アルバム『ヨシュア・トゥリー』で描かれているストーリーの核心は移民物語だ。つまり、4人のアイルランドの男がアメリカを発見する旅に出発し、この4人が彼の地で発見したことが彼らに活気とともに激しい怒りも与えた。U2が1987年に発表したアルバム『ヨシュア・トゥリー』収録曲の歌詞は、その後どんどん大きくなっていく彼らの社会的良心を声高に語る一方で、この作品の音楽ルーツがブルース、ゴスペル、フォークに深く根ざしており、そこにアウトサイダー的なエッジが加えられている。ボノ、ジ・エッジ、アダム・クレイトン、ラリー・マレン・ジュニアの4人は、見知らぬ土地にいるストレンジャーだった。そして、この異国人という感覚がこの作品の最初から最後まで貫かれている。
「あの時期のサウンド以外の何物でもない」と、ジ・エッジがイギリスのドキュメンタリー番組「クラシック・アルバムス」の1999年に放送された回で語っていた。「あの作品には80年代的なメンタリティーは皆無だ。それとは全く違う場所から生まれたものだった。(中略)あのアルバムの制作中、その時期の音楽ビジネスの状況と自分たちは全く関係ないと思っていたし、両者の間には大きな隔たりがあると感じていた」と。
「あの作品は当時の音楽の流れとは完全に足並みがずれていた。あれは狂気だった。それこそ恍惚とした音楽とでも言ったらいいかもしれない」と、ボノがジ・エッジに同調した。
あれから30年を経た今でも、『ヨシュア・トゥリー』はU2にとって最も売れているアルバムで、ファンにとってU2の作品のクオリティを判断する基準となっている。『ヨシュア・トゥリー』発売から30年を記念して、来週に迫ったヨシュア・トゥリー・ツアー来日講演に先立ち、このアルバムの知られざる10の真実を振り返ってみたい。
1. 初期のセッションはジョージ王朝風の屋敷で録音されたが、この屋敷はのちにアダム・クレイトンが購入した。
アルバム・タイトルとジャケット写真がアメリカの南西部をイメージさせ、ボノが書いた歌詞がエチオピア、南アフリカ、チリ、エル・サルバドルでの人権を踏みにじる残虐行為に対する憤怒を表現しているが、U2の世界観を十分に表した5枚目のスタジオ・アルバムの大半がレコーディングされたのは、ダブリン南部のラスファーナムにある2階建てのジョージ王朝風の屋敷で、ここからアダム・クレイトンが通っていた大学が見渡せた。ここは、その数ヶ月前にジ・エッジが当時の妻アイスリンと一緒に家を探していたときに内見した一軒だった。「この家は俺たち夫婦には合わないと思ったが、もしかしたらレコーディングのために貸してくれるかもしれないとも思った。この屋敷はデインズモートと呼ばれていた。俺たちはウィックロー山地の麓にあるこのジョージ王朝風の古くて大きな屋敷に機材を設置したんだが、ここはアダムが除籍になったことで有名なコロンバ大学まで800メートルの場所だったよ」と、ジ・エッジがバンドの自叙伝『U2 BY U2』の中で述べている。

このやり方はこれが最初ではなかった。前作、つまり1984年のアルバム『焔(ほのお)』は、アイルランドのミーズ州にあるスレイン城でそのほとんどを録音していたのである。デインズモートの方が無機質なスタジオよりも刺激的だと信じていた彼らは、この古い屋敷の中にフル装備のレコーディングスタジオを設置することにした。1986年1月には、ダイニングルームがコントロール室に改装され、テープマシンとミキシングデスクが置かれた。巨大な観音開きの扉が取り外され、代わりにガラス製スクリーンが取り付けられて優雅な応接室が見えるようになっていた。この応接室はライヴルームとして使用された。堅木張りの床で吹き抜けというこの空間は、巨大な音響を生み出した。「『ヨシュア・トゥリー』の大きなドラム・サウンドはあの空間のアンビエント音だ」と、レコーディング終了後にこの屋敷の主となったクレイトンが言った(すかさず「きっと隣りの家に住む上流階級の連中の睡眠の邪魔をするために買ったのだと思うよ。アダムは絶対に認めないけどな」と、ジ・エッジが冗談を放った)。
