1972年のリリース時は大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」だったが、そのあとはしばらく世界的にも注目されることはなかった。90年代初頭、マイク・マイヤーズの映画『ウェインズ・ワールド』のワンシーンで「ボヘミアン・ラプソディ」が起用されるや否や、世界中で再びクイーン人気に火がついた。
1975年にリリースされたクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」は風変わりな曲だった。大胆で、オペラ風で、テンポが変化する叙事詩的な大作で、まるで複数の楽曲を一つに融合させたようでもある。当時、クイーンの所属レコード会社は6分間の曲はラジオで流すのに長過ぎると判断し、絶対にヒットしないと言った。しかし、彼らの判断はすべて間違っていた。この曲はイギリスで第1位に輝き、アメリカでも第10位に喰い込んだ。ところが、90年代初頭までに「ボヘミアン・ラプソディ」は隠遁生活に入り、ラジオのクラシックロック局で時々流される程度で、表舞台へ登場することは滅多になかった。
状況が一変したのは1992年。マイク・マイヤーズが映画『ウェインズ・ワールド』のオープニングシーンに「ボヘミアン・ラプソディ」を大々的にフィーチャーし、人々の記憶に残る強烈な印象を残す。これはバラエティ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の同名のコントから流用したもので、この映画がきっかけとなり、この曲もクイーンも共に前代未聞の第二の黄金期を迎えるに至った。ウェイン・キャンベルが友人ガース・アルガーのACMペーサーに同乗し、持参したカセットをカーステレオに入れるという当時のありふれた行為で、「ボヘミアン・ラプソディ」はラジオ局で頻繁に流されるようになり、『ウェインズ・ワールド』公開の約3ヵ月前にバンドのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーがAIDSで他界したにもかかわらず、アメリカのヒットチャートを駆け上り、第2位に浮上した。さらにMTVでもこの曲が定番ミュージックビデオとなり、曲だけでなくバンド自体も、若いリスナーたちに広く知られるようになったである。
マイク・マイヤーズ(脚本、ウェインズ・ワールド役):僕が育ったのはカナダのオンタリオ州スカボローで、両親は二人ともイギリス人だった。1975年に家族と一緒にイギリスに行ったときにラジオで「ボヘミアン・ラプソディ」を聞いたんだ。みんながこの曲にとり憑かれたようになったね。僕、僕の兄弟、そして友だちの車。友達の車は淡青色のダッジ・ダート・スウィンガーで、片側にエルヴィス・プレスリーの形でシミになった嘔吐の跡があった。その車で「ボヘミアン・ラプソディ」を聞きながら、ドンバレー・パークウェイをドライヴしたものさ。それも、トロント市の境界を超える瞬間に、あのロックパートが始まるように、きっちり時間を計ってね。「ガリレオ!」は5回続くけど、僕が3回担当することになっていて、他の人の「ガリレオ!」を僕が歌ったり、他の人が僕の「ガリレオ!」を歌ったりすると、その後、必ずケンカになった。この光景はいつも僕のポケットに入っていたもので、ウェインズ・ワールドは僕の子供時代なんだよ。自分の経験を書いただけさ。
ペネロープ・スフィーリス(監督):私たち全員、あれが初めてのスタジオ作品だったわ。
マイヤーズ:あの作品では、大人になって、税金を払うみたいな社会人の生活を始める直前の、誰にでもある大人未満の時代の一コマと、その生命力を描いてみたいと思った。TV番組の視聴が地下室に限定されるのなら(訳注:アメリカの一軒家は地下にテレビ室があることが多い)、『ウェインズ・ワールド』は映画という形にして、世界中で観てもらいたかった。だから「ボヘミアン・ラプソディ」が出演者を紹介するのに最適だと思ったわけだ。
スフィーリス:私は変な選曲だと思ったわね。ヘドバン好きな青年がドライヴ中の車でヘドバンするときに、真っ先に選ぶ曲とは思えなかったから。
