70年代、それはアメリカン・ニューシネマの傑作や、ニクソン時代の陰謀スリラー、スラッシュホラーにスター勢揃いのパニック映画、低俗なコメディーからブロックバスターまで、数々の映画が生まれた10年だった。だがその中でも特に豊作だったのが『2001年宇宙の旅』の60年代後期の幻惑的な余韻が色濃く残るジャンル、SFだ。
世間が水瓶座の時代からウォーターゲートとディスコの時代へと徐々に移行する中、恐らく混乱し、あるいはラリっていた観客の度肝を抜いてやろうというSF映画も確かにあった。だが1970年代も終盤になる頃には、ポストアポカリプスもののアクションアドベンチャーに衝撃の未来予想図、テクロノジー恐怖症の悪夢、”たられば”を描いた低予算のエクプロイテーション映画や超大作スペースオペラまで、一通り揃っていた――全部まとめてSFというジャンルに括られ、おかげでSFは映画界を根底から覆す存在となった。この時代の影響は今も最寄りの映画館に行けば一目瞭然だ。
今日のSF映画のあり方を築き上げた10年を称え、1970年代のSF映画ベスト50をカウントダウン形式で紹介しよう。映画史に残る最高傑作もあれば、正直、あの頃だったから良かったという作品もある。だがそれぞれがSFの行き先――寂れた小劇場であれ最先端のシネコンであれ――を再定義したことには間違いない。まさにSFというジャンルが、前人未到の領域へ大胆に足を踏み出した時代だったのだ。
第50位:『SFレーザーブラスト』(1978年)
カリスマ性ゼロの金髪のティーンエイジャーが、砂漠に打ち捨てられていたエイリアンの武器とネックレスを偶然発見。それを使って見境なく破壊行為に走り、モンスターへと化していく。『ミステリー・サイエンス・シアター3000』(この作品も取り上げられた)のロボットでさえ、この作品にはお手上げだった。とはいえ、宇宙人の最先端テクノロジーと出会ったことで平均的なアメリカ人が愚の骨頂を極めるという主題に、世を儚む意図があるのは間違いない。STC
第49位:『溶解人間』(1977年)
スティーヴ・ウェストという宇宙飛行士が(実に宇宙飛行士らしい名前だ)土星の環の探査から帰還した……が、ちょっとした肌トラブルを抱えていた。
第48位:『スタークラッシュ』(1978年)
「歴史に残るスペースアドベンチャー」というのが、このイタリア映画のポスターの謳い文句だ。念のために言っておくと、この映画が作られたのはどんなに安っぽい『スター・ウォーズ』のパクリも、それなりに稼げた特殊な時代だった。一世を風靡したジョージ・ルーカスの作品にどれだけあやかっているかって? 宇宙船の空中戦あり、光の剣あり、「暗黒世界同盟」からやってきた悪党ザース・アーン(咳払い)は小さな惑星ほどもある最終兵器の建設を企んでいる。クリストファー・プラマーが演じる役どころは、その名もズバリ皇帝(大きく咳払い)。子供時代にこれを見た思い出を懐かしく振り返るのでなければ、まるでプロセスチーズのようなこの作品は、誰もが銀河の遥か彼方で一攫千金を狙っていた時代の名残と見るのが関の山だ。DF
第47位:『監獄都市ブラッド』(1977年)
5人の男女――『2001年宇宙の旅』で時の人となったキア・デュリアもいる――が、1800年代後期によくありそうな辺境の町ような場所で目を覚ます。多くの疑問が浮かぶ。
第46位:『続・猿の惑星』(1970年)
『猿の惑星』シリーズで最もクレイジーなこの作品は、1968年の第1作を逐一再現する形で幕を開ける。時空間の歪みをくぐり抜けた宇宙飛行士たちが着陸したのは、言葉を話す類人猿が支配する未来の地球。そこで仲間の1人(ジェームズ・フランシスカス)が捕らえられてしまう。だが主人公が脱出すると、ストーリーはそこから大きく展開し、舞台はニューヨークの地下鉄のトンネルへ。そこでは第1作の主人公(チャールトン・ヘストン)が、突然変異でテレパシー能力を備え、核爆弾を崇める人間のカルト集団に囚われていた。70年代の幕開けに作られた『族・猿の惑星』は、観客がすでに知っているストーリーをさらにダークに、さらに奇妙に作り替え、70年代のSFの方向性を確立した。NM
第45位:『デススポーツ』(1978年)
他人のヒット作のひどいパクリを作ることにかけてロジャー・コーマンの右に出る者はいない。だが彼は間違いなく、自らのヒット作のひどいパクリを作ることにも長けていた。『デス・レース2000年』がそこそこヒットした後、コーマンは再びデヴィッド・キャラダインとタッグを組み、さらにチープさに輪をかけた作品で前作のヒットにあやかろうとした。
第44位:『宇宙からのメッセージ』(1978年)