U2はウィンドミル・レーンやSTSスタジオなどの普通のスタジオを使用することもあったが、バックグラウンド・トラックの多くがデインズモートでライブ録音さており、その後にダブリン南部のモンスクタウンのメルビーチ沿いにある家で完成させた。この家はジ・エッジが新しく購入した家だった。「この家で『マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード』などの楽曲や、最終的に『ブリット・ザ・ブルー・スカイ』になったマテリアルが生まれた。
2. 「ワン・トゥリー・ヒル」はバンドのローディーとその友人の死にインスパイアされた
1984年8月にアンフォゲッタブル・ファイア・ツアーの一環としてU2がニュージーランドのオークランドに到着したとき、ボノは13時間の時差のせいで眠れなかった。そんなボノに地元の制作スタッフたちが深夜の市内観光ツアーを提供してくれた。その中にグレッグ・キャロルというマオリ族の男がいて、オークランドを拠点にしている複数のバンドと仕事をしていた経歴が買われて、U2の制作チームのマネージャー、スティーヴ・アイレデールが雇うことにした男だった。
即興の観光ツアーで彼らはオークランドで最も高い火山の山頂へとやってきた。「彼らがワン・トゥリー・ヒルと呼ばれる場所に俺を連れて行ってくれたんだ。ここはたった1本の木しかない山頂で、荒涼とした日本画のような感じだった。そこから火山の噴火口の側に広がるオークランドの町を眺めた。その光景は今でも非常に鮮明に覚えている。たぶん、それが自分の自由について何らかの意味をもたらしたせいだと思う」と、『U2 BY U2』でボノが当時を思い出して語っている。ここはマウンガキエキエとも呼ばれている場所で、マオリ族にとっては神聖な場所だ。
このときのツアーでキャロルはバンドメンバーに強烈な印象を残し、その後すぐに、残りの10ヵ月間のワールドツアーでの雑用係兼舞台係としてバンドから仕事を依頼された。翌年7月に全ツアーが終わると、キャロルはダブリンでU2のアシスタントとしての正規の職が与えられ、特にボノとその妻アリ・ヒューソンと親しくなった。
1986年7月3日、『ヨシュア・トゥリー』のセッションが始まる直前のことだった。この日、キャロルが雨がそぼ降るダブリンの街中をバイクで走っていると、一台の車が彼の目の前を横切った。ブレーキをかける間もなく26歳のキャロルはこの車の側面に激突して即死した。この悲報はバンドと関係者を激震させた。1987年にボノがローリングストーン誌に「あれは破滅的な打撃だった。あれは俺が頼んだことだったから。グレッグは俺のバイクを自宅に移動している最中だったのさ」と、打ちひしがれた様子で教えてくれた。
故郷に埋葬するためにキャロルの遺体をニュージランドに輸送するとき、ボノ、アリ・ヒューソン、ラリー・マレン・ジュニア、U2の関係者たちも一緒に付き添った。葬儀ではマオリ族の伝統に則った儀式が行われ、その最中にボノが他界した友のために「レット・イット・ビー」と「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」を歌った。葬儀後にボノはキャロルと初めて会った夜のことを、街中を見渡せる最高の山頂に行ったことをみんなの前で語ったのである。
スタジオに戻ったあと、楽器トラックは共同プロデューサーのブライアン・イーノの指揮のもとで行われたジャム・セッションで、回数を重ねるうちに完成した。しかし、ボノのヴォーカル・トラック録りはワンテイクで終了したのだった。彼の中で生々しい感情が溢れ出して、それ以上歌うことができなかったのである。バンドの自叙伝の中でボノは、「あの出来事で『ヨシュア・トゥリー』のレコーディングは厳粛な雰囲気に包まれることになった。彼の死で空いてしまった穴を埋めるためには、本当に大きな詰め物が必要だった。俺たちは彼が大好きだったんだ」と述べている。そして、完成したアルバムはキャロルの思い出に捧げられた。
3. 「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」はもともと全く異なる楽曲だった。
