東京でも大阪でもない、静岡が生んだ異色のエクストリームお笑い芸人=ハリウッドザコシショウ。1992年、大阪NSC11期生として入学。
陣内智則、中川家、ケンドーコバヤシらと同期で大阪・心斎橋筋2丁目劇場を中心にコンビで活動を続けるが、99年には事務所を辞めて上京。その後の2000年代のキャリア(コンビ解散~ピン芸人として再始動)はザコシいわく「地獄」だったそうだが、『あらびき団』出演などを経て、42歳で「R-1ぐらんぷり2016」優勝(史上最年長王者での優勝だった)。

……という経歴だけ見れば「遅咲きの苦労人」というイメージを持たれるかもしれない。しかしザコシの尖った芸にそういったストーリーは不要である。最近はバラエティ番組のTV出演も増えているものの、その「軸」はまったくブレていないのだ。毎日、深夜0時~6時頃に自身の公式YouTubeチャンネル「HollywoodZakoshisyohザコシの動画でポン!」に投稿される自作動画の数々を見てほしい。延々と続く福山雅治の「誇張しすぎたものまね研究所」シリーズ、今時のゲーム実況とは遠くかけ離れたファミコン攻略など、そこにはザコシの芸を形成するネタが山ほどある(そして一度ハマるとやみつきになる)。実際、ドキュメンタルのシーズン7で話題を集めた「サブリミナル」の映像や「殺すぞ」の映像も元々はこれらの投稿作品がベースになっている。

「ハリウッドザコシショウのミニ単独ライブツアーSEASON⑪ツアー珍棒」東京公演1日目の開演前、ザコシ本人がインタビューに応じてくれた。

ハリウッドザコシショウ、狂気の「芸」が生まれた背景と10年続けた動画投稿


静岡出身芸人のコンプレックス

─ザコシさんは静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身ですよね? 大阪、東京と転々とした今でも、ネタ中に「だっけや」、「バカすげえ」とか静岡弁が色濃く残っているのが印象的です。

ザコシ:最初は静岡で同級生とコンビを組んで、高校卒業してすぐ大阪NSCに入学したんですよ。5週連続で勝ち抜けば吉本興業に所属できるっていう吉本二丁目劇場のオーディションがあったんですけど、僕らは静岡弁が強いから大阪のお客さんが引いてしまって笑いにならなくて。
そこで万国共通のものを入れようと思って考えたのが、ツッコミのタイミングで「喚く(わめく)」とか「発狂」を入れるということで。そこから芸風がおかしくなっていったという感じです(笑)。

─静岡弁でやるとウケないから、変化球的に奇声を発したらウケたと。

ザコシ:ウケてはいないんですけどね(笑)。

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─(笑)静岡の人は地元が好きな印象があります。

ザコシ:今は好きなんですけど、若い時は静岡出身というのが恥ずかしくて。ちょっと中途半端な感じがしてダサいと思っていたんです。だから高校を卒業してすぐ大阪に行ったし、吹っ切れてわざと強く静岡弁を話していたこともあります。それを同期のケンドーコバヤシとか中川家とかが面白がって、静岡弁で関東寄りのツッコミをするようなことをしていて(笑)。同期間ではそういうやりとりしていました。

─高校を出て、東京に行こうという選択はなかったんですか?

ザコシ:養成学校に入ろうと思ったとき、ダウンタウンさんを輩出したNSCと、ウッチャンナンチャンさんを輩出した日本映画学校(現:日本映画大学)があって。学費を見たらNSCは当時入学金5万円だったんですよ。
相方が貧乏だったので選択肢が大阪のNSCしかなかった。もし相方が裕福だったら、日本映画学校に行っていたかもしれないし、芸風もアンジャッシュみたいになっていたかもしれないですね(笑)。芸風も一緒に絡む人によって変わってきますから。実際、静岡にいた時は内気で、こんな頭おかしいことをやるような性格じゃなかったんです。誰の影響かって言ったら、バッファロー吾郎、なだぎ武さん、リットン調査団、そこら辺と絡んだからこうなっちゃったんですよ(笑)。

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ザコシのお笑い原体験

─大阪の人だと、子供の頃から劇場に連れて行ってもらったり、土曜日に新喜劇をTVで見たり、笑いの原体験があるじゃないですか。でも静岡ってお笑いの劇場はないしTVで新喜劇もやってない。ザコシさんのお笑いの原体験ってどこにあるんでしょう?

