2010年代は日本のヒップホップのスタイルが大きく変わった時代だ。USからのトラップの影響もあって音もラップも変わったし、YouTubeとともにMVでバズるという現象も生まれた。
KOHHと髙橋良は、それまでのヒップホップをリブランディングして、新しいスタイルを作っただけではなく、映像で見せ、アート、ハイエンド志向を進め、海外にも目を向けたという活動のあり方自体も新しかったのだ。

ー高橋さんはNYに行って、そこでNYのやり方を見て、ただのビートメイカーではなく、プロデューサーとしての意識を持つようになったと言っていましたよね。SIMONの1stアルバム『SIMON SAYS』を出した2008年にはすでにそのような意識でやられていましたか?

高橋良(以下、高橋):そうですね。NYに行ってみて、トラックメイカーとプロデューサーという職業の何が違うのかがわかりました。トラックメイカーは文字通りトラックを作る人。プロデューサーは、自分のスタジオを持っていて、アーティストをそこに呼んでセッションをして曲を作る。その後、その場でトラックダウンまで終わらせるっていうのをアメリカではやってたんですよ。あとは、他の地域でもそうだったと思いますが、当時自分の住んでいたウエスト・ハーレムあたりでは、若い連中がストリート・チームを作って、自分たちでCDをダビングして、販売店に卸したり手売りで売ったりっていう活動をしてたんですよ。それを見て、それをそのまま日本でやろうと思いました。

ー2010年と言えば、1月リリースのICE DYNASTYの2ndアルバム『C.O.L.D.』を手がけて、3月には大きくバズったミックスCD『TEQUILA, GIN OR HENNY THE MIXTAPE』を手がけていますね。当時は日本のヒップホップの冬の時代と言われていましたが……。

高橋:冬の時代だったんですね(笑)。
あまりよそのことは考えてなくて。とにかく漠然と「成功してやる」っていう気持ちだけでやってましたね。ただ、当時そういう風にやってる若手プロデューサーがいなかったので、諸先輩方には「あいつは生意気だ」とか「裏方なのに表に出てきてる」って言われたりしてました。「うるせーな」って感じでしたけど。そんな自分でも、いくつか俗に言うメジャー仕事をやらせてもらう機会があったんですよ。その中で、清水翔太さんのリミックス案件の時に、「USのメインストリームみたいなR&Bを作りたい」という要望を受け制作したところ、「本場っぽすぎるから、もうちょっとポップに」って言われたことがあって。なんだかんだで、作り直してOKをもらったんですけど、やっぱり自分的には妥協したものだったので、発売した後に「やらなきゃ良かった」ってスゴく後悔したんですよ。そこで、今後メジャー仕事は一切やらないって決めたんですよ。早いうちに見切りをつけられたので、今となっては正解だったなと思ってます。とは言え、まとまった資金もなかったので、インディペンデントでやっていく上での突破口がなかなか見つからずにいたんです。

そんな時に、当時一緒に活動していたSIMONの「Tequila, Gin, or Henny」がアメリカのラジオ局HOT97で流れるようになって、当時だとそこそこ話題になったんですよ。G-Unit Recordsから連絡があって、そっちから出さないかみたいな話もあったんですけど、ヒットしたらすぐにミュージック・ビデオを撮って出すっていうのをアメリカで見てきたので、1週間後に僕らの方でビデオを撮って出しちゃおうって。
それまでSIMONのミュージック・ビデオは映像制作会社の人にお願いしてたんですけど、自分の思うような感じにならなくて、かなり口を出してたんですよ。相当うざいヤツだと思われてたと思います(笑)。ちょうどその頃、Canonの5D Mark IIが発売した頃で、後輩が持ってたなと思ったので、じゃあちょっと借りて撮ってみるかってなって。結局、カメラから編集まで全部自分でやりました。それが生まれて初めて撮ったミュージック・ビデオですね。 公開してすぐに、1日1000回再生とかそれくらいでしたけど、当時YouTubeがあまり浸透していなかった時代にしてはけっこう回ってた方でしたね。そこで、既存の音楽業界のプラットフォームみたいなところに頭を下げて、下積みから入っていくことをしないでも、ある程度話題になる方法はあるんだと思ったんです。

KOHHがいけると思った瞬間

ーあれが初だったんですか?! スゴいですね。

高橋:そこから、もっと上手く作れるなと自分で思って、映像ディレクターをやるようになりました。

ー2012年3月には新しいアーティストとして、KOHH & MONY HORSEの「We Good」を発表しましたよね。二人との出会いはどのような感じだったんですか?