U2の楽曲の中で最も時代を超えて歌い継がれているアンセム的この曲のDNAは、初期のジャム・セッションで作ったデモにしっかりと組み込まれていた。この曲の仮タイトルは「The Weather Girls」のときもあったし、「Under the Weather」のときもあった。クレイトンの説明によると、この曲は「少しばかり単調なグルーヴ」だったらしい。
このドラム・トラックを土台として、このリズムに合わせた楽器トラックを新たに作り、その上に積み重ねていった。「まるで建物を建てているようだった。土台を作り、その上に壁や屋根を作り、最後に家具を入れるというように。私はこのプロセスを楽しんだよ」と、ラノアはテレビ番組「クラシック・アルバムス」のドキュメンタリーで話している。新しいメロディが徐々にはっきりと形を表すにつれて、ゴスペル音楽の要素が目立つようになってきた。これはバンドがそれまで一度も踏み入れたことのないジャンルだった。これについてラノアは次のように語っている。「私は昔からゴスペル音楽が大好きだったので、ボノにはその要素を使ってみることを勧めた。ゴスペルは当時のU2が取り入れるとは思えない音楽ジャンルだったが、これをやることで彼らにとっても新たな扉が少し開くことになった」と。
楽器トラックがほぼ完成したところで、ボノがライブルームにやってきて、ヴォーカル・メロディをあれこれ試しながら、その場で思いついた適当な歌詞を歌っていた。その様子を見ていたジ・エッジはボノのパフォーマンスに刺激されて、その朝に思い付いたフレーズを思い出したのである。これはボブ・ディランの「愚かな風」にインスパイアされたものだった(「頂上にたどり着く時、お前は底辺にいることに気づく」)。
『U2 BY U2』の中でジ・エッジはこう話している。「この曲がモヤの中から姿を表すのを聞いていたとき、ノートに書いたフレーズがあるのを思い出したんだ。その朝に思い付いた曲のタイトルに使えると思ったものがそれで、ボノの歌を聞きながら、そのフレーズを思い起こしていた。完璧に思い出せたので紙に書き留めて、歌っているボノにそのメモを渡したよ。俺たちの魂がつながっているって感じだったね」
「I still havent found what Im looking for」というフレーズは、曲のタイトルでもあるし、歌詞の焦点とも言える部分でもある。「あのアルバムを作っていて、カミナリに打たれたように何かが閃いたのは数回しかなかったけど、『アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー』の誕生はその数少ない一回だった」と、ジ・エッジが説明する。
4. 「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネーム」のレコーディングがあまりにも上手く行かなかったため、イライラしたブライアン・イーノがテープを消しそうになった。
バンドが新作のためにマテリアルを組み立て始めると、ジ・エッジは「究極のライブ曲」を作ることを自分のミッションとした。まだ引越し前のメルビーチの新しい家の最上階にある空っぽの部屋にこもって、彼は4トラックのテープマシンにいくつもの素材を録音しながら絶え間なく作業を続け、最後に生まれたパワフルなギター・リフが、のちに「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネーム」となった。
「ラフミックスを終えたときは奇妙な感覚を覚えた。だって、ついさっき人生最高のギター・パートと楽曲を作り出したっていうのに、その喜びを分かち合おうにも、俺は大きな空っぽの家に一人きりだったから。ラフミックスを再生して聞いたあと、しーんと静まった家の中の静寂を数秒間聞いて、ガランとした部屋の中で空気をパンチしながら、たった一人で喜びの踊りを始めたよ」と、バンドの自叙伝で語っている。
