20年後の未来を予見していたかのような、1999年公開時から物議を醸したモダンクラシック映画『ファイト・クラブ』。今なお色褪せないその映画の魅力、デヴィッド・フィンチャーが監督が描いた世界を振り返る。


「俺を殴れ、手加減はなしだ」

我々は今、(厳密にいうならば2つの)絶対的なルールを破ろうとしている。トピックは『ファイト・クラブ』だ。逆立った髪とダビデ像を思わせる肉体美を誇る、リサイクルショップ勤めのハンサムでファンキーなその男は、それを決して口にするなと警告した。人々はスペースモンキーの集団が現れ、男らしさという価値観を奪い去ることを恐れた。だが真実と向き合うならば、株式仲介人やホスピタリティワーカー、警察官、安月給で身を粉にして働くホワイトカラーの男たちは、まさにそれを求めてあの薄暗い地下の空間に集ったのだ。社会に抑圧された彼らは、自身の男らしさが失われつつあることに危機感を覚えていた。彼らは生身の拳で殴り合うことで男としての誇りを取り戻そうとし、その喜びを全員で共有した。やがて彼らは自身に喝を入れ、その怒りの矛先を変える。幸運にもその感情は跡形もなく消滅し、社会が怒れる若者たちによって脅かされることは2度となかった。ジ・エンド。

(ここで映像がブレ始める。フィルムがリールから外れそうになり、ペニスの写真がサブリミナル的に挿入される)

1999年はアメリカ映画業史上稀に見る豊作の年であり、デヴィッド・フィンチャーが監督を務めた本作は同年の代表作のひとつだ。
ベネチア国際映画祭でのプレミア、そして制作会社の重役たちとの無数の口論を経て、チャック・パラニュークが1996年に発表した小説を基にした『ファイト・クラブ』は、20年前の10月15日に全米で劇場公開された。グラミー賞ノミネートを既に果たしていた期待の新人、主役として確固たる評価を獲得していた演技派俳優、そして頭角を現し始めていた注目の映画監督がタッグを組んだ同作は大きな話題を呼び、世界中の映画ファンに衝撃をもたらした(熱狂的ファンたちは数年後に発売されたDVDに飛びついた)。商業的には失敗と見なされた同作は、現在ではモダンクラシックとして認知されている。スーパーヒーロー映画から現在の狂った政治情勢まで、同作の内容はあらゆる物事に影を落としている。視聴者の横っ面を全力で殴りつけるようなこのカルトムービーの衝撃は、現在でも少しも衰えていない。

「何より重要なのは、ストーリーを煮詰めていくプロセスだ」1999年のFilm Comment誌でのインタビューで、デヴィッド・フィンチャーはそう語っている。パラニュークによる小説を読んだ彼は、レールの敷かれた人生に不満を覚え、異なる道を模索する青年像を描いた青春映画『卒業』との接点を見出した。ベンジャミン・ブラドックはその手段として両親の友人と関係を持ったが、同小説における名無しの語り手は他人に自分を痛めつけさせ、最後には何もかもを破壊するという手段をとった。当時35歳だったフィンチャーはクレジットカード会社の破滅には無関心だったが、現代の消費社会における虚無感の描写には強く共感を覚えたという(『ファイト・クラブ』公開10周年を記念するニューヨーク・タイムズ紙の企画で、フィンチャーはこう語っている。『チャック・パラニュークという人物にすごく興味を持った。彼の本を読んでいると、まるで自分の頭の中を覗かれているように感じた』)。

同作が脚本家としての処女作となったジム・ウールスは、小説における反社会姿勢の生々しさをスクリーンでどう表現するかという点に心を砕いた。
彼の試みを支えたのは、『セブン』を含む数作(クレジットされていないものを含む)でフィンチャーとタッグを組んだアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー、『真実の行方』『ラリー・フリント』『アメリカン・ヒストリーX』(庶民のヒーローを演じた)で圧倒的な存在感を示したエドワード・ノートン、そしてタイラー・ダーデンという超一級の男性アナーキストを『Girls Gone Wild』への回答へと転化させてみせたブラッド・ピットという3つの才能だった。28歳から40歳だった4人はその世代特有の価値観と、文化の深層に潜む醜く強力な何かを察知する稀有な感覚を共有していた。

そして何よりも、彼らはそれが風刺であることをよく理解していた。豊満な乳房を持つ男性キャラクターが登場し、男らしさという価値観の危険性に警笛を鳴らす本作は、ジョナサン・スウィフトの思想ともリンクする。「これはコメディなんだろう?」そう問いかけたというノートンに、フィンチャーはこう答えている。「もちろんさ。正真正銘のね」

