ーまずは83年の世相を振り返ってみたいのですが、ディズニーランド開園、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』放送、パソコン、ワープロが家庭に普及、などがありますが、そのあたりどうでしょう。
まず83年は僕にとって人生一番の転機で、この83年の転機があったからこそ今の自分があり、本当に今の土台ができた年ですね。学年でいうと中1になった年で、今まで近所の公園で遊んでいた子供が段々いろんなところへ出向くようになり、ある意味”王道じゃなくなっていく”年ですかね(苦笑)。本当によく覚えている年です。と、いいつつ王道のディズニーランドも行きましたけどね(笑)。『おしん』は、当時「おすん」ってよく真似してましたよ。「おす~ん」って(笑)。
ー83年の市川少年はどんな感じでした? 世間的にはファミコンも発売された年ですが。
僕、この頃ゲームが大好きだったんですよ。当時、ファミコンが発売になり世の中的にも大きな出来事だったんだけど、ファミコン以前の小学生の頃は、任天堂ゲームウォッチとか、LSIゲームっていう電池を入れて光るゲームが主流だったんですよ。で、僕は、ファミコン発売の前の年の82年にカセットビジョンっていうのを買っちゃったんですよ(苦笑)。
ーその頃ファミコンで遊んだソフトってなんですか?
『ドンキーコング』『マリオブラザーズ』。あとはすごい渋いゲームなんだけど『ナッツ&ミルク』あたりかな。ファミコン全盛になった時に、ファミコンはすごい欲しかったんだけど、あえて人と違うことをやる僕的には、セガのゲーム機を買ったんですよ。でも85年にファミコン買いましたけどね、結局は(笑)。やっぱり『スーパーマリオ』が出た瞬間にこれはもう友達ん家でやってらんないと。自分の家で一回カメをひっくり返して何百機も増やしてましたね(笑)。
あとはパソコンですかね。富士通シリーズの。当時ゲームがやりたいがためにMSXも買いましたもん。だから結構遠回りしてるんですよ、ファミコンに行き着くまでに(笑)。
ー中1である意味プログラミングをしてたってことですよね?
いや、結局そのゲームしかやらなかったです。その後、ファミコンとかセガとかに流れちゃったから(プログラミングは)一切やめちゃった。その時、プログラミングにハマっていれば今頃音楽をやってなかったかも(笑)。
ー83年に限らずファミコンって本当に一大ムーブメントだったわけですが、その頃の思い出深いエピソードはあります?
僕は最後まで意地になってファミコンを買わなかったから、友達の家にとにかく遊びに行ってファミコンをやったり、ゲームセンターでゲームをやり行くっていう日々で。毎日学校終わったら大体ゲームセンターでしたからね。
ーちなみに83年の映画はどうですか?
『E.T.』行きましたよ! 『E.T.』はちょうど83年、まだ小学6年生だったんですよ。でちょうど中1になる年、それで小学校6年生で観に行って子供心にすげぇ感動したのを覚えてる。渋谷は映画館も多かったから、だいたい娯楽と言ったら映画を観に行くかゲームセンター行くかで。ジャッキー・チェンの『プロジェクトA』を映画館で7回ぐらい観てますね(笑)。その後、ビデオで何百回も見るくらい好きで(笑)。
ーキン肉マン消しゴムとかどうですか?
キン消しは、そこまでハマらなかったですけど、小学生の時はマンガでキン肉マンを読んでましたね。僕はプロレス少年だったから。
ーちなみに83年は第1回IWGPが開催されて猪木がアックスボンバーで失神した年ですね。
でもこの頃からプロレス離れが始まっちゃったんですよ苦笑。中学生あがったくらいから離れちゃって。小学校3年ぐらいからプロレスを見るようになったんで、ちょうど80年ぐらいですかね。そこから小6年ぐらいまでの間はプロレス少年だったんですけど、途中でジャッキー・チェンが入ってきちゃって、僕の中で小学校までは、ジャッキー・チェン、アントニオ猪木、タイガーマスクが、並行して好きだったんですよ。で、83年頃には、音楽でいうと、アナーキーとかスターリンは既に聴いていて、RCサクセションとかも、兄貴が好きだったら耳にはしてたんですよ。今でもアナーキーとかスターリンの昔の映像見るのがすごく好きで、その80年代の感じってすごく好きなんです。80年代の前半の渋谷って大好きなんですよね、ホント。
渋谷ロケが多かった『西部警察』『探偵物語』
ーその頃の渋谷ってどういう街でした?