彼以外のメンバーはリフのトリッキーさに恐怖すら覚えたようで、ジ・エッジの熱狂とは違う反応を示した。「クラシック・アルバムス」のドキュメンタリーで、クレイトンは「やつは8分の6拍子のギター・パートを、バンドが入る時点で4分の4拍子にスイッチする方法を見つけたんだよ。正直な話、あのときは、あれを実現するためにヤツが費やした長い時間をありがたいとは思っていなかった。だって、バンドの演奏を台無しにするトリッキーさだったからね」と告白している。
2008年にMojo誌に掲載されたインタビューで、ダニエル・ラノアも他のメンバーと同じ不安を感じていたと言った。「リズム・セクションにとっては早口言葉を言うようなものだったし、小節の長さも奇妙で、みんな不機嫌になった。私が黒板に音符を書いて、理科の教師か何かみたいに、一つ一つ段階を踏んで変化を説明したのを覚えているよ」と、ラノアは当時を説明する。ことを複雑にしたのはこれだけでなかった。実は、この楽曲自体が完成とは程遠いものだったのである。「(ジ・エッジは)最初と最後は完成していたが、中間を全く作っていなかった。そこで、俺たちは両端をつなぐために必要なコード進行を生み出すために、うんざりするほどの時間を費やすことになったのさ」とクレイトン。
最終的にブライアン・イーノが臨界点に達した(「ブライアンは本当に激怒していた」とクレイトンが認める)。何人かの関係者が語っているのだが、イーノは怒りのあまり、この曲が入ったテープを消しそうになり、みんなで制止しなければいけなかった。「ブライアンはテープの中身を消してしまえば、みんながこの楽曲を諦めるだろうと思ったんだ」と、2003年のアンカット誌でラノアが述べている。「そのまま続けていたら、ちゃんとした曲が完成していたはずだ。でも、面白いことに、ときとして最も時間を費やした曲が完成しないことがあるんだ。費やした時間もアイデアも全部捨てるなんて絶対に嫌だから、ブライアンの行動が正しかったのかは私にはわからない。でも、あの曲の作業で私自身も少しイライラしたのは確かだよ」
しかし、「クラシック・アルバムス」のドキュメンタリーで、イーノはこの逸話を正そうと思ったらしい。「この話はいろんな所で話されているから、ここで本当のことを教えよう。この曲の一つのバージョンがちゃんとテープに録音された。ただ、このバージョンには数多くの問題があった。私たちが何時間も、何日も、何週間も費やしたのが、録音されたこのバージョンを修正することで、もしかしたらアルバム制作の半分の期間をこの曲だけに費やしたかもしれない。あちこちを切ったり貼ったりする作業の繰り返しで悪夢のようだったし、私は頭を切り替えてやり直す方がマシだと思ったんだ。やり直せばもっと早く完成するという確信があった。そこで、偶然の事故を装ってテープを消してしまおうというのが私の作戦で、もう一度やり直すことを望んだわけだ。でも、結局、実行しなかったよ」と語っている。
5. アルバム制作中にロビー・ロバートソンがU2を訪問した。
その8月、デインズモートでのレコーディング・セッションは続いていた。そんなとき、ロビー・ロバートソンが不意にU2を訪ねてきた。バンドの前ギタリストがダブリンに滞在中で、ダニエル・ラノアの協力を得て最初のソロ・アルバムを完成させようとしていたのだ。そのときの状況をラノアはのちにホットプレス誌でこう説明した。「ロビーとアルバムを作り始めたのだが、彼の作業が遅くて終わる気配がなくて、途中で抜けないといけなかったんだ。まずヨーロッパでピーター・ガブリエルの仕事をして、そのあとがU2だった。でもロビーとレコードを完成できなかったことが申し訳なくて、ある日ロビーに『ロサンゼルスから抜け出して、数日こっちに来てみたらどうだ?』と言ったんだ」
ところが、不運なことにロバートソンがダブリンに訪れたのは最悪のタイミングだった。彼が到着するとハリケーン・チャーリーがダブリンの町を襲い、何十年かぶりのひどい洪水を引き起こした。「濁流で溢れたストリートを車が何台も流れて行った」と、その年の後半にホットプレス誌のインタビューでロバートソンが語っている。「本当に恐ろしい光景だったよ。でも、ありがたいとこに、連中(U2)はやる気満々だった!」と。