『スター・ウォーズ』をパクったこの作品の戦闘シーンに見られる力強い演出は、日本の深作欣二監督(『バトル・ロワイアル』)の成せる業。お粗末な特撮や笑ってしまうほどひどいセリフ回し、魔法の種やら屈強な兵士やら極悪非道なサムライ皇帝やら意味不明なストーリーには目を瞑っていただきたい。だが独創的な衣装に始まって、酔っぱらってろれつの回らないヴィック・モローの存在感に至るまで、この作品にはどこか惹かれるところがある。公開当初さんざん酷評していたニューヨーク・タイムズ紙のジャネット・マスリン記者でさえ、その魅力を認めざるを得なかった。「深夜1時にチャンネルを回して偶然『宇宙からのメッセージ』に当たったら、荒唐無稽だと思いながらも、きっと躍動感を覚えるだろう」BE
第43位:『25世紀の宇宙戦士キャプテン・ロジャース』(1979年)
『スター・ウォーズ』の影響で、映画スタジオはこぞって成功の方程式の分析に奔走した。あれほど大勢の観客を魅了したのは宇宙への旅か、特殊効果か、はたまた古き良きシリーズものへの郷愁か? その3つ全部だと読んだ『バトルスター・ギャラクティカ』のプロデューサー、グレン・A・ラーソンは、1920年代の大衆小説のヒーロー、バック・ロジャースをTVシリーズに蘇らせた。そしてドラマに先行して映画版を制作し、NBCでドラマが放映される半年前に劇場公開した。
第42位:『新・猿の惑星』(1971年)
第1作『猿の惑星』で宇宙飛行士が地球に来るときに通った時空の歪みを、今度は3匹の未来の猿――コーネリアス(ロディ・マクドウォール)、ジーラ(キム・ハンター)、マイロ博士(サル・ミネオ)――が反対側へ潜り抜ける。3匹が行き着いた先は1973年。そこで彼らはまず好奇の目で見られ、次に有名人となり、最後には大衆の敵と見なされる。シンプルな立場逆転劇はシリーズに手を加えただけでなく、新たな息吹を送り込んだ。ドン・タイラー監督は陰謀と世代闘争で混迷を極めていた70年代アメリカにコーネリアスとジーラを据え、はっと驚く新たな映像を披露した。NM
第41位:『世界が燃えつきる日』(1977年)
ロジャー・ゼラズニイの小説を映画化した20世紀FOXは、核戦争で荒廃した、虫の巣食う土地を放浪する元陸軍工作員の物語が、パニック映画ファンとSFファンタジーオタク両方のニーズを満たすだろうと高をくくっていた(彼らが乗り回す超クールな武装車両にも触れたかな?)。ところがどっこい、公開数カ月前に『スター・ウォーズ』を公開した。その後の顛末はご存知の通り。作品自体は些か時代を感じるが、生き残った人間が僅かな物資をかけて死に物狂いで戦うというストーリーは、『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『マッドマックス』といった作品を予感させる。
・70年代SF映画、ベストシーン50(写真)
第40位:『未来世界』(1976年)
まず、(1973年のカルト映画の名作『ウエストワールド』のように)テーマパークのロボットが来場客を殺戮し始めたら、再建して再オープンしようなどと考えない方がいいだろう。1973年の映画の続編に当たる今作で、ピーター・フォンダとブライス・ダナー演じる調査報道ジャーナリストは、第1作で人気娯楽施設を運営していた会社が政治家や軍指導者のクローンを作り、世界征服を企んでいることを知る。前作ほど印象には残らないものの、『未来世界』はサムライや宇宙旅行、そして何より恐ろしいことに、ユル・ブリンナーとの官能的な夢のシーンを盛り込んで、さらにスケールアップした。JN
第39位:『ラルフ・バグシのウィザーズ』(1977年)
アニメ作家のラルフ・バクシによる初の「ファミリー映画」は、双子の兄弟――アバター(魔法使い)とブラックウルフ(半悪魔)――の物語。2人が生まれる数百万年前、テロリストが原子爆弾を投下したため、地球の生命体の半数は放射能に汚染された土地でミュータントとして生活している。トールキン風の街を舞台に第二次世界大戦後の世界をテーマに描くカートゥーンファンタジーは、手描きのイラストと実際のヒトラーのプロパガンダ映像を織り交ぜ、ラストシーンでは実写の上にアニメーションを重ね、魔法がテクノロジーを凌駕する様を描いている。バクシ本人もよく冗談で、魔法と妖精と暗殺者をアーティスティックにまとめたこの作品は「Pixar作品の冒頭1分半分の予算」で制作された、と言っていた。ファンタジーとSFの融合の傑作として今も語り継がれている。DF
第38位:『ハードウェア・ウォーズ』(1978年)
「笑えて、泣けて、たったの3ドル!」 当時まだ1作しかなかった(想像し難い!)『スター・ウォーズ』を、映画の予告編風にパロった13分のショートムービーの謳い文句だ。わずか8000ドルという雀の涙ほどの予算で監督兼主演のアーニー・フォセリアスが作り上げたのは、憎めないほどチープで、かつ完全無欠のパロディ作品。さながら雑誌Madのコミックに息が吹き込まれたかのようだ。空気の抜けたバスケットボールのような惑星(実際にそうなのだが)の運命が危機にさらされる中、空飛ぶスチームアイロンと泡立て器がバトルを繰り広げる。