マイヤーズ:だから、僕は「ボヘミアン・ラプソディ」を使おうと必死に奮闘した。あの頃、世間はクイーンのことなんてすっかり忘れていたよ。(プロデューサー)のローン(・マイケルズ)はガンズ・アンド・ローゼスを推したんだ。曲名はもう覚えていないけど、あの頃、ガンズ・アンド・ローゼズの曲がチャートで1位になっていたからね。僕は「君の意見はもっともだ。それが利口なやり方だよ」と返事したけど、僕にはガンズ・アンド・ローゼスの曲をネタにしたジョークなんて一つもなかったんだよ。
スフィーリス:「ボヘミアン・ラプソディ」に反対したという記憶はないけど、たぶん私もガンズ・アンド・ローゼスを推していたと思う。
マイヤーズ:ある時点で、僕は「もうやめる。ボヘミアン・ラプソディじゃないなら、この映画は作りたくない」って言った。この曲が本当に大好きなのさ。あの長さで作るなんてホント度胸がある。2曲を合体して1曲にするなんて勇敢だし、オペラを使うなんて大胆だよ。それに、オペラ部分が始まると、なんとも言えない開放感を覚えるんだ。僕としてはこの曲以外の選択肢はなかった。
スフィーリス:リチャード・プレイヤーを始めとする、数多くの凄腕コメディアンと一緒に仕事をしてきたし、時には困難にぶち当たることもあったわ。でも、そうやって仕事してきたことを今では意味のあることだったと思えるのよ。
マイヤーズ:ローンは優れたプロデューサーだ。彼はとにかく「この映画をヒットさせたら君は僕を許すさ」と言い続けていたよ(笑)。ローンはこの映画を作りたいという僕の情熱を試した。映画は人類が作った最も高価な娯楽装置なのさ。だからこそ、彼は僕たちがエンターテイメントとして最上のものを作っていると確信したかったんだよ。でもね、時として小さな思いつきが大きな意味を持つ。つまり、「ボヘミアン・ラプソディ」が僕の家で大ヒットしていたら、他の人の家でも大ヒットしているはずだという僕の思い込みみたいに。そういう思い込みが正解することが僕の人生ではよくあったのさ。
スフィーリス:結局、ウィンウィンだったわけよね。マイクが勝って、あの曲を使うことに決まり、みんなが大好きになった。
ショーン・サリヴァン(フィル役):台本を読んでから現場に行ったとき、本当に感心したよ。
リー・ターゲセン(テリー役):最初の読み合わせのとき、車に乗っていたのは4人だけだった。つまり、ダナ(・カーヴィ)、マイク、ショーン、マイケル・デルイーズだけ。でも、読み合わせを終えてからマイクに「なんとかして後部座席に座れないかな? これは僕の子供時代なんだよ。コネチカットで、僕も車で町を流しながら大騒ぎしていたから」と言ったんだ。そしたら、その2日後に新しい台本が届いて、僕も後部座席に座っていた。狂喜乱舞したよ。
スフィーリス:映画を作るときというのは、あの頃は特にそうだったけど、台本が書き換えられると違う色のページに印刷されて渡されるの。大抵は7色くらいで完成するんだけど、あの台本は7色を3回繰り返したわね。つまり、日々それだけ多くの新しいアイデアが出て、台本が書き換えられていたということ。
マイヤーズ:ペネロープはとても聡明な監督だ。ほんと、最高だよ。とにかく本当に利口で、思いやりがあって、僕にはとても寛大だ。だって僕自身も自分が何をやっているのか、よくわかっていなかったんだから。あの頃、現場には小さなモニターが数台あったけど、彼女の口元が1台のモニターの下から見えたんだ。それを何度も見ているうちに、彼女の笑い声と笑顔の虜になっていたよ。
スフィーリス:面白いのは、あの映画の全編がシカゴ近くのオーロラで撮影されたと、世間の人が言い張ることね。彼らはロサンゼルスで撮影した部分があると認めない。でも実際は95%がロサンゼルスで撮影されたの。ただ、オーロラみたいな雰囲気のストリートをロサンゼルスで見つけるのは至難の技だったわ。撮影場所はコロナよ。
サリヴァン:あれはオールナイトの撮影で、カリフォルニア州ウェスト・コビーナがイリノイ州オーロラの代わりだった。
ターゲセン:トレーラーの後ろに座って、歌いながらウェスト・コビーナ中をドライブしてまわったよ。
スフィーリス:私はいつもコロナとコビーナを間違えちゃう。
サリヴァン:夜間の撮影のときは、最初は絶好調でも、ある時点で「この時間にここにいるなんてマジかよ。まだ何時間もここだよな」と考え始めて、いきなり気力が落ちる。それが撮影の始まる直前だったりするんだ。ところが、あのシーンではその気落ちがこれ以上ないくらい効果的だった。だって僕は泥酔して座っているだけの役だから。