子供の頃よくテレビで見ていた『西部警察』とか『探偵物語』とか、渋谷ロケが多くて、「あれここだ!」とか、今でもよく思います。イメージはあの頃の感じですね。当時覚えてるのは今の電力館あたりが、確か『太陽にほえろ!』の七曲署の場所だったかと(笑)。『西部警察』がロケしているのをしょっちゅう見ていましたね。中目黒、目黒銀座商店街とかも。
ー83年頃のファッションとかどうですか?
今日もしてますけど、80年代に流行ったGIベルト(ガチャベル)ですよね。三角に折って巻いて通すんですよ。これが僕らの、80年代初頭の着こなしというか(笑)。小3から「半ズボンを履かない! 違うぞ!」という感じだったので、ボタンダウンのシャツとか兄貴のお下がりとかを着てたり、普通にVANの服も着たりしてましたね。あと流行ったのはたぶんスウェットの上を裏返しにして着るっていう着こなしがあったんですよ(笑)。うちの小学校だけの流行りだったのかな……。今ってスウェットの裏地って起毛じゃないですか、昔はタオル地みたいなものだったんですけど、裏返して着ると生地の縫い目の線とかが逆になって、それがかっこいいと思って着てましたね(笑)。僕は小学校3年まで意地になって半袖・半ズボンで1年間過ごしてた人間なんですけど、小学校3年のある日に、突然半袖・半ズボンをもうやめようと思ってやめたんですよ、急に。
ー何かきっかけがあったんですか?
ちょうどオシャレというものに興味を持ち始めて。今回は83年がテーマですけど、70年代の話を少しすると、小学校2年くらいの78~79年くらいに日本にもスケボーブームが来たんですよ。
で、普通のママチャリを自転車屋さんで買って改造して、ハンドルをチョッパー風に長めなやつにしたり、椅子のシートを長くして、後ろの泥除けのカバーのところをバイクみたいにビニールの長い泥除みたなのをけつけたり、グリップも変えたりね。ただ、すげぇショックだったのが、その椅子だけ盗まれたんです(苦笑)。で、ママチャリをチョッパーじゃなくハンドルを絞って乗る「ヤンキー」の文化がその後から来るんですよ。
あと、82~83年ぐらいだと思うんけど、チャリンコで「カマキリ」っていうのが発売されたんですよ。あれは衝撃だったなぁ。何台も乗り換えているんですけど、一番最初に買ったのは赤でしたね。ラッパが付いてたりペダルを後ろに漕ぐと止まったりするっていうのが当時衝撃で。83年はカマキリを乗り回して学芸大学、中目黒、渋谷に行ってましたね。竹下通りにも行きました。ラフォーレとかが衝撃で(笑)。あと原宿プラザっていう地下にいろんなショップが入っているビルがあって、そこによく行ってましたね。メタルショップとかパンクショップがあって。その頃「デップ」という整髪料を使い始めまたんです。 小学生の時まで整髪料なんて興味ないじゃないですか。ちょうど中学になるとそれ以前は「大人チック」とか「柳屋のポマード」ぐらいしかなかったんですけど、デップっていうものが出てきて、それが衝撃で(笑)。中学生ぐらいから頭立て始めたんですけど、デップ買うお金がない時は砂糖水で頭立ててましたもん(笑)。
ーダイエースプレーはもっと後ですよね?
碑文谷のダイエーまでしょっちゅう買いに行ってましたよ、カマキリに乗って(笑)。で、その頃ダイエースプレーよりももっとハードな「エメラルド」っていうスプレーがあったんです。僕はそれを使ってましたね。原宿プラザにも売っていて、本当にガッチガチになるんです。もうなんなら洗っても取れなくなるぐらい(笑)。高田馬場の美容専門店があってプロみたいな人しか買えないみたいなところなんですけど、そこで「紫デップ」っていうのも買ってましたね。普通のデップって透明なチューブなんですけど、紫デップはカップに入ってて、そこから手で自分で取るタイプ。すごくいい匂いで、それを着けてエメラルドで立てると最強という(笑)。
ジャッキーの映画に夢中だった時に出会ったセックス・ピストルズ
ーそれはピストルズの影響だったんですか?
