『ロケット・トゥ・ロシア』から『サブタレイニアン・ジャングル』まで、ローリングストーン誌読者の人気投票による、ラモーンズのアルバムトップ10ランキングとそのアルバムにまつわる話を紹介。

運命はラモーンズに優しくはなかった。
(ニューヨークの)クイーンズ出身のこの4人組バンドはパンク・ロックの発展に中心的な役割を果たしたが(実際、過去40年で最も人気のあった音楽である)、ヒット・シングルと呼べるものはなく、彼らは最後のライブを迎えるまでライブハウスでライブをし続けた。2000年代に入り、ついに彼らは世の中に評価され始めたが、それはジョーイ、ディー・ディー、ジョニーが数年の間に立て続けに亡くなった頃であった。2014年7月にトミーが亡くなったが、それはバンドのオリジナル・メンバーが1人もいなくなってしまったということを意味していた。彼らが残した功績は成長を続けており、新しいドキュメンタリーや書籍、2014年にはマーティン・スコセッシ監督の映画が計画されているとのニュースも報道された。米ローリングストーン誌の読者投票による、ラモーンズの人気アルバムを発表する。結果は以下のとおりである。

10位『プレザント・ドリームス』

1981年初期に『プレザント・ドリームス』の制作に取りかかり始めた頃、ラモーンズは意気消沈していた。ジョニーがパンクらしい曲を作り続けたがっていた一方、ジョーイは曲にポップ要素を取り入れることを望んでいた。ジョニーがジョーイの元ガールフレンドと付き合っていたことやマーキーのアルコール依存がひどくなっていたことも状況をさらに悪化させていた。このアルバムの1曲目のシングル「エアウェイヴス」には彼らの決意がはっきりと込められていたが人々には届かなかった。「KKK」のような見事な曲をリリースした時ですらラジオは彼らに見向きもしなかったのである。

9位『アニマル・ボーイ』

ラモーンズがブレイクする可能性がほぼ皆無であろうことは1982年までに明白となっていた。
10年間で9枚のアルバムをリリースしたが、彼らは新人バンドたちのようにライブハウス界隈で演奏する日々を続けていた。しかし、彼らは前に進み続けた。『アニマル・ボーイ』のハイライトは西ドイツのビットブルク墓地を訪れたロナルド・レーガンをこき下ろした「ハンギング・アップサイド・ダウン」と故シド・ヴィシャスを称賛した「ラヴ・キルズ」である。前者は生涯、共和党支持者であったジョニー・ラモーンを怒らせ、彼とジョーイの間にはさらなる亀裂が生まれた。

8位『サブタレイニアン・ジャングル』

1980年代初期のポップ寄りの作品で人気を獲得することに失敗したラモーンズは1983年の『サブタレイニアン・ジャングル』で彼らのパンクのルーツに回帰した。このアルバムのハイライトはディー・ディーとジョニーによって書かれた狂乱的な『サイコ・セラピー』である。「ハードコアの曲をやってハードコア・ファンたちに俺たちが誰よりも速くプレイできるってことを示したかったんだ。誰も俺たちより速くプレイすることはできない」とジョニーはローリングストーン誌に語っている。この曲はブラック・フラッグやサークル・ジャークスのようなバンドへの挑戦であったがアルバムの他の曲はザ・チェンバース・ブラザースの「タイム・ハズ・カム・トゥディ」やザ・ミュージック・エクスプロージョンの「リトル・ビット・オブ・ソウル」のようなカバー曲が占めている。。

7位『ブレイン・ドレイン』

あまり記憶に残らないアルバムを立て続けにリリースしていたラモーンズは1989年の『ブレイン・ドレイン』で一時的にその形を取り戻した。リード・シングル「ペット・セメタリー」はマイナー・ヒットとなりモダン・ロック・チャートで4位を記録したが、アルバム1曲目の「アイ・ビリーヴ・イン・ミラクルズ」がラモーンズの最もパワフルな曲の1つとみなされるようになり、パール・ジャムなど多数のバンドにカバーされている。
これによってラモーンズは返り咲くかと思われたが、その後ほどなくしてディー・ディーが結果的に失敗することとなるラップの道を追求するために脱退した。その結果、1990年代はバンドにとって不遇の時代となった。

6位『エンド・オブ・ザ・センチュリー』

1960年代ポップ・ミュージックの熱狂的ファンであるジョーイ・ラモーンズが伝説的プロデューサー、フィル・スペクターと「ビー・マイ・ベイビー」や「ふられた気持」が生み出されたゴールド・スター・スタジオでレコーディングできる機会を断るはずがなかった。不幸にもスペクターは1979年までに精神を病んだ狂気じみた人間なっており、ジョニーが彼と対立し始めるとバンドに延々と何時間も同じ部分をレコーディングさせたり銃を振り回したりした。関係したすべての人にとって狂気的な期間となったが、どうにか傑出したアルバムが生み出された。『リメンバー・ロックンロール・レイディオ?』や『チャイニーズ・ロック』、『ロックンロール・ハイ・スクール』はラモーンズの人気曲上位を占めている。