そういった『ファイト・クラブ』の本質を悟った人もいれば、当然そうでない人もいた。

中には『Infinite Jest』(David Foster Wallace著)を思わせる比喩(IBM銀河系、マイクロソフト星雲、スターバックス惑星)や、果てしなくブラックなユーモア(ヘレナ・ボナム=カーターが象徴する死の女神、プロジェクト・メイヘムが発案した飛行機内での安全ガイド等)を難なく理解できた人々もいた。フィンチャーは後に、女性の方が笑うべきところに反応しやすい傾向があったと語っている。多くの男性は拳が骨を折る音、あるいは刃が骨に食い込む音に夢中で、肝心のパンチラインを聞き逃していたのだろう。

『ファイト・クラブ』公開から20年、本作が今なお色褪せない理由

『ファイト・クラブ』撮影現場でのヘレナ・ボナム=カーターとデヴィッド・フィンチャー

その一方で、ダーデンの哲学や女性蔑視的なバンパーステッカーに共感し、「自己改善はマスターベーションに過ぎず、自己破壊こそが答えなのかもしれない」と本気で考えた人々がいたことは、その裏返しだったのかもしれない。本作の公開後、本物のファイト・クラブがアメリカ各地で発生した。
またソーシャルメディアやチャットルームでは、世の中に不満を抱く人間同士の交流が生まれ、破壊は進化の第一歩だと主張した。彼らは怒りの矛先、そして目的意識を手にしたと感じていた。しかし彼らは、タイラーが率いたスペース・モンキーズが、ヘイトグループやテロリスト、ナショナリズム等からの前向きな退化を果たした、荒削りな知識人集団であるという点を見落としていなかっただろうか。

公開から20年を経てあらゆる状況が変わった現在、『ファイト・クラブ』に極端なまでの二元性が生まれているのはそのためだ。ニヒリズムを極めてスタイリッシュに描き、ほくそ笑みながらタブーやルールを犯すようなフィンチャーのアプローチは極めてスリリングだ(筆者は冒頭でアドレナリンが噴出する作品を他に知らない)。同作はエドワード・ノートンが醸し出すノームコアのバイブを最大限に活かしつつも、彼のエッジーな部分も描いてみせた(彼ほど見事にスクリーン上で自分自身を痛めつけた俳優はいないだろう)。ノートンとブラッド・ピットという2大スターの共演は今でも新鮮であり、ピットが演じたダーデンの破滅的キャラクターの魅力は健在だ。彼らの奇抜なファッションに今も憧れている人も少なくないだろう。何度観ても衝撃や新鮮さが薄れないのは、そういった部分にこそ理由がある。たくましくセクシーで、カリスマ性に満ちたあのキャラクターは文字通り想像の産物だったわけだが、すべてを投げ打って美しい何かを破壊するその姿が呼び起こす快感は、今でも少しも色あせていない。

今『ファイト・クラブ』を観れば、『MR. ROBOT/ミスター・ロボット』や無数のB級作品、そしてウィットを交えずに男性の怒りを描き出そうとした凡作(この記事はそれが筆者だけの意見でないことを示している)がその影響下にあることは明らかだ。同作はフィンチャーが監督として屈指の才能の持ち主であること、そしてピットが出演した今年度の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と『アド・アストラ』がその延長線上にあることを示している。
ノートンが『マザーレス・ブルックリン』の取材で同作に触れるたびに、世間はそれが彼のキャリアにおけるハイライトであることを再認識する。『ファイト・クラブ』の輝きは今も健在だ。

その一方で、映画の公開後にひとつどころか2つの「偉大な戦争」が勃発したという事実、そして2008年以降世界中で首をもたげている憂鬱感を考慮すれば、ビルが崩壊するシーン(BGMがピクシーズであろうとなかろうと)が2019年という時代にフィットしているとは言い難い。抑圧された男性たちが非合法の暴力を有害な信仰へと転化させ、インターネットと権力者たち(特にある人物)が猛威を振るう今の社会には、皮肉にも『ファイト・クラブ』が風刺したものが明確に現れてしまっている。

フィンチャーたちを責めるのはお門違いだ。彼らはカルチャーに反応した結果、思いがけずその核心をついたに過ぎない。しかし、その物語が「成熟」についてであるという自身の認識を大衆が共有してくれるだろうというフィンチャーの考えは、やはり希望的観測に過ぎなかった。『ファイト・クラブ』は、スーパーヒーローたちに独占されてしまう前のアメリカ映画業界が生んだマイルストーンだ。しかしなお、そこには我々が生きる現在、そして待ち受けているであろう未来が映し出されている。「俺たちはみんな、山のように積もった堆積物の一部に過ぎない」というステートメントは、未だかつてなく真実味を帯びている。かつて否定されたその言葉に、今なら多くの人々が共感するに違いない。
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