ロバートソンは曲の断片を4~5つ持ってダブリンにやってきたのだが、ハリケーン、新しいロケーション、U2という要素が彼のクリエイティヴィティに火を点けた。ロバートソンとボノは歌詞を即興で作り、U2の他のメンバーは楽器でバックアップしながら演奏を続けて、合計22分間のテイクをレコーディングした。これが編集されたものが「スウィート・ファイア・オブ・ラヴ」だ。これはU2がフィーチャーされているもう1曲「テスティモニー」と一緒にロバートソンのセルフタイトルのソロ・デビュー作品に収録された。
6. 「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」はプロトタイプのギターに救われた。
この作品で「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」として完成する前身のマテリアルは、アンフォゲッタブル・ツアーが終了した1985年にラリー・マレン・ジュニアの家にメンバーが集合したときから存在していた。しかし、どの側面から見ても初期のこのマテリアルはパッとせず、クレイトンに言わせると、この曲の核心部分は「コードが繰り返されるだけだったから、非常にありきたりだった」らしい。イーノとラノアのガイドに従って、彼らは『ヨシュア・トゥリー』のセッションでもこのマテリアルにあれこれ手を施して、無数のアレンジを考え出していた。しかし、ジ・エッジはそのすべてが「サイテー」だったと言う。
バンドがこの曲をスッパリ諦めようと考えていたとき、ジ・エッジにカナダ人ミュージシャンのマイケル・ブルックからプレゼントが届けられた。ブルックとジ・エッジは1985年の映画『Captive(原題)』でコラボレーションしていた。ジ・エッジがユニークなサウンドを好むと知っていたブルックは、「インフィニット・ギター」と名付けた自分で開発したギターのプロトタイプを贈ったのだ。このギターのボディにビルトインされたエレクトロニック・アンプ・システムを使うと、際限なく「無限の」サステインが得られる。「天才的な楽器だよ」とラノア。彼はブルックが作ったこのギターの2本目のプロトタイプを持っている。「これでフィードバックのループを作るんだよ。もちろん、あれ以降、このギターの大量生産が行われているけど、あの当時はまだ未開のギター領域だった」と説明した。
間違いなく素晴らしいギターなのだが、健康上のリスクも一緒に付いてきた。『U2 BY U2』でジ・エッジがこう述べている。「(ヨシュア・トゥリーの)セッション中に届けられたこのギターには、ギターの組み立てと接続方法についての複雑な指示書が同封されていた。1本でも配線を間違うと、かなりひどい電流が身体に流れるってね。このタイプのギアは最もベーシックな安全規則すらパスしない代物だったよ」
なんとか無傷でインフィニット・ギターを組み立てたあと、他のメンバーがデインズモートで作業を続ける中、ジ・エッジは新しいおもちゃの限界を試すテストを開始した。「箱から出して、ある部屋でこのギターを弾き出した。そのとき、(バンドの仕事仲間の)ギャヴィン・フライデイとボノがコントロールルームで「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」のバッキング・トラックを聞いていたんだ。この曲に最適なアレンジを探していたけど、そのときは完全に袋小路にハマっていて、この曲をストックに戻す決断をする瀬戸際まできていた。ところが、コントロールルームのドアが開いていて、遠くからインフィニット・ギターの音とベース、ドラムが漏れ聞こえたわけだよ。そして二人は『これだ! この音だ! でも、これは何だ?』ってなった」
ボノはこのギターの音に感激し、のちに「ギターサウンドの美しい幽霊」と表現している。この新たな刺激が創造力を刺激し、この問題含みの楽曲を完成するに至った。「エッジに何でもいいから弾いてくれと頼んだね。エッジは2テイク弾いて、その二つともが『ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー』の最終ミックスに残った。美しいサウンドで、現実のものとは思えない響きだよ」と、ラノアがそのときの模様をホットプレス誌で語った。