マイヤーズ:このシーンは、オペラパートの歌詞「I see a little silhouette-a of a man」そのままのミニオペラにするつもりだった。つまり、影が見えた男は僕たちの友だちで、彼を途中で拾って車に乗せて、「Let him go!」、「Let him go!」、「Let him go!」と一緒に歌い、彼が嘔吐する。それだけの内容だった。
サリヴァン:あのシーンは順番に撮影した。少なくとも僕が出演した部分はそうだった。彼らが僕を拾うところから始まってね。ガースの「吐きたくなったら、これに吐いて」と言ったのは……あれはダナのアドリブだと思う。彼は小さな紙コップをどこかで見つけて、いきなりあれをアドリブでやったのさ。
ダナ・カーヴィ(ガース・アルガー役):マイクも僕もやりたい放題できた。僕もガースのお決まりのギャグを頻繁に繰り広げた。「吐きたくなったら、これに吐いて」もその一つさ。そしたら、ペネロープが「それ、あと10秒速く言えたら残すわよ」って。
マイヤーズ:ダナは一緒に仕事した中でも最高のコメディアンで、一番ゆるいコメディアンだ。ゆるさが面白いってことを彼は絶対に忘れない。それに彼の目の中のキラキラは感染するんだよ。彼はふざけるのが好きなんだ。撮影の間中、二人で練りに練った複雑でクレージーなジョークを作っていた。
スフィーリス:カメラ・オペレーターがドイツ出身で、マイクは彼をイジって遊んでいたの。撮影時にガラスや窓に照明の光線反射が出ると、ダリングスプレーという反射を抑えるスプレーが必要になる。明るい照明の反射を軽減するのがこのスプレーよ。でも、マイクはいつもこれを「ダーリング・スプレー!」(訳注:ドイツの地名ダールDahlにingをつけたもの)と呼んでいて、あのシーンの撮影が終了したとき、マイクは彼が呼ぶところの「ダーリング・スプレー」をみんなに1缶ずつプレゼントしたの。
サリヴァン:僕たちは車に2~3時間乗り続けたね。毎回、あの曲を最初から最後まで歌ったし、けたたましい歌の騒音だったよ。
スフィーリス:あのシーンを撮影する頃には、キャストが互いにかなり馴染んでいたわよ。それにあの曲、あれには非常に正確で一貫性のあるビートがあるの。だから、そのビートを見つけ出して、それに合わせてヘドバンするのはそれほど難しくない。3歳児でもできるはずよ。
ターゲセン:あの車の中で僕だけが本物のヘッドバンガーだ。本気でヘドバンしていたのは僕だけだったから。
スフィーリス:私の記憶が正しいなら、あのシーンは撮影が3分の2くらい終わったところでマイクの反抗が始まったというか……ありがちな面白くもない話なので、マイクと私の間に起きた諍いの詳細は端折るけど。とにかく、あのシーンでは何度もテイクを重ねたの。だって後部座席に3人、運転席と助手席には2人いるわけ。撮影しないといけないカットがたくさんあって、カメラを動かし続けるしかなかった。おかげで、彼らは何度も繰り返しヘドバンする羽目になったのよ。
マイヤーズ:ダナと僕はあのヘドバンのせいで首を痛めたんじゃないかって思っている。とにかく、撮影アングルの多さとテイクの多さったらなかったよ。あの雰囲気を出すためにあらゆる角度から撮影しないとダメだったんだ。
カーヴィ:あのとき、僕は36歳で、ヘドバンを4時間もやらされて死ぬかと思ったよ!
スフィーリス:半分くらい終わったところで、マイクが「このシーンを編集するのに十分な映像は撮れたと思う。もう、首が痛くて死にそうだ」と言ったの。だから私は「まだ十分じゃないわ。まだ続けないと」と返したら、彼は「仕方ないな。じゃあ、鎮痛剤をくれ」だって。
サリヴァン:僕たち役者はシーンにのめり込むものさ。それが何時間も続くなんて思っていないから、最初から本気で演じるわけだよ。ところが、みんな、首が折れそうなくらい痛くなって、少し加減するようになった。最初の30分は楽しかったけど、その後は「これ、マジで痛いぞ」って。
ターゲセン:疲労だけじゃなくて、フットボール選手がよくなる外傷性脳損傷みたいな感じになっていたと思う。とはいえ、あのシーンを撮るためには仕方なかったよ!