第37位:『宇宙空母ギャラクティカ』(1978年)
ロン・ムーアが人間対マシンの物語を9.11を題材にした説得力のある力強い作品に作り替えるずっと前に、グレン・A・ラーソンが手がけたABCのTVシリーズがあった。ローン・グリーン演じる主人公が12惑星連合を率いて、サイロンと呼ばれる殺人ロボットとの闘いに挑む姿を描いた作品だ(ここで登場するロボット兵士と、別の人気映画のストームトルーパーがあらゆる点で似ていることは決して偶然ではない)。ドラマのパイロット版として制作されたこの長編映画は、主に海外向け公開されたが、最終的にはアメリカでも公開された。スターバックと仲間たちが、円盤型の宇宙船を打ち落とす姿を、TV画面ではなく大スクリーンで見られるようになったわけだ。当時ギャラクティカのランチボックスを持っていた人にとって、この作品を見るたびに感じるほんわかとした気分は、何ものにも代え難いだろう。DF
第36位:『地球最後の男オメガマン』(1971年)
何度となく映画化されてきたリチャード・マシスンの小説『地球最後の男』が原作の『オメガマン』は、疫病の大流行の後唯一生き残った人類である陸軍医(チャールトン・ヘストンにとって、今作がいわゆる”終末SF三部作”の2作目にあたる)が人気のない荒廃したロサンゼルスを一人さすらうシーンで始まる。ほどなく彼は、殺気だったアルビノのミュータントの群れや、復讐に燃える生存者軍団と遭遇する。かの有名なヘストンとロザリンド・キャッシュの異人種間キスを除けば、ゴミが散乱する街角、商品棚が埋め尽くされたショッピングセンター、黒こげのドジャースタジアムをはじめとする、世紀末後の世界を描いた舞台セットと、グリーンのベルベットのジャケットとブルーのトラックスーツに代表される、ヘストンのポン引き顔負けの衣装が特に印象的だ。この未来は完全に荒んでいるが、少なくとも洒落っ気は健在だ。EH
第35位:『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(1970年)
デヴィッド・クローネンバーグ監督のお気に入りのテーマは、化粧品が原因による疾病で成人女性が絶滅し、残された男性たちが小児性愛的な集団を形成している未来を舞台にした2作目の長編映画ですでに描かれていた。中性的な主人公エイドリアン・トライポッドはハウス・オブ・スキンという謎の施設を後にし、人気のない街を彷徨する。ストーリーが中弛みする場面もあるが、それでも背景のモダニズム建築は必見。見たところ低予算で作られたようだが、クローネンバーグの発想力は手段を遥かに越えていた。地平線の向こうに、輝ける病的エッセンスを感じ取れるだろう。SA
第34位:『電子頭脳人間』(1974年)
マイケル・クライトンの小説『ターミナル・マン』を元にした知られざる名作スリラーで、ジョージ・シーガル演じる主人公は激しいてんかんの発作を抑えるべく、外科手術で脳にコンピューターを埋め込む。問題が起きるわけがないだろう?マイケル・ホッジス監督とリチャード・クライン撮影監督は狭苦しく落ち着かない感覚を織り込み、主人公の冷酷かつ邪悪な衝動を浮かび上がらせた。シーガルの精神を遠隔操作しようとする医師の努力も虚しく、ハッピーエンドでは終わらないだろうという緊迫感が物語の進行と共に高まっていき、やがて避けることの出来ない、悲劇的な結末へと向かう。JN
第33位:『ブラックホール』(1979年)
1950年代のアドベンチャー映画に70年代の最新特殊効果を盛り込んだディズニー初のPG指定の作品は、『海底二万マイル』の世界観を無限の宇宙空間にグレードアップした。全盛期を過ぎたアンソニー・パーキンスやアーネスト・ボーグナインといった俳優陣がしゃべるゴミ箱と戯れるといういたたまれないシーンのせいで、冒頭は時代錯誤感がぬぐえない。だが技術的な面では、タイトルの演出でCGの先駆け――ディズニーが『トロン』(1982年)のために温めていたものを垣間見ることが出来る。渦巻くブラックホールへの旅を決意する、チリチリ頭のイカれた博士を演じるマクシミリアン・シェルの仰々しい演技が見どころであることは言わずもがな。そして子供向けハリウッド作品が文字通り勧善懲悪で終わるのも衝撃的だ。EH
第32位:『猿の惑星・征服』(1972年)