それもあります。だから83年という年は、僕がプロレス少年から音楽にハマる人生の転機ですね。4つ上の兄貴がいるんで音楽は早くからいろいろ聴いていて、80年頃は、邦楽はYMOとか、洋楽はブロンディ、KISSとかかな。そこからどんどん激しくなっていって、セックス・ピストルズをうちの兄貴が聴くようになって、僕もすごく好きになってハマって。で、日本にもアナーキーとかスターリンとか、それ以前だとRCサクセションとかいましたけど、僕は『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』が決定的でしたね。うちにビデオがあったんです。僕が毎日ジャッキー・チェンの映画を観てたら、兄貴が持ってるビデオで何か得体のしれないものがあるわけです。「なんだこの見たことない気持ち悪い感じは」と思って。ジョニー・ロットンの歌い方があまりにも怖かったんですけど、同時にハマっちゃって。それが字幕なしのビデオで何言ってるかわかんないから、字幕のあるビデオを借りてこいと兄貴に言われて、今の渋谷の東急ハンズ前あたりにあったレンタルビデオ屋さんに借りに行ったんです。3坪くらいの店だったかな。
ー輸入ビデオ屋みたいな?
そうですね。パンクの兄さんが店員やってて。でも『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』が貸し出し中だったんですよ。そしたらパンクな店員のお兄さんから「セックス・ピストルズ好きだったらこっちはもっといろんなバンドが出てるから面白いよ」って言われて借りたのが『D.O.A.』だったんです。ザ・クラッシュ、シャム69、ジェネレーションXあたりが出演していて、ピストルズ以外のバンドを知れたという。そこからパンク全般にハマって、渋谷の伝説のパンクショップ「ラモスカ」にも通うようになって、そこで初めてTシャツを買ったりしましたね。海外から輸入していて、ハンガー吊るしじゃなくてレコードのアナログと同じくらいのダンボールみたいなのに入ってTシャツをシュリンクパッケージして売ってたんですよね。その店が本当に大好きで。でも入るのも怖かった(笑)。レコードを物色するようにTシャツを探すんですよ。あと缶バッジが壁に1000発ぐらい打ってあって、万引きしたら殺すって書いてあって(笑)。
あとは「スマッシュ」っていうお店も行きましたね。イギリスのものとか、置いてある店で。覚えてるのはドクターマーチンが主流になってきたんだけど、スマッシュにだけホーキンスが置いてあったんですよ。やっぱドクターマーチンはパンクス、ホーキンスはスキンズっていうのがあって、自分はマーチンだけじゃなくてホーキンスも欲しくて、ホーキンスも手に入れるんですけどね。80年代の渋谷~原宿はすごく好きでしたね。
当時メタルも聴いていたんですけど、パンクの方がスタイリッシュで洗練されてると思っていて、メタルファッションがどうしても苦手で(笑)。メタルショップでもリストバンドとかパンクのものを売ってたりするから、当時はメタルとパンクの境界線が難しかった(笑)。「ブラックデニムにジッパー付いてる方がパンク」「細いんだけどストライプになってる方がメタル」みたいに(笑)。
ー83年頃の渋谷の魅力はなんですかね?