7. 「スウィーテスト・シング」は『ヨシュア・トゥリー』セッション中にレコーディングされたボノの妻に対する”謝罪ソング”だったが、アルバムには収録されなかった。
『ヨシュア・トゥリー』のセッションは過酷なもので、その最中にライブ公演も組まれていたため、メンバーの夫婦仲に亀裂を生じさせる結果となり、特にボノの妻アリ・ヒューソンの怒りはひどいものだった。当時、ローリングストーン誌に「俺は非常に強い人と住んでいて、彼女はときどき俺を追い出すんだよ」とボノは話している。「妻のアリとはほぼ1年ぐらい会っていなかった。俺にとって1986年は最悪の一年だったよ。ツアーをするバンドでの活動と結婚の両立はほぼ不可能だね」と。
そして、ボノは妻のために曲を作った。それが「スウィーテスト・シング」。不在がちなことを謝る”謝罪ソング”だ。「この曲は『ヨシュア・トゥリー』セッション中に作った。アリの誕生日だったけど、誕生日だから作ったわけじゃなかったんだ」と、1998年にボノが回想している。この曲はアルバムに収録するためにレコーディングしたのだが、バンドは何度やっても、その出来栄えに満足できなかった。「この曲はいつも『もっと上手くできたのに』と思ってしまう曲だった。俺の頭の中でこの曲は常にポップソングだし、もっと上手くできると思っていたね」とボノ。
アルバム『ヨシュア・トゥリー』には収録されなかったこの曲は、1988年9月にリリースされたシングル「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネーム」のB面に収録されることとなった。これは、ベストアルバム『ベスト・オブ・U2 1980-1990』のB面だけを集めたコンピレーション・ディスクに収録するために、プロデューサーのスティーヴ・リリーホワイトの助けを得てやっと完成する10年も前のことだ。「この曲が未完成だってことは自分たちも気づいていた。でも、エッジが追加のコードを2~3思いついて、あっという間に完成したんだ。それを聞いて、俺たちは『ああ、それだ、そのまま残そう』ってね」と、クレイトンがエンターテイメント・トゥナイトで語っている。
ヴォーカルを新たに入れ直し、楽器のアレンジも向上させた「スウィーテスト・シング」は、シングル曲としてリリースされ、世界各地でトップ20入りする成功を収めた。そして、このミュージック・ビデオにはボノの妻アリが出演した。しかし、このとき彼女はこの曲の収益をチェルノブイリ・チルドレン・プロジェクトに寄付する条件を付けたのだった。
8. ジャケット写真に写っている本物のヨシュア・トゥリーは2000年に朽ち果てたが、あるカップルがこの木を探そうとして亡くなった。
「もともとのコンセプトは二つの文明が出会う場所だった」と、グラフィック・アーティストのスティーヴ・アヴェリルがアルバム・ジャケットを説明する。「作業中の仮タイトルが『二人のアメリカ人』で、砂漠が文明と出会うというのが大雑把なテーマだったんだ」と。比較的に緩めのアイデアを持って、アヴェリル、フォトグラファーのアントン・コービン、U2のメンバーが、1986年11月半ばにバスに乗り込み、カリフォルニアの荒涼とした土地であるデスバレー、ザブリスキーポイント、モハベ砂漠、ゴーストタウンのボディへと出かけた。
「撮影は3日間で行う予定だった」と、「クラシック・アルバムス」のドキュメンタリーでアントン・コービンが語っている。「撮影初日の夜にボノと外出して、彼に『とても気に入っている木があって、ヨシュア・トゥリーと呼ばれているんだよ。これを表ジャケットにして、バンドを裏ジャケットにすると最高だと思うんだ』と話した。翌朝、ボノが聖書を持って起きてきて、前の晩にヨシュア・トゥリーを聖書で調べたって言うんだ。そして、それがアルバム・タイトルになるべきだって。そして、その日はこのヨシュア・トゥリーを探しに行くことにした」