ザコシ:大阪の芸人さんで言えばダウンタウンさんですね。でも一番影響されたのは、ビートたけしさんとドリフターズさん、あと竹中直人さんです。昔、深夜番組をザッピングしていたら、たまたま竹中直人さんの番組「東京イエローページ」にたどり着いて、竹中さんが白目を剥きながらヨダレを垂らして絶叫するコントをやっていたんです。「これはすごいなあ、こんなお笑いあるんだ」と思ってハマっちゃって。最初は自分でそういうことをやろうとしても、なかなか笑いにならなかったんですよ。
最近でこそ、単独ライブとかでやっても受け入れられるようになってきましたけど。単独ライブは11年くらい前からやっていて、今一応世間で広まった誇張モノマネも、単独ライブの中でやっていた「ものまね30連発」ってコーナーをちょっと分かりやすくしただけなんですよね。30連発の中のいいやつだけ8個連発してR-1仕様にしただけ……なんの話でしたっけ(笑)?

─竹中直人さんの影響の話です(笑)。

ザコシ:そうだ(笑)。ツッコミなしでリアクションだけの東京のお笑いって本当に難しいですよね。竹中さんも元々コメディアンで世に出ましたけど、映画が好きで、演技の延長としての間の取り方をしていたり、そういう部分もあるから笑えるんでしょうね。

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─静岡の人って、気質でいうと穏やかじゃないですか。ご自身が大阪に行ってNSCに入った時、カルチャーショックは感じましたか?

ザコシ:そりゃあ、感じましたよ(笑)。皆すごく前に出てくるから。今でもそれはちょっとしんどい時はあります。大阪では、つまんない芸でもとりあえず前に出ておけば、ちょっと人気が出てくるようなところもあって、最初は自分はできなくてしんどかった。そこをカバーしたのが、頭のおかしいハイテンション芸だったんです。
今はもう慣れちゃって、そこまでしんどいなと思う時はないですけどね。一度コツを掴んでしまえば、「あーザコシショウだ。変なモノマネするんでしょ」っていう感じで見てくれてるから(笑)。

振り返りたくない地獄の上京生活

─その後、吉本を離れることになって、東京に来ることになるわけですけど、そのあたりの時期はザコシさんにとってはどういう時期だったんでしょう?

ザコシ:振り返りたくない時代ですかね。地獄でしたから。お笑いも『爆笑オンエアバトル』とか『笑いの金メダル』くらいしかなかった時期で。吉本を離れてワタナベエンターテインメントに入って、毎週大喜利をやる深夜番組にガチっとハマって、半年くらいレギュラーがあったんですけど、その番組が終わった時にG★MENS(※ザコシが相方の静岡茶っぱと組んでいたユニット)も解散したんですよ。急にピンでネタをやれるかって言うとやれなくてホント困りましたね。それで事務所も辞めたし、面倒くさくなっちゃってお笑いを辞めようと思って、フットボールアワーの岩尾くんの元相方の漫画家に漫画の書き方を教えてもらって出版社に持ち込みに行ったんです。G★MENSのショートコントを漫画にして持って行ったんですけど、「クソつまんねえ、お笑いの仕組みを分かってない」って言われて(笑)。そこで「お前に言われたくねえ、じゃあお笑いやるしかねえ」と思ったからお笑いに戻ってきたんです。あの時に「いいね、面白いね」って言われていたら漫画家になっていたかもしれないですね。


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─ソロのキャリアをスタートして、最初から順風満帆だったんでしょうか。

ザコシ:全然順風満帆じゃなかったです(笑)。R-1で優勝するくらいまでは地獄でしたよ。でもやりたいことはずっとやっていたから、そんなに苦じゃなかったですけどね。

─基本は毎日楽しく暮らしてはいたけど…… みたいな。

ザコシ:そう。その後にソニー(SMA)に入ったんですけど、昔から吉本で知っていたバイきんぐと合同ライブをやろうよってことになって。それがきっかけで、イベントに芸人が集まるようになって、ハリウッド軍団が生まれた。ソニーのBeach V(びーちぶ)っていうお笑いの稽古場兼劇場に慕ってくれる後輩がいっぱいいたんですけど、みんなお金もないから集まって安い素材を買ってきて鍋をしたり、アホなこと言い合って。そんな日々を送っていたんです。R-1で優勝する2、3年前くらいから本格的に優勝したいなっていう気持ちが芽生え始めてきて。結果的に静岡から出て23年くらいかかって、ようやくお笑いだけで食えるようになったんです。


売れない焦燥とネタ番組での勝ち方

─30歳を過ぎると、同級生も結婚して家庭を持ったり、会社員の人はそれなりに仕事ができるようになっていくと思うんですけど、焦りはなかったんですか?