5位『リーヴ・ホーム』

デビュー・アルバムはビルボード200で111位に留まったがラモーンズはスタイルを変えず次のアルバムをレコーディングするためにスタジオに戻った。今回は1作目の時より多少予算も時間もあったため『リーヴ・ホーム』ははるかに良い仕上がりとなった。「ギミ・ギミ・ショック・トリートメント」や「ピンヘッド」、「キル・ザット・ガール」などを含め、このアルバムはほぼ全曲が紛れもない名曲である。残念ながら今作は1作目よりも売り上げが振るわず、148位に留まった。

4位『イッツ・アライヴ』

1977年のロンドンのレインボー・シアターでの大晦日ライブがラモーンズの明らかなピークであった。テープを回しながら電光石火のごとく演奏された28曲はラモーンズのライブの決定的な記録『イッツ・アライヴ』となった。
1996年の最後のライブまで新曲を数曲加えつつもほぼ同じ構成でライブを続けたが、特に翌年トミーが脱退してしまったこともあり、彼らからこのライブほど勢いを感じることはなくなってしまった。ラモーンズのライブ・アルバムは数多いが本当に聞くべきアルバムはこの作品だけである。

3位『ロード・トゥ・ルーイン』

『ロード・トゥ・ルーイン』は1作目から約2年後にリリースされたラモーンズ4枚目のアルバムである。今作はヒットさせるために、結果的に報われない努力となってしまうが、彼らはそれまでのやり方を変えるという決断をしていた。ギター・ソロがあればバラードもあり、アコースティック・ギターを使ったりもした。その作戦は成功せず、アルバムは100位にすら届かなかったが、もし世が世なら「アイ・ウォナ・ビー・シディテッド」は1978年を代表する1曲になっていただろう。しかし、実際はアンディ・ギブが「愛の面影」と「シャドー・ダンシング」の2曲が大ヒットを記録している。

2位『ラモーンズの激情』

ラモーンズのデビュー・アルバムがいかに革命的なものであったかを感じるために、リリース月のアメリカ国内のトップ・ヒット曲を振り返ろう。ジョニー・テイラーの「Disco Lady/ディスコ・レディ」が1位、続いてベラミー・ブラザーズの「愛はそよ風」、マキシン・ナイチンゲールの「愛とは強いもの」、シルヴァーズの「ブギー・フィーバー」であった。このポップ・ミュージックの隙間に革ジャンを着た態度の悪いクイーンズ出身の4人組がシンナー吸引や男の売春や様々な暴力行為を歌った曲を引っさげて入り込んできたのだ。

このアルバムはラジオシティ・ミュージックホールのスタジオでたった7,000ドルでほんの数日でレコーディングされた。トミー・ラモーンズは亡くなる少し前に「エンジニアは俺たちがやろうとしていたことを理解できなかったんだ。
彼はただ同じ曲を何回も繰り返しレコーディングしていると思っていたはずだ」とローリングストーン誌のデイヴィッド・ブラウンに語っている。

このアルバムはすばらしい反応と評判を得たが商業的成功には至らなかった。しかし、レーベルはバンドを信じ、彼らにアルバムを作り続けさせた。結局のところ、本当に重要なのはそこなのである。

1位『ロケット・トゥ・ロシア』

1977年の夏に『ロケット・トゥ・ロシア』の制作に入るまでにラモーンズは順調に活動をするようになっていた。3年間ノンストップでツアーを周り、すさまじいペースですばらしい曲をリリースし続けていた。セックス・ピストルズのワイルドな振る舞いによってアメリカのメディアがパンク・ムーブメントに注目し始め、これがついにラモーンズがブレイクするきっかけとなるアルバムになるかもしれないという希望があった。リード・シングル「シーナはパンク・ロッカー」は実際ビルボード・ホット100入りを果たし、最高81位を記録した。多くのバンドにとっては控えめな成功であるかもしれないが、ラモーンズにとっては大きな成功だったのである。

過去最大の予算が与えられ、「ロッカウェイ・ビーチ」や「ハッピー・ファミリー」のような曲がヒットしない理由はなかった。しかし、どういうわけかヒットには至らず、アルバムは49位に留まった。これによってバンドは大きなダメージを受け、その後ほどなくしてツアーと絶えることのないバックステージでのケンカに疲れ果てたトミー・ラモーンは脱退した。
幸運にも彼はラモーンズに参加した最後のアルバムが1970年代において最高のアルバムの1枚と評価されるようになるまで生きることができた。
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