カリフォルニア州道190を走っていて、デスバレーの西側のダーウィン近くでスピードを落とすと、コービンが探していたものが出現した。「何よりも感動したのが、この美しい木がたった1本だけ立っている光景に出くわしたことだ。この種類の木は大抵群れで生えているもので、この木だけというのは驚異的だったね。それに、あの木のあと、この場所でたった1本で生えている木は一度も見たことがない」とコービンが語る。バンドは路肩に車を停めて、20分間その木と一緒に撮影し、冬の凍りつく空気に耐えきれなくなってバスに戻った。「その日は凍てつく寒さだったけど、砂漠感を出すためにコートを脱ぐ必要があった。険しい表情をしているのはそのせいだよ」と、ボノが言った。
最終的にアルバムのジャケットに使われたのはザブリスキーポイントで撮影されたバンドの写真だったが、内側の見開きジャケットに使用された木と一緒に撮ったバンド写真は、その後U2を象徴する写真となった。ボノにとって、この荒涼とした砂漠の風景は、その前に過ごした精神的に不安定な時期――彼の言葉を借りれば「信じられないほど最悪な年」――を映し出していたようだった。大荒れの夫婦関係、過酷になる仕事量、グレッグ・キャロルの死のすべてが、ボノの精神に重くのしかかったのである。事実、「ああいった出来事があって、砂漠に惹きつけられたのだろう。あの年は俺にとって砂漠と言える年だったから」と、ボノはローリングストーン誌に語っていた。
しかし、クレイトンにとって砂漠のイメージはもっと楽観的な意味を持っていた。「このレコードを物語る精神的な風景として、あの砂漠は俺たちに大きなインスピレーションを与えた」と、1987年にホットプレス誌に語っていた。「一般的に、砂漠を額面通りの価値に捉える人が多いし、みんな不毛の土地と考える。それはそれで間違っていない。でも、見方よってはポジティヴなイメージになるんだ。砂漠のイメージを、これから何かを加えることのできるまっさらなキャンバス、という意味合いで捉えることも可能なんだよ」
偶然が重なって実現したこの撮影だったが、U2もこの木の所在地を知らなかった。だが、ファンの間でこの木が半宗教的な存在になったことを考えると、所在不明というのはある意味で良いことだった。「うん、ファンが見つけられない方がいい。だって、ライブに『ボノ、俺、この木を持ってきたぜ!』とあの木を切って持ってくるヤツが絶対でてくるから」と、ボノが冗談交じりにローリングストーン誌に語ったことがあった。これはあり得ないことではなかった。最終的に、U2の熱狂的なファンたちはこの木の場所を突き詰めたのである。そして、砂漠の真ん中の何もないこの場所がファン巡礼の場所となってしまった。
2000年にこの木は自然に朽ちた。砂漠の上に崩れたこの木の樹齢は推定200年という。徐々に砂漠に同化していく幹の横に「Have you found what youre looking for?」(訳註:探しものは見つかったかい?の意)という看板を建てたファンもいた。2015年にはこの木の存在を辱める行為をする不届き者が出現して、この木の残骸を切り刻んで持ち去るという行為に及んだ。
ファンの多くはこのアルバムのジャケット写真はジョシュア・ツリー国立公園内で撮影されたと思っているが、この公園は木があった場所から南に4時間車で走った所にある。この思い違いが2011年8月に惨事を引き起こしてしまった。44歳のグース・ヴァン・ホーヴェと38歳の妻ヘレナ・ヌイレットの二人が同公園の奥まった道で死体となって発見されたのである。ジョシュア・ツリー国立公園の関係者は、彼らの死因は40℃を超える暑さによる熱中症と考えていると言う。ヴァン・ホーヴェは出身地のオランダで音楽クラブ013のマネージャーをしていて、同僚にジャケットが撮影された場所に行きたいと「熱心に」語っていたと報道された。
9. ヨシュア・トゥリーのワールドツアーでボノは傷だらけになった。
「切り傷と青あざだらけ。ヨシュア・トゥリー・ツアーで俺が覚えているのはそれだけだ」と、ボノはバンドの自叙伝で語っている。1987年4月から12月にかけて、北米とヨーロッパで合計111公演を行なったこのツアーが叩き出した利益は4000万ドルを超えたが、そのためにボノが払った代償は相当なものだった。