高橋:これ、けっこういろいろなところで既に話してるのでアレなんですけど、まあいいか。映像制作に熱が入ってきて、当時運営してた音楽スタジオをそろそろたたもうかと思ってたんですね。
そしたら、当時17~18歳のKOHHからmixiを通じて連絡が来たんです。「レコーディングしたいっす」みたいな感じで。地元が近かったっていうのもあって、「一回スタジオ来てみる?」って言って。最初はスタジオのお客さんだったんですよ。

ーKOHHがいけると思った瞬間はありました?

高橋:最初の1発目からスゴい才能があるなと思ったわけではないです。ただ音感みたいなものは良かったし、言ったことを飲み込むのはスゴく早かったですね。元々僕は、例えば学校のクラスで一番目立ってるようなヤツがラッパーになるべきだと思ってたんですけど、その点では合格でしたね。しばらくうちでレコーディングしてたんですけど、一度「もうスタジオに来なくていい」って言ったことがあって。ある日、KOHHが当時働いてた運送屋の車で事故っちゃって、車両の修理費を返済をしなくちゃいけなくなったんですよ。10代だし、これ以上スタジオ代を取るのも悪いなと思って、レコーディングするソフトを入れたパソコンを1台組んで、それをKOHHが当時住んでたアパートに設置しました。レコーディングのやり方も教えて、自分的には「これで頑張れよ!」っていう感じだったんですけど、そしたら今度は自分でレコーディングした曲を送ってきまくるようになって。しぶといヤツだなーと思ってたんですけど、ある日「Super Star」っていう曲が送られてきて。
それを聴いた時に「あれ?」と思ったんですよね。それで立て続けに、「地元にMONYっていうヤツがいるので、ラップやらせてみました」って送ってきたのが、「We Good」だったんですよね。そこで完全にピンときたので、何日か後にビデオを撮って、YouTubeに乗っけてみようかってなって、その後ミックステープも作ろうってなったんです。僕自身制作に入りたいなと思ったのはその辺りからですね。それがなかったら普通に映像ディレクターになってたと思います。

ーそれも一つ大きなターニングポイントですね。

高橋:まあそうなのかな。でも、それ以降は別のアーティストはやってないんですよ。だからKOHHにも、「俺はやめるつもりだったから、君の目標を叶えるまでは関わるけど、基本的にはおれは映像ディレクターでやっていくから」って言って、スタジオもたたんで、地元に彼の住居兼スタジオを作ったんです。まあ、地元の後輩が頑張ってるから、力を貸したいなっていう感じで。まあ、今もそんな感じですけど。

ーKOHHのプロデューサーとしてはどういうことを考えていました?

高橋:たぶんみなさんが思ってるほどガチガチで作った曲は少ないですね。
ほとんど本人が自分でトラックを選んでるし、最初の経緯があるから、自分でレコーディングができるんですよ。録ったものが送られてきて、曲が溜まってきて、そろそろアルバムいけるなと思ったところで、曲を並べてアルバムを作るわけです。僕が「こういう曲をこういうので作ってみて」って言って作ったのは、「JUNJI TAKADA」、「貧乏なんて気にしない」、「結局地元」、「Die Young」とかぐらいですかね。アルバムの中にシングル的な要素が足りなかったりする場合に、一緒にスタジオに入って1~2曲作るみたいな感じで制作には関わってました。

高橋良が考えるエンターテインメントの頂点とは?

ー音楽性はどうでした? ちょうどUSでトラップの波が来ていて、KOHHの声の出し方やフロウはUSの新しい波を意識した上でのオリジナリティだったと思うんですが。

高橋:最初にKOHHがスタジオに来た時の話に戻りますが、まず思ったのが、この子は日本語ラップを聴いてラップを始めたんだなっていうことでした。それで、「まずこのオススメを1回聴いてみたら?」って言って、ディプロマッツの『Diplomatic Immunity』とかファボラスの『From Nothing To Something』とか、CDを5枚ぐらい貸したんですよ。そしたら、次に来た時には「全然アメリカでした」ってなってて。その時に、レコーディングの時の、声を喉で出すのとお腹で出すのの割合を徹底的に教えたんですね。そこのバランスで声がこういう風になるんだよって。彼はすぐにそれをできるようになりましたね。でも、それ以上何かを教えたということはあまりなくて、自分たちで勝手に盛り上がって新譜をチェックしてる中で、「この方向性で作ろう」とか、僕がやったのはそのくらいですよ。


トラップをやりだしたのだって、Dutch Montanaが僕らの地元の王子にあるバーで働いてて、よくそこに飲みに行ってたら、「トラップっていうのが最近あって」って、こっちは飲みに来てんのにひたすら自分の曲を聴かせてきたんですよ(笑)。それでスタジオに連れていって、KOHHたちと一緒に曲を作り始めたら、もうみんなトラップばかり作るようになってたんです。そのうち自分らでトラックも作るようになって、「iPhone5」「Hello Kitty」はKOHHが自分で作ったトラックだし、「Dirt Boys」はLootaが作ったトラックなんです。なので、音源は8割方KOHHが完成させてますよ。自分的にはミュージック・ビデオが一番の見せ場だと思って取り組んできました。インディペンデントのレーベルのマーケティングではミュージック・ビデオが一番費用対効果が高くて伝わりやすいっていうのが、「Tequila, Gin, or Henny」の時によくわかったんで。

ーKOHHが活動の目を海外に向けるようになったのは?