ザコシ:そりゃあ、焦りはありましたよ。定期的に『あらびき団』とかに呼ばれていたし、そこでバカスベるってこともなかったけど、単発で跳ねても売れるまでは至らなくて。正直、芸人の間でも「ザコシさんは面白いけど、やっぱり売れねぇのかな」みたいに言われていて。金も無いし歳もいっちゃっているから、実績を残さないと後輩もついてこない。どうしたら売れるのかなってことを考えていたのがR-1で優勝する3年くらい前のことですかね。当時は、あらびき団でやっていたスタイルとか、1人コントのスタイルとか、やれることはいっぱいあったんですけど、R-1で1位を獲るには至らないものばかりで。そのとき単独ライブでの反応を見ていたら、モノマネ30連発がウケたんですよ。そこで、モノマネってわかりやすいのかなと思って。そこに僕のやりたい、ちょっとクレイジーなテイストを入れられれば、R-1で決勝まで行って優勝できなくても、スギちゃんみたいになれるかな、ってことを考えて目標にしていましたね。

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―R-1ぐらんぷりのみならず、ドキュメンタルでも2回優勝されていますよね。ドキュメンタルで、勝つための戦略って何かあったんですか?

ザコシ:R-1は3分のネタじゃないですか。なので、発言+表現方法でどれだけ多くボケを言えることができるか、自分のやりたいことをやりつつ世間に伝わる工夫をしないと優勝できないと思って組み立てました。一方、ドキュメンタルっていうのは、プロレスで言うと「プロレスが上手くない」とダメなんですよ。他人のボケを受けつつ返し技をすると更に高みのボケになる。お笑いの玄人を笑わせるっていうのはなかなか難しいですよね。そもそも、これでお客さんは笑うだろうなと思ってやる芸じゃ笑わないんですよ。しかもドキュメンタルは、芸人を殺して生き残るっていうルールじゃないですか。なので、やりたいことをやってばかりでもダメで。予期せぬ何かを仕掛けないといけなかった。

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10年間続けてきたYouTubeへの動画投稿

―ドキュメンタルのシーズン5と7の2回に参加されていましたけど、その2回では何か自分の中で違いはありましたか?

ザコシ:シーズン5の時は、今までやってきたことをやればよかったんですけど、シーズン7は1年後だったのでなかなかしんどかったです。逆に星の数ほどボケがあるから何をやればいいかなと悩んでしまって(笑)。実は僕YouTubeに頭のおかしい動画を10年くらいアップし続けているんですよ。その日々の鍛錬がよかったのかなって思いますね。YouTubeに上げている動画も、10年前と今じゃ力量がえらい違うんですけど。10年前はただネタをやるだけで、人と絡むってことにそんなに重きを置いてなかった。自分のペースでうまいことやれればいいかなって思っていたんです。そんなとき、たまたま持っていたデジカメに3分くらいの動画を撮れるシステムがあったから、Amebaのブログの中に毎日3分の動画を撮ってアップし始めたんです。『あらびき団』に出ていない時期は時間もあったから、空いた時間に動画でひたすらやりたいことをやっていました。

―日々の映像の蓄積があって、それを如何に武器にしていくかということが勝利に結びついたと。今でこそYouTuberってたくさんいますけど、10年前から動画をコツコツ投稿してたのは、他の芸人さんと比べてもかなり早いですよね。

ザコシ:早いでしょうね。僕が1番じゃないですかね。

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―日々の動画を作る上で影響を受けていたものはあるんでしょうか?

ザコシ:それは、松本人志さんの『一人ごっつ』ですね。30分の中に、大喜利もあり、1人コントもあり、絵のコントもあり、企画もあり、5、6個コーナーがある。すごくいい構成だなと思ったんです。あれも松本さんがやりたいことだけをやっている番組だったから、自分も好きなことだけを詰め込もうと思って。

―昨今のYouTuberって再生数を稼ぐことが念頭にあると思うんですけど、ザコシさん的にはそこらへんどう思われているんでしょうか?