ボノの不運が始まったのは4月1日だった。翌日にアリゾナ州テンピでのツアー初日を控え、バンドは会場でリハーサルを行なっていたのだが、その途中でボノは転倒してしまった。『U2 BY U2』の中でボノは次のように説明している。「ライトと一緒に転んだものだから顔を切ってしまった。今でもアゴに傷跡が残っている。俺は音楽に夢中になっていたし、ツアー直前というのはステージの状態と、自分のステージングがどんなふうになるのかを把握したいものなんだ。そして、自分の体力も過信してしまう。自分は超合金でできている気分になるけど、現実はそんなわけがない」
近隣の病院で傷を縫ってもらったが、その翌日の夜、U2がアリゾナ州立大学アクティヴティ・センターに戻ったときも、ボノには不運がつきまとった。集中的なリハーサルを1週間行なったせいで、初日の公演中にボノの声が枯れてしまったのだ。「太陽の下に長くいたせいだな」と、ボノはソールドアウトしている客席に向かって説明し、一緒に歌ってくれるように促した。そして「今夜はみんなが一緒に歌ってくれて嬉しいよ」と感謝したのだった。
翌日は終日のどを休めたおかげでボノの声は驚異的に復活したのだが、9月20日にワシントンDCのロバート・F・ケネディ・スタジアムでの公演中に再び不運に見舞われる。ジ・エッジの記憶によると、その日の公演は最初から少し危うげだったらしい。「あの頃のU2は、ライブ中に何か起きると最悪の状況に陥ることが多かった。(中略)特にこのときのライブでは、勢いをつけようと思ったのか、ボノがステージの端からウィングまで勢いよく走った。ところが、この日は小雨が降っていてウィングがビニールで覆われていたから、スケートリンクのような状態になっていて、彼の両足は見事に滑ってしまった」と説明する。
雨以上にボノが責めたのは、アクシデントを引き寄せた自分自身の負のエネルギーだった。「あのとき歌っていたのが『エグジット』で、本当にひどい状態になってしまった。(中略)左肩で着地したせいで鎖骨の靭帯を3ヵ所、ひどく痛めてしまったんだ。その痛みは相当なものだったし、これは一生完治しない。あのあと左肩が前に傾いてしまったから、元の位置に戻すために肩のトレーニングが欠かせなくなっている。あの事故を起こした原因が怒りだったこともあって、この事故で怒りは健康を損なう高い代償を突きつけると知ったよ」
10. U2はカントリー・グループに扮して、自分たちのライブの前座を行なった。
1987年11月1日にインディアナポリスで行われた公演で、オープニングを務めたボディーンズとロス・ロボスの間に、あるバンドのデビューライヴが行われた。このバンドはダルトン・ブラザーズという正体不明のカントリー・グループだった。「アルトン」、「ルーク」、「デューク」、「ベティ」のダルトン・ファミリー4人組は、オリジナルバラード曲「Lucille(原題)」とハンク・ウィリアムスの「Lost Highway(原題)」の2曲だけで構成された短いホーダウンを披露した。大きな帽子を被ってサザンカンフォートをがぶ飲みする長髪のこの4人がU2だとその場で気づいたのは、最前列にいた数少ないファンだけだった。
「俺たちが演奏するのは2種類の音楽、つまりカントリーとウェスタンだ」と、ダルトン・ブラザーズのサイトにあるバイオに記されていて、ウィリー・ネルソン、ジョニー・キャッシュ、ロレッタ・リンに大きな影響を受けていると書くなど、本物らしく精巧にできている。バンド名は1890年代に銀行や列車を襲った実在の盗賊軍団ダルトン・ギャングに由来するという。
このダルトン・ブラザーズはインディアナポリス以外に2回登場している。11月18日のロサンゼルス公演と、12月12日のヴァージニア州ハンプトン公演だ。「これはファームエイドのようなもので、俺たちはこのやり方が気に入っている。あんたらは最高に美しいよ。ロサンゼルスでは金じゃなくて愛で世の中が回っていると知って、俺は嬉しいよ」と、ボノ(別名アルトン)はステージ上で流暢な南部訛りを披露したのだった。