『猿の惑星』シリーズ第3作は、架空の1990年代が舞台。そこでは猿やチンパンジーなどがペットとして飼われ、やがて労働力に回される。小憎らしい猿たちがその後どうなるか知っているだけに、観客は立場が逆転するのを今か今かと待ち構える。どんでん返しのラストシーンでは、後に類人猿が地球を支配することになる事件への前振りが示され、翌年公開された『最後の猿の惑星』では、家畜が蜂起していく様を年代ごとに追いながら補足をしていく。第1作以降シリーズで最も想像力に富んだこの作品は、冷血なユートピアを先に見せ、後から粉々に打ち砕く。その過程で、人間という種族に対する観客の共感は薄れていく。NM
第31位:『タイム・アフター・タイム』(1979年)
タイムトラベル・スリラーに、史上最高のSF作家と史上最悪の怪物を加え、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』をたっぷり混ぜ合わせれば、あっという間に『タイム・アフター・タイム』の出来上がり。マルコム・マクダウェル演じるH・G・ウェルズが、現代のサンフランシスコを舞台に、デヴィッド・ワーナー演じる切り裂きジャックを追いかける。『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』(1976年)で、かの名探偵の物語を巧みにアレンジしたニコラス・メイヤーは、場違いコメディと心温まるロマンスに――スクリーン上で恋人同士を演じたマクドウェルとメアリー・スティーンバージェンは翌年結婚――適度に血生臭いスリルを盛り込んだ。SA
第30位:『ダーク・スター』(1974年)
南カリフォルニア大学在学中の未来のホラー映画の巨匠ジョン・カーペンターと、未来の『エイリアン』の脚本家ダン・オバノンが華々しくコラボしたのがこの低予算オールナイト作品。4人の宇宙飛行士は宇宙空間を旅しながら、人類が生存出来そうな太陽系から「不安定な惑星」を排除する任務に当たっているが、たいていは暇を持て余している。仲間の1人が未知の風船に死ぬほどくすぐられたり、コンピューターが内蔵された爆弾が自らの存在意義について思いを巡らせたり、冷凍保存された死体がL.A.ドジャースの調子を尋ねたり。お粗末と賢いの間を揺らぐ特殊効果のクオリティーと同様に、カーペンターとオバノンのユーモアのセンスも、ルーニー・テューンズと酔っ払った大学生が考えそうなものと紙一重といったところ。「知的生命体に出会えると思う?」と1人が訪ねれば、もう1人がこう返す。「知ったことか」EH
第29位:『デス・レース2000年』(1975年)
プロデューサーのロジャー・コーマンとポール・バーテル監督によるこの低予算SFオタク向けカルト映画の決定版が公開されたとき、社会が即座に分断しなかったのは奇跡だ。この未来の世界(タイトル参照)の国民的娯楽はカーレース。罪のない人々を轢き殺したドライバーにポイントが加算される仕組みだ(車椅子の人は100ポイント)。デヴィッド・キャラダインが演じるのは歴代王者のフランケンシュタイン。『ロッキー』前夜のシルヴェスター・スタローン演じるサイコパスがその後を追う。時折現れる鉤十字や反社会的残忍性が共存したアメリカ像は実にシュールで、熱に浮かされて見るバカげた夢のように国民意識があらぬ方向に歪んでいる。このささやかなエクスプロイテーション映画に、後年のブロックバスターの数々も――『マッドマックス2』『バトルランナー』『ハンガー・ゲーム』など――多少なりと借りがあると感じずにはいられない。BE
第28位:『スリーパー』(1973年)
未来では、誰もがウディ・アレンの引き立て役に回る。古びることのないSFの常套手段とウディ・アレンの生まれ持った悲観主義のおかげで、『スリーパー』はディストピアな未来の描写を面白おかしく、皮肉を交えて描くことに成功した。アレン演じる冷凍保存されたごく普通の一般人が解凍されるシーンに始まって、扇情的な球体が主役の小洒落たパーティーまで、ドタバタぶりが随所に散りばめられている。マルクス兄弟ばりの大騒ぎとキューブリック風のクールさのミスマッチが絶妙だ。社会は警察国家に支配され、従来の快楽には無感覚。だがアレン演じる男は革命思想よりも性欲にかられ、永遠のセックスシンボル、ダイアン・キートンとの間に立ちはだかる障壁を何がなんでも乗り越えようとする。EH
第27位:『2300年未来への旅』(1976年)
2274年、巨大なドーム型都市の中では夢のような生活が待っていた。病気もなければ戦争もなく、誰もが若くて美しい。が、もちろん裏がある。それもかなりヤバいのが。20代最後の年を迎えると、誰もが公開デスマッチに参加しなくてはならないのだ。逃げようとすれば、黒ずくめの警察に殺されてしまう。ドーム都市のミニチュア模型や、クリスマスカラーのカフタン姿でショッピングモールのエスカレーターを上り下りする若者の姿は、いかにも70年代らしい未来予想図だ(ファラ・フォーセットのお出まし!)。だが裏切り者のサンドマン、マイケル・ヨークとセクシーな反逆者ジェニー・アガターが外の世界へ逃走すると、ハラハラドキドキな冒険劇は「大人は誰も信じるな」という筋書から、いかにもありがちな結末へと向かっていく。EH