サリヴァン:独特の仲間意識が生まれてきて、お互いを鼓舞しながら続けるのさ。ぶっちゃけ、あの大音量であの曲を流されたらやる気になっちゃうしね。
スフィーリス:マイクはけっこう冷静で、最後までやり続けてくれた。でも、彼らを説得するのはちょっと大変だったわ。どうやって説得したかというと、マイクが「首が痛いだけじゃなくて、もう十分撮影したと思う。ただ、これで本当に大丈夫なのかわからないし、本当に面白いのかもわからない」って言ったのね。そこで、私は「大丈夫、面白い。私が太鼓判を押すわ。最高のオープニングシーンになるから」って言ったのよ。
マイヤーズ:僕は名曲を台無しにしやしないかと恐れていた。20代のお人好しカナダ人だった僕は、とにかくあの曲を尊重して、称賛したかったんだ。
ブライアン・メイ(クイーンのギタリスト):マイク・マイヤーズは私に電話してきて、こう言った。「僕たち、こんなアイデアがあって、きっと上手く行くと思うのですが、聞いてみたいですか?」 そこで私は「ああ」と答えたら、彼が「フレディも聞きたいと思いますか?」って。その頃、フレディは病状がかなり悪化していたけど、私は「ああ、彼も聞きたいはずだよ」と返事した。マイクがテープを送ってくれたので、それをフレディに持って行った。フレディはとても気に入っていたよ。ビデオを見て大笑いして、最高だと思ったらしい。実はね、あの曲はクイーンのメンバーもおふざけ曲と見なしていたんだ。ラジオからあの曲が聞こえるたびに、あのヘヴィーなパートが始まると全員でヘドバンしていたのさ。だから、あのシーンはクイーンのユーモア感覚にかなり近いものだったんだ。
マイヤーズ:ブライアン・メイから手紙が届いて、彼もバンドもあのシーンを大いに気に入ったと書いてあった。ブライアンはサイン付きのギターすら僕に送ってよこした。クイーンを溺愛していた僕は正気でいられないほど嬉しかったよ。
スフィーリス:あの頃フレディ・マーキュリーは病気で、映画の公開前に他界してしまったのよね。クイーンが感謝していたと聞いたことがあったわ。あの映画があの歌と彼らを復活させたから。
アダム・ランバート(シンガー):僕がクイーンを知ったきっかけがあの映画だった。イギリスでのクイーンは音楽史の一部だし、アメリカでもとても人気がある。でも僕の世代は、特にあの当時は、クイーンを知る人はほとんどいなかったよ。『ウェインズ・ワールド』は父と兄弟と一緒に観に行ったんだ。その夜は男だけのお出かけって感じで、僕は10歳だった。あのシーンは天才的だよ。当時、クイーンなんて全然知らなかったのに、あの演劇風でおちゃらけた曲が僕の頭の中でガンガン響いていたもの。父に「あれは誰?」と聞いたら、父が「クイーンだよ」って。家に戻ってから父がアルバムを引っ張り出してきて、僕に聞かせてくれた。「うわー、このバンドって僕が好きそうな音楽やってる」と思ったね。
メイ:あれはアメリカで大ヒットした。あのとき、2つの出来事がほぼ同時に起きたんだ。『ウェインズ・ワールド』の公開とフレディの他界。当時を思い出すと、偶然にしては本当に奇妙なめぐり合わせだし、あれがきっかけでクイーンがアメリカで復活したわけだ。
ランバート:クイーンを発見するのに、僕は奇妙な回り道をしたわけだ。そんな僕が彼らとワールドツアーをしているんだからね。メンバーはそんな状況を面白がっているよ。
ターゲセン:今ではいろんな映画であのシーンをオマージュしているよね。
サリヴァン:あれは、ある意味で完璧なシーンだった。当時はみんなそう思ったんだ。そして時を経て文化的なアイコンにまでなったけど、当時の僕たちはそんな未来などまったく想像していなかった。ただ、あのシーンには大切な何かがあることだけは感じていたけど。
スフィーリス:あれは元気いっぱいな青春を濃縮したシーンよ。あの歳の若者はあの感覚が大好きだと思うし、大人世代も青春を思い出してあの感覚を楽しむし、青春前夜の子どもたちは大きくなったらあんなふうにしてみたいと思うわけ。
サリヴァン:あの映画は大ヒットしたし、あの映画に特別なつながりを見つけて、みんな圧倒されるんだ。つまり、あの年頃の自分があそこに投影されるから「これは俺の映画だ」と思うわけだ。
マイヤーズ:何もかもが本当にシュールに思えた。当時の僕はあの映画が公開されることすら知らなかったし、公開後の反応も想像を遥かに超えていた。仕事人として最高に満足した経験だったよ。