ザコシ:全くそういう考えはないです(笑)。自分がやりたいことをやるための捌け口としてやっているし、ぶっちゃけ見てくれなくてもいいと思っている。コメント欄で文句を言われることもあるんですけど、自分のやりたいことをやっているだけだし、無料で観れるわけじゃないですか? 観てくださいとも言ってないのに、文句だけ言うんじゃねぇよって感じですよね(笑)。なので、お金を稼ぐための動画っていうことでは全くないです。直接僕宛に商品の宣伝依頼のオファーとか来ても全シカトですね。

 

お笑いの中で息づく音楽センス

─音楽についても聞きたいんですけど、ザコシさんの好きな音楽は?

ザコシ:テクノが好きです。スマホの中に入っている音楽も特定のテクノ系のアーティストしかなくて。ただ、フジロックは、バイきんぐの小峠くんとよく行っていましたよ。ライブ当日は雨が降ると思って、機動力をあげようと思ってゴム草履で行ったんですよ。でも、ゴム草履って鼻緒の部分が靴底の面を貫通して引っ掛かっているじゃないですか。ぬかるんだ地面に足を取られちゃってゴム草履が壊れちゃう。裸足同然になっちゃって、周りの靴を履いている人が踊っていて、足を踏まれてすげえ怖かったですね(笑)。小峠くんと2人で「失敗したなあ」って。ゴム草履で行くもんじゃないですよ(笑)。

―(笑)。ネタの中で、ファミコンの音とかも入れたりするじゃないですか。あれもある程度音楽センスとかないとできないと思うんですよ。

ザコシ:小峠くんも言っていたんですけど、リズム感のないお笑い芸人ってあまり良くないんですよ。彼の「なんて日だ!」ってツッコミも、正しい間があって、それを自分で打てるから成り立っている。遅くても速くてもダメ。絶対にここだってリズムがあるから、間がズレちゃうとすごく気持ち悪くなっちゃう。やっている方も気持ち悪いし、お客さんもそう思うんじゃないですかね。

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―最後に、ザコシさんの好きなプロレスについてもお伺いしたいです。プロレスカルチャーがザコシさんのお笑いに影響を与えていると思いますか?

ザコシ:それはあると思いますね。ハリウッドザコシショウって名前もハリウッド・ハルク・ホーガンから取っているし。そういうところからアイデアをもらって自分なりに表現していますね。プロレスでも、スーパーベビーとかあんまり好きじゃなくて。ちょっと悪い感じのあるベビーフェイスっていうのが1番良い。ストーン・コールド・スティーブ・オースチンとかロック、ケビン・オーエンズもそうですよね。ベビーしかできない人より、ヒールもできてベビーもできるっていう方が魅力的だと思いますね。

―ご自身の笑いも、ヒール的でもあるしベビーでありたいと。

ザコシ:そうあるべきじゃないかなと思いますね。ただ、本当にベビーフェイスで、女の子にも人気がある人も必要なんですよね。そういう人がいないと、僕らみたいな人間は対立できないから。その人達あっての僕らだから。NON STYLEあってのハリウッドザコシショウという感じですね(笑)。

Edited by StoryWriter

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<公演情報>

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ハリウッドザコシショウのミニ単独ライブシリーズ SEASON⑪ツアー珍棒-1
「漫棒ザコシの劇場版ヘクサー魔美」
2019年8月1日(木)東京 座・高円寺2(※終了)

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ハリウッドザコシショウのミニ単独ライブシリーズ SEASON⑪ツアー珍棒-2
「尿棒ザコシの劇場版チョゲ子チョゲ雄Zガイキチユーモア短篇集」
2019年8月2日(金)東京 座・高円寺2(※終了)

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人材派遣のアイエーイー Presents 
ハリウッドザコシショウのミニ単独ライブシリーズ SEASON⑪ツアー珍棒-3
「玉棒ザコシの劇場版ジョンジョンの奇妙な師匠」
2019年8月31日(土)静岡 SOUND SHOWER ark 清水
(※チケットSOLD OUT)

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ハリウッドザコシショウのミニ単独ライブシリーズ SEASON⑪ツアー珍棒-4
「糞棒ザコシの劇場版教祖変態キチボン」 昼公演
2019年9月1日(日)大阪 道頓堀 ZAZA HOUSE
(※チケットSOLD OUT)

ハリウッドザコシショウのミニ単独ライブシリーズ SEASON⑪ツアー珍棒-4
「糞棒ザコシの劇場版教祖変態キチボン」 夜公演
2019年9月1日(日)大阪 道頓堀 ZAZA HOUSE
(※チケットSOLD OUT)

https://www.sma.co.jp/s/sma/artist/382?ima=0000#/news/0
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