渋谷に行けば何でもあったということかなぁ。子供の頃から渋谷の床屋に連れて行ってもらってたんですよ。まだその場所覚えてるんですけど、今のタワレコの前あたり。すごく大きな店で、20人ぐらい客がいて「これぞ床屋さん!」っていう感じで、そこに行った帰りにマクドナルドを食うのが大好きだったんですよね。今でもマクドナルドはあるけど、そこのマックって当時、店内で食べられるところがなかったんですよ。2階がなくて路面でカウンターだけで。床屋の帰りにそこで買ってもらって店の前で食べて。なぜかわからないけど毎回メニューが決まっていて、いつもフィレオフィッシュを食べさせられてたんですよ(笑)。
僕の中では、中目黒~代官山~渋谷っていう、3駅行けるちょっとした冒険というか小旅行で、そこに行くと何でも揃ってたのが魅力ですかね。センター街あたりも最高でした。渋谷屋根裏もあって、さっきも言ったようにいろんな先輩や、マイノリティな感じが好きな人が集まるところで、そこからたくさん吸収してましたね。僕にとっての「83年の渋谷」はそんな感じですね。
それと、寂しいなと思うことなんですけど、東横線渋谷駅が変わる(地下化された)前に、その終点の渋谷駅の感じがすごく好きだったので写真を撮りに行きました。あそこは僕の子供の頃の「ザ・渋谷」ってイメージがあって。向かい側にはあのプラネタリウムもあったし、幼稚園の遠足がプラネタリウム(現在は渋谷ヒカリエ)だったんですよね。
1983年は「転機」の年
ーこの数年で渋谷駅周辺は激変していますが、寂しいですよね。
もちろん変わっていけばそっちの方が絶対に便利なのはわかるけど、今は駅が広過ぎてどの出口に出たらいいかが、一発でわからないんですよね(苦笑)。工事中っていうのもあってすぐに導線が変わっちゃうから。でもちょっと洒落てきてる感じがしますよ。渋谷警察の方(渋谷ストリームあたり)とかいい感じに。電車も遠くから乗り入れがあるから、いろんな人も来やすくなったのは良いのかなって思ってます。
今回は83年がテーマってことだったんだけど、渋谷限定みたいな話になってしまいました(苦笑)。でも本当によく遊びに行っていた場所が渋谷だったから。
ー1983年はイチさんにとって「転機」の年でもあったと。
プロレス大好きなジャッキー・チェン少年からパンクスへの変わり目が83年(笑)だった。あと大きいのはさっきも言った帰国子女の先輩ですよね。小学生って小学生としか遊ばなくて、外の公園とかで遊ぶけど、中学生になるとインドアになって先輩の家に遊びに行って、いろんなもの見せてもらったりして。それが83年で、ある意味大人への第一歩ってことですかね。
ーそれにしてもめちゃくちゃ記憶力がいいですよね?
そうですね。まあ、学校の勉強とかが頭の中に何も入ってない空っぽなんで(笑)。その分そういう記憶が詰まってるんです(笑)。次回の84年もたくさん喋りますよ!(笑)
LOW IQ 01
1994年、SUPER STUPID結成。99年にソロ活動スタート。LOW IQ 01 & MASTER LOW, RHYTHM MAKERS, MIGHTY BEAT MAKERS ,ANOTHER BEAT BREAKERなど、様々なアーティストの参加、人数編成で多様なライブ活動を繰り広げている。 2016年、LOW IQ 01が自主レーベル旗揚げ。第1弾リリースLOW IQ 01 & MIGHTY BEAT MAKERS名義1stミニアルバム を発売。2017年、自主レーベル第2弾リリースはフルアルバム『Stories Noticed』発売。 2018年、LOW IQ 01 & THE RHYTHM MAKERSツアーでは、フルカワユタカ(Gt)、山崎聖之(Dr)をメンバーに迎え、勢力的に活動している。2019年、ソロ活動20周年を迎えフルアルバム『TWENTY ONE』をリリース。ツアー開催、フェス、イベントへの出演が決定している。年末には20th記念イベントの他、毎年恒例の自主企画「MASETER OF MUSIC」も開催決定。20thイヤーから目が離せない。
http://www.lowiq01.jp/
LOW IQ 01 / Thorn in My Side
<LIVE INFORMATION>
「years and years 2019」LOW IQ 01 × TGMX
2019年11月20日(水)東京・新代田FEVER
OPEN 19:00 / START 19:30
2019年11月22日(金)名古屋 TOKUZO
OPEN 18:00 / START 19:00
2019年11月24日(日)大阪 雲州堂
12:30 / START 13:00 *昼公演
「LOW IQ 01 20th AnniversaryThe Extravaganza」
2019年11月30日(土)東京・新木場コースト
「MASTER OF MUSIC 2019」
2019年12月13日(金)東京・渋谷O-EAST
OPEN 18:00 / START 19:00
LOW IQ 01 & MASTER LOW
Hawaiian6
LOW IQ 01 & THE RHYTHM MAKERS +
http://www.lowiq01.jp/live