第26位:『スタートレック』(1979年)
映画版『スタートレック』の中では『スタートレックII カーンの逆襲』が最高傑作だ。それが正しいことは、歴史が物語っている。だがエンタープライズ号の劇場処女航海も、お勧めする価値はある。続編ほど光るところはないものの、奥行きのある、落ち着いた宇宙ドラマは『スター・ウォーズ』ピュンピュン・バンバンとは対照的だった。カーク船長とスポック、その他大勢の冒険物語もやがてアクションや笑いに注力していくことになるが、『スタートレック』は頭脳と畏怖に重きを置いていた。シリーズに新境地をもたらす『新スタートレック』のお膳立てをしたともいえる、カーク船長時代の映画だ。TG
第25位:『デモン・シード』(1977年)
悪に目覚めた機械が暴走する、というサブジャンルへのドナルド・キャメル監督の意欲作。本編を見ている最中も、自我が芽生えたコンピューターが科学者のハイテクな家を乗っ取り、彼の妻を孕ませてサイボーグベイビーを生ませるという(!)奇妙なスリラーが実在するとは、なかなか信じがたい。キャメル監督は一体どうやってスタジオを説得し、ジュリー・クリスティが銅製のルービックスネークもどきに犯される映画に金を出させたのだろう? 知らぬが仏、さほど重要ない点をつつくのもやめておこう。それより実験映画の名手ジョーダン・ベルソンから拝借した表現など、幻想的な狂気に身をゆだねるのが良かろう。SA
第24位:『ソイレント・グリーン』(1973年)
今や伝説となった悪名高い叫び声のクライマックスのシーンはしばし脇に置いといて。リチャード・フライシャー監督の1973年の作品はSFメロドラマというよりフィルム・ノワール――『猿の惑星』よりも『ブレードランナー』寄りだ。舞台は荒れ果てたニューヨーク。人口過密と気候変動で街は不毛の地と化し、人々は動物同然の生活を強いられている(実際、ニューヨークはずっとそう)。チャールトン・ヘストン――当時はまだ、こうした環境メッセージ色の強い作品にも出るような俳優だった――が演じる探偵はある企業幹部の殺人事件を捜査するうちに、人々が日々口にしている加工食品について穏やかならぬ真実を突き止める。全体的な雰囲気はSFワンダーランドというよりもメランコリックで、シニシズムはなかなか拭い落とせない。BE
第23位:『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(1979年)
患者の内に秘めた怒りを物理的な存在に変える能力を持つ、非情な心理学者を描いた1979年のSFスリラーで、デヴィッド・クローネンバーグ監督は実在的な脅威を、目に見える暴力的な恐怖へと昇華させた。ホラーファンなら、患者の怒りの根源に襲いかかる実体のない精神の闇に喜々とするだろう。それ以外の人は、親子関係や抑圧された感情、そして怒りについて、作品が訴えるメッセージに心をかき乱される。クローネンバーグ監督は1980年代初期に『スキャナーズ』でスプラッター度を、『ヴィデオドローム』でシュール度を増していくが、「新しい肉体」への憑依はこの時期にすでに開花していた。JN
第22位:『スローターハウス5』
「時間の中に解き放たれた」兵士たち、宇宙を行き来する家族、第二次世界大戦中のドレスデンの爆撃。カート・ヴォネガットの傑作小説は、これまで実写化は不可能と思われてきた――が、ジョージ・ロイ・ヒル監督は賢明にもこれを無視した。何はともあれ、彼が手がけた劇場版『スローターハウス5』は、原作の断片的な解離した感覚を強調し、ビリー・ピルグリムの世界観へ観客を放り込んだ。第二次世界大戦の元戦争捕虜である彼は、晩年を宇宙人の飼育小屋でストリッパーと過ごす。支離滅裂な宇宙の小噺が、トラウマを抱えた主人公の妄想の寄せ集めなのか、それとも本当に未知なる生物との遭遇なのか、それは永遠に謎のまま。映画の中ではピルグリムの人生が、酸いも甘いも潜り抜けてきた壮大かつブッ飛んだ旅として描かれている、ということだけは確かだ。DF
第21位:『ファンタスティック・プラネット』(1973年)
小説のように濃密で、夢のように掴みどころがない。ルネ・ラルー監督のおとぎ話が描き出すのは、オム族と呼ばれるヒト型の生き物が、ドラーグ族という水色の巨大生物におもちゃのように扱われている惑星。抑圧された人種が圧制者に反旗を翻す、というストーリーは第二次世界大戦の比喩として解釈されてきたが、少々居心地は悪くとも、平和的な共存を願う想いには、より複雑で普遍的な哲学が伺える。切り紙アニメーションと台詞のない長いシーンを駆使することで、想像力をかき立てるミニマリズムから理屈よりも感覚に訴える世界観が生まれた。SA
第20位:『スーパーマン』(1978年)