その歴史的なシーンと共に、出演者や制作関係者、そしてブライアン・メイが語る映画制作秘話を振り返る。
1975年にリリースされたクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」は風変わりな曲だった。大胆で、オペラ風で、テンポが変化する叙事詩的な大作で、まるで複数の楽曲を一つに融合させたようでもある。当時、クイーンの所属レコード会社は6分間の曲はラジオで流すのに長過ぎると判断し、絶対にヒットしないと言った。しかし、彼らの判断はすべて間違っていた。この曲はイギリスで第1位に輝き、アメリカでも第10位に喰い込んだ。ところが、90年代初頭までに「ボヘミアン・ラプソディ」は隠遁生活に入り、ラジオのクラシックロック局で時々流される程度で、表舞台へ登場することは滅多になかった。
状況が一変したのは1992年。マイク・マイヤーズが映画『ウェインズ・ワールド』のオープニングシーンに「ボヘミアン・ラプソディ」を大々的にフィーチャーし、人々の記憶に残る強烈な印象を残す。これはバラエティ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の同名のコントから流用したもので、この映画がきっかけとなり、この曲もクイーンも共に前代未聞の第二の黄金期を迎えるに至った。ウェイン・キャンベルが友人ガース・アルガーのACMペーサーに同乗し、持参したカセットをカーステレオに入れるという当時のありふれた行為で、「ボヘミアン・ラプソディ」はラジオ局で頻繁に流されるようになり、『ウェインズ・ワールド』公開の約3ヵ月前にバンドのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーがAIDSで他界したにもかかわらず、アメリカのヒットチャートを駆け上り、第2位に浮上した。さらにMTVでもこの曲が定番ミュージックビデオとなり、曲だけでなくバンド自体も、若いリスナーたちに広く知られるようになったである。
ご機嫌なこのシーンは、それ自体が時代を象徴するものとなり、1992年の初公開以来、幾度となくパロディ化され、コピーされ、今では人々を笑顔にする文化の試金石のような存在になっている。同映画のクリエイティヴ面を牽引したマイク・マイヤーズと、この一件によって恩恵を受けたクイーンのメンバーが『ウェインズ・ワールド』における「ボヘミアン・ラプソディ」登場の舞台裏を詳しく語ってくれた。
マイク・マイヤーズ(脚本、ウェインズ・ワールド役):僕が育ったのはカナダのオンタリオ州スカボローで、両親は二人ともイギリス人だった。1975年に家族と一緒にイギリスに行ったときにラジオで「ボヘミアン・ラプソディ」を聞いたんだ。みんながこの曲にとり憑かれたようになったね。僕、僕の兄弟、そして友だちの車。友達の車は淡青色のダッジ・ダート・スウィンガーで、片側にエルヴィス・プレスリーの形でシミになった嘔吐の跡があった。その車で「ボヘミアン・ラプソディ」を聞きながら、ドンバレー・パークウェイをドライヴしたものさ。それも、トロント市の境界を超える瞬間に、あのロックパートが始まるように、きっちり時間を計ってね。「ガリレオ!」は5回続くけど、僕が3回担当することになっていて、他の人の「ガリレオ!」を僕が歌ったり、他の人が僕の「ガリレオ!」を歌ったりすると、その後、必ずケンカになった。この光景はいつも僕のポケットに入っていたもので、ウェインズ・ワールドは僕の子供時代なんだよ。自分の経験を書いただけさ。
ペネロープ・スフィーリス(監督):私たち全員、あれが初めてのスタジオ作品だったわ。
マイヤーズ:あの作品では、大人になって、税金を払うみたいな社会人の生活を始める直前の、誰にでもある大人未満の時代の一コマと、その生命力を描いてみたいと思った。TV番組の視聴が地下室に限定されるのなら(訳注:アメリカの一軒家は地下にテレビ室があることが多い)、『ウェインズ・ワールド』は映画という形にして、世界中で観てもらいたかった。だから「ボヘミアン・ラプソディ」が出演者を紹介するのに最適だと思ったわけだ。
スフィーリス:私は変な選曲だと思ったわね。ヘドバン好きな青年がドライヴ中の車でヘドバンするときに、真っ先に選ぶ曲とは思えなかったから。