高橋:1stアルバムの『梔子』がいまだに一番人気なんですよ。僕は3枚目の『DIRT』が一番好きなんですけど、『DIRT』制作当時に、これを日本のマーケットで普通にリリースしても、一般的に理解されるのは絶対に無理だなと思って。YouTubeでも海外からのコメントも出てきてたので、何とか海外にリーチしたいなと思ってたんです。そのタイミングで、元々日韓でなんかやろうと言っていたJayAllDayから「It G Ma」のKeith Apeのヴァースとフックが入ったプリプロが送られてきて、KOHHとLootaにやらない?って言ってきました。聴いた瞬間、「これ絶対アリ」って思って。これってそもそも、韓国と日本の間で盛り上がればいいかなくらいに思ってリリースしたんですけど、アメリカで受けちゃって、ツイッターで「It G Ma」ってエゴサーチすると、5秒置きに10人ぐらい、どの時間やってもずっとつぶやいてる状態。それが2カ月以上続くんですよ。アメリカでバズるっていうのはこういうことなんだなと知りました。音楽性が難しい方向に行ってたってのもあったし、日本人が逆輸入を好きなのも知っていたので、そうやって売り込んでいくしかないと思って。それで、ヨーロッパやアメリカで活動するようになりました。

ー2019年2月の5枚目のスタジオ・アルバム『Untitled』のリリース時にも面白いことをやりましたよね(注:SHIBUYA 109前に突如出現した特設ブースで、Mアトラクション型劇場シート、MX4D(R)モーションシートに乗りながら、体感式ベストを着用し、VRヘッドセットでミュージック・ビデオを鑑賞できるというもの)。

高橋:自分的には一応あれが最後の映像作品です。ミュージック・ビデオってだいたいが16:9のアスペクト比で、それに飽きちゃって。YouTube自体が16:9なんで仕方ないっちゃ仕方ないんですけど、ずっと同じだなと思って。そろそろそこを出てもいいんじゃないかということで、自分的な問題提起をしてみたんですよ。”視聴” することから、”体験” するということへ問題提起をしたところで逃げました。

ー今は建築関係をやられていると聞いたのですが、建築に興味を持ったきっかけはあったんですか?

高橋:元々現代アートが好きなんですね。その中でも特にインスタレーションとかハプニングってジャンルが好きで。わかりやすいところだと、チームラボのお台場のヤツとかはインスタレーションです。インスタレーション自体は60年代くらいからあったんですけど、ただ作品を観るだけじゃなくて、中に入って体感できるっていうのがこれからの時代には必要だなと思ったんです。体感するというのがネクストレベルなら、作品の中に入れるよりも、そこで時間を過ごすとか暮らすとか、それが究極なんじゃないかと思ったんです。それで今は、個人宅、宿泊施設、店舗などを中心にアーキテクチャーと、それ以外はランドスケープの勉強に集中してます。僕が思うエンターテインメントの頂点って二つあって、一つはホテル業界。もう一つは、ちょっと昔までのハリウッド映画なんですよ。だったら、宿泊できるシアターがあったら最高なんじゃないかと思って、ホテル型のシアターを作ったりしてます。

髙橋良が選ぶ、BEST of the YEAR

BEST ALBUM
Billie Eilish - When We All Fall Asleep, Where Do We Go?
Kanye West- Jesus is King

BEST SONG
Pop Smoke - Welcome to the Party
Kanye West - On God
TONES AND I - DANCE MONKEY

BEST LIVE
FKJ - Live at Salar de Uyuni
Kanye West - Sunday Service

BEST ARTISTS
Billie Eilish
Kanye West

高橋良
318(スリーワンエイト)名義で音楽プロデューサー、Eillyhustlehard(エイリーハッスルハード)名義で映像ディレクター、現在では多方面でクリエイティブ・ディレクターを務める。2000年頃からトラックメイカーとしてキャリアをスタート。2001年に渡米、帰国後に音楽プロデューサーとしての活動を開始し、2007年にプロデュース・チーム「GUNSMITH PRODUCTION」を始動。数々のヒップホップ・アーティストのアルバム・プロデューサーを務める傍ら、映像ディレクターとしても活動。2012年からはアーティストKOHHのクリエイティブ・ディレクターを担当している。
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