「ダークな」スーパーヒーローが人気を博している昨今、DCコミックスの原作を忠実に描くというリチャード・ドナーの決断は、後から振り返ればいい意味で安全パイだった。だが21世紀の兄弟たち同様、この作品も決してB級映画ではない――総製作費5500万ドルの記念すべきシリーズ第1作は、オスカー俳優マーロン・ブランドとジーン・ハックマンを起用し、『ゴッドファーザー』のマリオ・プーゾを脚本に迎え、空飛ぶ人間の存在を観客に信じ込ませた。クリストファー・リーヴのいかにも映画スター然としたカリスマに代表されるように、年季の入ったキレのいい活力とスクリーン一杯に広がるスペクタクルが満載だ。尤も、マーゴット・キッダー演じるウーマン・リブ時代のルイス・レーンのおかげでテンポよくストーリーが展開しているからではあるが。ハックマンは憎たらしいほど粋な悪役レックス・ルーサー役で主役を食う名演技を見せたが、そんな彼ですら、グランド・セントラル駅を超悪党のプール付き秘密基地に変えた精巧なセットの前では霞んで見える。EH
第19位:『ディーモン/悪魔の受精卵』(1976年)
神が宇宙人かもしれない、と考えたのはB級映画の巨匠ラリー・コーエンが最初ではないが、地球外生命体が人の体を乗っ取って大量殺戮を始める、という筋書きを思いついたのは彼が最初だ。一般市民が道路を横断中にスナイパーの餌食となる様を描いた『ディーモン/悪魔の受精卵』は、70年代中期のマンハッタンの殺伐感をまさに象徴している。トニー・ロビアンコ演じる鼻っ柱の強い探偵は、とある事件で人間性の本質を探るうちに、自らの信念が試され、衝撃の事実を知ることになる。高尚な哲学と、血生臭い犯罪スリラーを融合したこの作品は、時に2本の映画を同時に見ているような気分にさせられる――後味の悪い、時に困惑をさせられる、そして確実に忘れられない体験だ。SA
第18位:『THX-1138』(1971年)
後年ジョージ・ルーカスが銀河の遥か彼方で展開するどの作品にも匹敵するほど、視覚的にも音響的にも秀逸。彼が描いた悪夢のような未来の極右的社会は、セックス、ドラッグ、脳死テレビ、汚職だらけの政府、反乱の必要性と不毛さを全て一緒くたにした、70年代アメリカン・ニューシネマ・ルネサンスの申し子だ。ロバート・デュヴァルは『1984』のウィンストン・スミスのごとく、物静かに存在感を放つ。これは単なる映画ではない。ジョージ・ルーカスの作品が30年代のTVシリーズから、60年代の知的なSFへ方向転換する、別世界への出発地点だ。STC
第17位:『地球爆破作戦』(1970年)
『ターミネーター』が生まれる14年前(そしてHALがポッドのドアを開けることを拒んでからわずか2年後)、スーパーコンピューターが世界を支配して人類壊滅を図る、という知られざる傑作が存在した。堅物エンジニアのチャールズ・A・フォービン博士はアメリカ国防総省を説得して、自ら開発した「コロッサス」にアメリカの核兵器庫を管理させる。すると恐ろしいことに、「コロッサス」は創造主を差し置いて、ソ連の電子頭脳と勝手に交信し始める。科学の思い上がりがストーリーの核。人類最高の天才集団の代表格として、博士は実に優れたマシンを作るのだが、そのマシンは賢いがゆえに、人類は博士のような傲慢野郎ばかりだと気づいてしまう――平和の名の下に、全員粛清するべきだと。NM
第16位:『ストーカー』(1979年)
うらぶれた雇われガイドが2人の知識人を立ち入り禁止の、放射能に汚染されたと思しきロシア領地、通称「ゾーン」へ案内する。2人の男は1日かけて、草木が生い茂る廃墟の中を彷徨い歩き、ある部屋へ辿り着く。その部屋には、人間の胸の奥底にある願いを叶えてくれる力があると信じられていた。アンドレイ・タルコフスキーのカメラワークが流れる小川や頭上を飛び立つ鳥、人気のない家に木霊する電話の音を、誰もがひれ伏す神の所業に変えるように、訪問者の畏怖で室内を魔法で満たす。EH
第15位:『少年と犬』(1975年)
通貨の代わりに缶詰めが流通し、暴力が共通言語としてまかり通る、焦土と化したこの世の地獄では、最初に沸き起こるのは性欲ではないだろう。だが、まさにそれがこの映画――ハーラン・エリスンの小説を元にした一風変わった低予算風刺映作品のポイントだ。ヴィック(『マイアミ・バイス』で有名になる前のドン・ジョンソン)は常に性欲旺盛な10代の放浪者で、愛犬のブラッドとテレパシーで意思疎通が出来る。とある地下組織が子孫繁栄のために精子提供者を探していると聞き、ヴィックは喜んで協力を申し出る。エリソンの原作は、この作品以降も数々の映画で効果的に使われてもよかったはずだが、胸糞の悪くなるような風刺をこの1本に凝縮したことで、名作カルト映画としての地位を確立する以上のことを成し遂げた。JN