マイヤーズ:だから、僕は「ボヘミアン・ラプソディ」を使おうと必死に奮闘した。あの頃、世間はクイーンのことなんてすっかり忘れていたよ。(プロデューサー)のローン(・マイケルズ)はガンズ・アンド・ローゼスを推したんだ。曲名はもう覚えていないけど、あの頃、ガンズ・アンド・ローゼズの曲がチャートで1位になっていたからね。僕は「君の意見はもっともだ。それが利口なやり方だよ」と返事したけど、僕にはガンズ・アンド・ローゼスの曲をネタにしたジョークなんて一つもなかったんだよ。
「ボヘミアン・ラプソディ」ならごまんとあった。この曲は本質は喜劇だからね。
スフィーリス:「ボヘミアン・ラプソディ」に反対したという記憶はないけど、たぶん私もガンズ・アンド・ローゼスを推していたと思う。
マイヤーズ:ある時点で、僕は「もうやめる。ボヘミアン・ラプソディじゃないなら、この映画は作りたくない」って言った。この曲が本当に大好きなのさ。あの長さで作るなんてホント度胸がある。2曲を合体して1曲にするなんて勇敢だし、オペラを使うなんて大胆だよ。それに、オペラ部分が始まると、なんとも言えない開放感を覚えるんだ。僕としてはこの曲以外の選択肢はなかった。
スフィーリス:リチャード・プレイヤーを始めとする、数多くの凄腕コメディアンと一緒に仕事をしてきたし、時には困難にぶち当たることもあったわ。でも、そうやって仕事してきたことを今では意味のあることだったと思えるのよ。
だって彼らは本当に最高のコメディ職人たちだから。
マイヤーズ:ローンは優れたプロデューサーだ。彼はとにかく「この映画をヒットさせたら君は僕を許すさ」と言い続けていたよ(笑)。ローンはこの映画を作りたいという僕の情熱を試した。映画は人類が作った最も高価な娯楽装置なのさ。だからこそ、彼は僕たちがエンターテイメントとして最上のものを作っていると確信したかったんだよ。でもね、時として小さな思いつきが大きな意味を持つ。つまり、「ボヘミアン・ラプソディ」が僕の家で大ヒットしていたら、他の人の家でも大ヒットしているはずだという僕の思い込みみたいに。そういう思い込みが正解することが僕の人生ではよくあったのさ。
スフィーリス:結局、ウィンウィンだったわけよね。マイクが勝って、あの曲を使うことに決まり、みんなが大好きになった。
ショーン・サリヴァン(フィル役):台本を読んでから現場に行ったとき、本当に感心したよ。
だって、僕と兄のステーシーもボロボロの僕のヴェガに乗って同じことをやっていたから。ドライヴしながらあの曲を歌っていた。あの部分は、まるで僕の過去をマイクがそのまま台本にした感じだった。

リー・ターゲセン(テリー役):最初の読み合わせのとき、車に乗っていたのは4人だけだった。つまり、ダナ(・カーヴィ)、マイク、ショーン、マイケル・デルイーズだけ。でも、読み合わせを終えてからマイクに「なんとかして後部座席に座れないかな? これは僕の子供時代なんだよ。コネチカットで、僕も車で町を流しながら大騒ぎしていたから」と言ったんだ。そしたら、その2日後に新しい台本が届いて、僕も後部座席に座っていた。狂喜乱舞したよ。
スフィーリス:映画を作るときというのは、あの頃は特にそうだったけど、台本が書き換えられると違う色のページに印刷されて渡されるの。大抵は7色くらいで完成するんだけど、あの台本は7色を3回繰り返したわね。つまり、日々それだけ多くの新しいアイデアが出て、台本が書き換えられていたということ。
マイヤーズ:ペネロープはとても聡明な監督だ。ほんと、最高だよ。とにかく本当に利口で、思いやりがあって、僕にはとても寛大だ。だって僕自身も自分が何をやっているのか、よくわかっていなかったんだから。あの頃、現場には小さなモニターが数台あったけど、彼女の口元が1台のモニターの下から見えたんだ。それを何度も見ているうちに、彼女の笑い声と笑顔の虜になっていたよ。
スフィーリス:面白いのは、あの映画の全編がシカゴ近くのオーロラで撮影されたと、世間の人が言い張ることね。彼らはロサンゼルスで撮影した部分があると認めない。でも実際は95%がロサンゼルスで撮影されたの。ただ、オーロラみたいな雰囲気のストリートをロサンゼルスで見つけるのは至難の技だったわ。撮影場所はコロナよ。
サリヴァン:あれはオールナイトの撮影で、カリフォルニア州ウェスト・コビーナがイリノイ州オーロラの代わりだった。
ターゲセン:トレーラーの後ろに座って、歌いながらウェスト・コビーナ中をドライブしてまわったよ。
スフィーリス:私はいつもコロナとコビーナを間違えちゃう。
