まった。「ブルースはマックスと僕が演奏しているのを聞いて『待って、待って。ストップ。
ワインバーグは別の思い出を語っている。彼の記憶によると、この曲は最初”カントリー・トリオ”としてのバージョンが録音され、そこではカントリーのビートが用いられた。それから、スプリングスティーンはローリング・ストーンズ「ストリート・ファイティング・マン」のドラムを想起させるリズムをかき鳴らし、それに合った演奏をし始めた、とワインバーグは回想する。「他のみんなが出てくると彼は『このリフを繰り返し弾いてくれ』って言ってアレンジをしたんだ」と彼は語る。(しかし同時に、彼はビタンの記憶に反論するつもりはなく「ロイがリフを思いついたのかもしれない。この章は『羅生門』と名付けてもいいかもね!」と話している)
この曲の始まりがどちらであったとしても、アルバムに収録されているのは序盤の”生の”テイク(数分セッションしたものをカットしたもの)である。『ザ・リバー』のレコーディングセッションから数年間、ワインバーグは自分のスキルを一から見直すためにセッション・ドラマーの巨匠ゲイリー・チェスターのレッスンを受けていた。彼が学んだことは「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」に反映されている。アルバム収録テイクのレコーディング中、「スプリングスティーンは両手を挙げ、『ソロをやって』と言うようにエアードラムを叩く素振りを見せたんだ。
彼らは明け方3時頃にレコーディングを終えた。そして6時間後、スプリングスティーンはラジカセと、(エンジニアの)トビー・スコットによる曲のラフミックスが入ったテープを持ってワインバーグの家を訪ねた。スコットはワインバーグのスネアに(壊れたプレートリバーブを使って)ゲートリバーブをかけたものに、スタジオAの天井につけられた過剰なまでのルームマイクを足して、グランドキャニオンの底で重厚な大砲を撃ったようなサウンドにした(最終ミックスではボブ・クリアマウンテンによってさらに壮大なサウンドになった)。
「うちのテラスに座って生搾りオレンジジュースを飲みながら『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を20回ぐらい聞いたよ。忘れることはできない。クビになりそうなところからこの音源のドラムにまで行き着いたわけだからね。彼は僕に『この曲のドラムはボーカルと同じぐらい重要だ。混乱と爆弾を表現するようなサウンドで、君は僕が持っていた曲のイメージを完璧に再現してくれたよ』と言ってくれたんだ」とワインバーグは語る。この後、世間がそれを耳にするまで2年かかることになるが、スプリングスティーンはバンドと共に、自分たちの作品の中で最もすばらしい音源の1つを完成させたと感じていた。
「生きる理由」の物語の主役が生きること自体の意味を奪われたのと同じように、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の主役は彼にとって大切な、生まれながらに持つ権利のすべてを奪われた。しかし、この曲の激しいサウンドが(多くのリスナーにとってはわかりにくいであろうが)もし何かを意味するとすれば、それは地面をしっかりと踏みしめるために、そしてもしかしたらスプリングスティーンが後に「私達が心の中に抱く国」と呼ぶものの面影を再発見するために、スプリングスティーンが自分自身の意味を見つける決意をしたということだろう。
2005年にスプリングスティーンは私にこう語っている。「『明日なき暴走』と『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の大きな違いはね。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』は明らかにどこかで立ち止まっている曲なんだ」
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