第14位:『マッドマックス』(1979年)
オーストラリアン西部劇にして70年代自警団スリラー、さらにアクション満載の世紀末ロードムービーでもある。映画史に金字塔を打ち立てたオーストラリア発エクスプロイテーション映画の舞台は、戦争で荒廃した未来の地球。荒くれ者の暴走族からわずかに残された文明社会を守るのは、”マッドマックス”ことロカタンスキーのような警官だけ。ディストピアを情け無用のスタントカーレースで描いたジョージ・ミラーの作品で、メル・ギブソンは世界的スターの仲間入りを果たしたが、オーストラリア訛りの英語をアメリカ英語に吹き替えたひどいバージョンが公開されたアメリカでは、当初見向きもされなかった。だが数年後、秀逸な続編『マッドマックス2』が公開される頃には、第1作も正真正銘の名作カルト映画として認められていた。CC
第13位:『アンドロメダ…』(1971年)
この20年、幾度となく映画館に蔓延したバイオハザード・スリラーの先駆け的作品。恐ろしい宇宙病原体をテーマにしたマイケル・クライトンの小説をロバート・ワイズ監督が映画化したこの作品には、SFらしい低俗さと幻想の代わりに、マニュアル的なシリアスさが漂っている。墜落した人工衛星が持ち帰った謎の胞子――コードネーム:アンドロメダ――により人類が滅亡の危機に立たされていると知った科学者らは、何としてでもこの致死的な病原体を封じ込めようとする。真っ白な無菌空間への憧れと、「サイエンス・フィクション」の「サイエンス」の部分へのこだわりが非常にいい仕事をしている。細菌恐怖症の方々は、覚悟して見るべし。DF
第12位:『ローラーボール』(1975年)
ノーマン・ジュイソンが描いた近未来エクストリームスポーツには、政治陰謀スリラーにマクルーハンかぶれのメディア風刺、超暴力的な描写と当時流行りのスポーツブームがひとまとめにされ、さらにロバート・アルトマン顔負けのズームショットがふんだんに取り入れられた。その上ジェームズ・カーンが、ローラーボール史上最高のプレイヤーを演じている――ローラーダービーとモトクロスとフットボールとボクシングを組み合わせた、超大人気の格闘スポーツだ。この歪みきった未来では企業支配が国民国家に取って代わり、会社の重役たちはカーン演じるチャンピオンのようなボーラーが自分たちの人気度を悟らないよう、ゲームに裏工作する。世紀末的なデスマッチで激しさを増していくスケートリンク上のアクションは、今見ても扇動的な残虐さだ。EH
第11位:『ウエストワールド』(1973年)
従来のバカンスに飽きた未来の裕福な観光客のために作られた、3つの大人向けテーマパーク。そこでは等身大のロボットが、どんなニーズにも答えてくれる。だが不具合を起こしたアンドロイドたちは来場客を殺戮し始め、最後にはユル・ブリンナー演じる無愛想な喧嘩早いガンマンと対峙する。マイケル・クライトンの1973年の映画は、コンピューターウイルスの登場を予見し、後年の映画で定番となるCGIを最初に活用した作品だ。今見ると時代遅れなところもあるものの、『ロボコップ』から『ブレードランナー』まで、あらゆる映画に登場する悪徳企業の存在に目を付けた映画第1号として語り継がれている。殺人カウボーイロボットという存在も、未来永劫SFオタクの憧れであり続けるだろう。JN
第10位:『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年)
これまで作られた傑作リメイク作品の中でもダントツの人気を誇る本作。ドン・シーゲル監督がマッカーシー時代を舞台に描いた名作を、フィリップ・カウフマン監督は1978年のサンフランシスコに置き換えた。ドナルド・サザーランド演じるトレンチコート姿の公衆衛生調査官は、一般市民が虚ろな眼をした自らのレプリカへと変容していることを知る。60年代の残骸へのとどめの一撃と言わんばかりに、謎の現象は隣人、社会、環境への不信感へ人々を駆り立てる。カウフマンはフィルム・ノワール風のミステリーから超常現象スリラー、そして絶叫SFホラーへと、いくつものジャンルや雰囲気を操る才能に長けていることを証明した。本当の敵は自分たちの中にいる、という最後の幕切れから立ち直ることなど到底不可能だ。EH
第9位:『未知との遭遇』(1977年)
Moviestore/Shutterstock