サリヴァン:夜間の撮影のときは、最初は絶好調でも、ある時点で「この時間にここにいるなんてマジかよ。まだ何時間もここだよな」と考え始めて、いきなり気力が落ちる。それが撮影の始まる直前だったりするんだ。ところが、あのシーンではその気落ちがこれ以上ないくらい効果的だった。だって僕は泥酔して座っているだけの役だから。
マイヤーズ:このシーンは、オペラパートの歌詞「I see a little silhouette-a of a man」そのままのミニオペラにするつもりだった。つまり、影が見えた男は僕たちの友だちで、彼を途中で拾って車に乗せて、「Let him go!」、「Let him go!」、「Let him go!」と一緒に歌い、彼が嘔吐する。それだけの内容だった。
サリヴァン:あのシーンは順番に撮影した。少なくとも僕が出演した部分はそうだった。彼らが僕を拾うところから始まってね。ガースの「吐きたくなったら、これに吐いて」と言ったのは……あれはダナのアドリブだと思う。彼は小さな紙コップをどこかで見つけて、いきなりあれをアドリブでやったのさ。
ダナ・カーヴィ(ガース・アルガー役):マイクも僕もやりたい放題できた。僕もガースのお決まりのギャグを頻繁に繰り広げた。「吐きたくなったら、これに吐いて」もその一つさ。そしたら、ペネロープが「それ、あと10秒速く言えたら残すわよ」って。
マイヤーズ:ダナは一緒に仕事した中でも最高のコメディアンで、一番ゆるいコメディアンだ。ゆるさが面白いってことを彼は絶対に忘れない。それに彼の目の中のキラキラは感染するんだよ。彼はふざけるのが好きなんだ。撮影の間中、二人で練りに練った複雑でクレージーなジョークを作っていた。
スフィーリス:カメラ・オペレーターがドイツ出身で、マイクは彼をイジって遊んでいたの。撮影時にガラスや窓に照明の光線反射が出ると、ダリングスプレーという反射を抑えるスプレーが必要になる。明るい照明の反射を軽減するのがこのスプレーよ。でも、マイクはいつもこれを「ダーリング・スプレー!」(訳注:ドイツの地名ダールDahlにingをつけたもの)と呼んでいて、あのシーンの撮影が終了したとき、マイクは彼が呼ぶところの「ダーリング・スプレー」をみんなに1缶ずつプレゼントしたの。
サリヴァン:僕たちは車に2~3時間乗り続けたね。毎回、あの曲を最初から最後まで歌ったし、けたたましい歌の騒音だったよ。
スフィーリス:あのシーンを撮影する頃には、キャストが互いにかなり馴染んでいたわよ。それにあの曲、あれには非常に正確で一貫性のあるビートがあるの。だから、そのビートを見つけ出して、それに合わせてヘドバンするのはそれほど難しくない。3歳児でもできるはずよ。
ターゲセン:あの車の中で僕だけが本物のヘッドバンガーだ。本気でヘドバンしていたのは僕だけだったから。
スフィーリス:私の記憶が正しいなら、あのシーンは撮影が3分の2くらい終わったところでマイクの反抗が始まったというか……ありがちな面白くもない話なので、マイクと私の間に起きた諍いの詳細は端折るけど。とにかく、あのシーンでは何度もテイクを重ねたの。だって後部座席に3人、運転席と助手席には2人いるわけ。撮影しないといけないカットがたくさんあって、カメラを動かし続けるしかなかった。おかげで、彼らは何度も繰り返しヘドバンする羽目になったのよ。
マイヤーズ:ダナと僕はあのヘドバンのせいで首を痛めたんじゃないかって思っている。とにかく、撮影アングルの多さとテイクの多さったらなかったよ。あの雰囲気を出すためにあらゆる角度から撮影しないとダメだったんだ。
カーヴィ:あのとき、僕は36歳で、ヘドバンを4時間もやらされて死ぬかと思ったよ!
スフィーリス:半分くらい終わったところで、マイクが「このシーンを編集するのに十分な映像は撮れたと思う。もう、首が痛くて死にそうだ」と言ったの。だから私は「まだ十分じゃないわ。まだ続けないと」と返したら、彼は「仕方ないな。じゃあ、鎮痛剤をくれ」だって。
サリヴァン:僕たち役者はシーンにのめり込むものさ。それが何時間も続くなんて思っていないから、最初から本気で演じるわけだよ。ところが、みんな、首が折れそうなくらい痛くなって、少し加減するようになった。最初の30分は楽しかったけど、その後は「これ、マジで痛いぞ」って。
ターゲセン:疲労だけじゃなくて、フットボール選手がよくなる外傷性脳損傷みたいな感じになっていたと思う。とはいえ、あのシーンを撮るためには仕方なかったよ!
サリヴァン:独特の仲間意識が生まれてきて、お互いを鼓舞しながら続けるのさ。ぶっちゃけ、あの大音量であの曲を流されたらやる気になっちゃうしね。
スフィーリス:マイクはけっこう冷静で、最後までやり続けてくれた。でも、彼らを説得するのはちょっと大変だったわ。どうやって説得したかというと、マイクが「首が痛いだけじゃなくて、もう十分撮影したと思う。ただ、これで本当に大丈夫なのかわからないし、本当に面白いのかもわからない」って言ったのね。そこで、私は「大丈夫、面白い。私が太鼓判を押すわ。最高のオープニングシーンになるから」って言ったのよ。
マイヤーズ:僕は名曲を台無しにしやしないかと恐れていた。20代のお人好しカナダ人だった僕は、とにかくあの曲を尊重して、称賛したかったんだ。
ブライアン・メイ(クイーンのギタリスト):マイク・マイヤーズは私に電話してきて、こう言った。「僕たち、こんなアイデアがあって、きっと上手く行くと思うのですが、聞いてみたいですか?」 そこで私は「ああ」と答えたら、彼が「フレディも聞きたいと思いますか?」って。その頃、フレディは病状がかなり悪化していたけど、私は「ああ、彼も聞きたいはずだよ」と返事した。マイクがテープを送ってくれたので、それをフレディに持って行った。フレディはとても気に入っていたよ。ビデオを見て大笑いして、最高だと思ったらしい。実はね、あの曲はクイーンのメンバーもおふざけ曲と見なしていたんだ。ラジオからあの曲が聞こえるたびに、あのヘヴィーなパートが始まると全員でヘドバンしていたのさ。だから、あのシーンはクイーンのユーモア感覚にかなり近いものだったんだ。
マイヤーズ:ブライアン・メイから手紙が届いて、彼もバンドもあのシーンを大いに気に入ったと書いてあった。ブライアンはサイン付きのギターすら僕に送ってよこした。クイーンを溺愛していた僕は正気でいられないほど嬉しかったよ。
スフィーリス:あの頃フレディ・マーキュリーは病気で、映画の公開前に他界してしまったのよね。クイーンが感謝していたと聞いたことがあったわ。あの映画があの歌と彼らを復活させたから。
アダム・ランバート(シンガー):僕がクイーンを知ったきっかけがあの映画だった。イギリスでのクイーンは音楽史の一部だし、アメリカでもとても人気がある。でも僕の世代は、特にあの当時は、クイーンを知る人はほとんどいなかったよ。『ウェインズ・ワールド』は父と兄弟と一緒に観に行ったんだ。その夜は男だけのお出かけって感じで、僕は10歳だった。あのシーンは天才的だよ。当時、クイーンなんて全然知らなかったのに、あの演劇風でおちゃらけた曲が僕の頭の中でガンガン響いていたもの。父に「あれは誰?」と聞いたら、父が「クイーンだよ」って。家に戻ってから父がアルバムを引っ張り出してきて、僕に聞かせてくれた。「うわー、このバンドって僕が好きそうな音楽やってる」と思ったね。

メイ:あれはアメリカで大ヒットした。あのとき、2つの出来事がほぼ同時に起きたんだ。『ウェインズ・ワールド』の公開とフレディの他界。当時を思い出すと、偶然にしては本当に奇妙なめぐり合わせだし、あれがきっかけでクイーンがアメリカで復活したわけだ。
ランバート:クイーンを発見するのに、僕は奇妙な回り道をしたわけだ。そんな僕が彼らとワールドツアーをしているんだからね。メンバーはそんな状況を面白がっているよ。
ターゲセン:今ではいろんな映画であのシーンをオマージュしているよね。
サリヴァン:あれは、ある意味で完璧なシーンだった。当時はみんなそう思ったんだ。そして時を経て文化的なアイコンにまでなったけど、当時の僕たちはそんな未来などまったく想像していなかった。ただ、あのシーンには大切な何かがあることだけは感じていたけど。
スフィーリス:あれは元気いっぱいな青春を濃縮したシーンよ。あの歳の若者はあの感覚が大好きだと思うし、大人世代も青春を思い出してあの感覚を楽しむし、青春前夜の子どもたちは大きくなったらあんなふうにしてみたいと思うわけ。
サリヴァン:あの映画は大ヒットしたし、あの映画に特別なつながりを見つけて、みんな圧倒されるんだ。つまり、あの年頃の自分があそこに投影されるから「これは俺の映画だ」と思うわけだ。
マイヤーズ:何もかもが本当にシュールに思えた。当時の僕はあの映画が公開されることすら知らなかったし、公開後の反応も想像を遥かに超えていた。仕事人として最高に満足した経験だったよ。
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