『ジョーズ』で一山当てたスティーヴン・スピルバーグの次なる傑作を最後に見たのはいつだっただろうか? リチャード・ドレイファスとテリー・ガーが夫婦喧嘩をしてドアをピシャリと閉めるシーンを覚えているか? スピルバーグがクライマックスをずいぶん先まで引っ張り、ドレイファスがいとも容易く宇宙船への乗船を承諾したことを覚えているだろうか? 『未知との遭遇』が傑作たる所以は、1977年のもうひとつのSFブロックバスター『スター・ウォーズ』とは違い、時間をかけてゆっくりと、70年代のパラノイアやリーダーズ・ダイジェスト誌的な神秘へ我々を誘っていき、最後にマンハッタンほども大きな宇宙船であっと驚かせた点だ。オーソン・ウェルズが火星人の侵略を警告してから40年後、スピルバーグは我々を友好的なエイリアンに出会わせてくれた。もちろんそれには何の悪意もなく幼児を攫うシーン、キーボードを激しく連打して交信しようとするシーンも含まれている。そして極めつけは、フランソワ・トリュフォーを手懐ける稀な力を備えた、優しい目をした光り輝く生命体だ。EH
第8位:『フェイズIV/戦慄!昆虫パニック』(1974年)
伝説的なグラフィックデザイナー、ソール・バスの唯一の長編映画。高度な知能を備えたアリの巣が世界征服を目論む、というストーリーだが、クリーチャーものというよりは、イカしたアリ学者たちとマジックマッシュルームをキメる映画、という方がふさわしい。アリたちは科学者たちを人里離れた砂漠の研究所で捕らえるが、人類殲滅を図っているわけではなく、(文字通り)巣にしようとしていることが明らかになる――最近になって公開されたエンディングでもはっきり描かれている。目くるめく映像のモンタージュは、『2001年宇宙の旅』の「無限の宇宙の彼方へ」とかなりいい勝負だ。SA
第7位:『サイレント・ランニング』(1972年)
Universal/Douglas/Gruskoff Prods
この映画にはあらゆる要素が詰まっている――”あらゆる”とは、ブルース・ダーンがロングヘアの環境活動家の殺人犯で、ドロイドとポーカーに興じたり、ウサギと話したり、サラダに異様な愛情を傾けることも含む。視覚効果の魔術師、ダグラス・トランブルの監督デビュー作『サイレント・ランニング』は、「本当は怖い童話」のエコロジー版。巨大な宇宙貨物船の中で手塩にかけて育てた温室が破壊されることになり、環境活動家は牙を剥く。道徳的には正しくとも、躍起になって苦悩をまくし立てるダーンの姿は、その後の恐ろしい展開を予感させる。独り残された彼のお供は、正義感と罪の意識、そして前述のドロイドだけ。突拍子もないほどイカれた作品だが、『スター・ウォーズ』によちよち歩きのキュートなロボットのヒントを、『ミステリー・サイエンス・シアター』には「もしも宇宙で退屈したら」という発想を与えた。EH
第6位:『未来惑星ザルドス』(1974年)
20th Century Fox/Kobal/Shutterstock
時は2293年。不能なヘソ出しヒッピーと、無学で薄汚い蛮族に二分されている世界。後者を抑制しておくため、巨大な頭の石像のような神が上空に浮かび、赤いおむつを履いた人間に好きなように人を殺すように言う。この「エクスターミネーター」の一人が胸毛のたくましい、ほぼ全裸のショーン・コネリー。単身平和ボケしたエデンの園へ忍び込み、シャーロット・ランプリング演じる氷の女王を自分の息子でたぶらかし、階級制度を転覆させる。半分LSDトリップ、半分ヒネリまくりの社会風刺(南カリフォルニアの神秘主義者と、武装過激派を対峙させたジョン・ブアマン監督はお見事)の、歴史に残るおバカ大作は、ジェームス・ボンドが105分間三つ編みポニーテールを振り回すだけの映画ではない――つまり相当なものだ。EH
第5位:『スター・ウォーズ』(1977年)
Lucasfilm
40年近く考えても、ジョージ・ルーカスの三文ポップ・スペースオペラがもたらした社会的・経済的影響力は計り知れない。『フラッシュ・ゴードン』シリーズ、ギリシャ神話やアーサー王伝説、レニ・リーフェンシュタール的な勝利主義の焼き増しだが、そこはやはりジョージ・ルーカス、世界観と市場開拓には先見の明を持っていた。1977年当時のキャラクターを元に、また新たな三部作が作られようとしていることからも、この作品の不変的な魅力を物語っている――いやはや、こんな映画は他に見たことがない。他の70年代のSF映画が70年代らしさを拭えない中、ルーカスはあらゆる手を尽くし――アナログな視覚効果をデジタルにアップグレードしたり、キャラクターの過去を掘り起こしたり――過去の遺物になるのを防いできた。特定の時代に留まらず、むしろスクリーンの外で、永遠に生き続ける映画を作ること。それが彼の目的だった。そして今も、我々はその物語を生きている。EH
第4位:『惑星ソラリス』(1972年)
Moviestore/Shutterstock
ポーランドの作家スタニスワフ・レムの小説を元にした『惑星ソラリス』は、SFというジャンルを超えるのではなく、遥かな高みへと昇華させた。ソ連宇宙計画時代を象徴する作品だが、ヒロイズムや集産主義や技術革新の話ではない。記憶と喪失と罪悪感をテーマにした困惑の脳内トリップだ。宇宙ステーションに残された2人の乗組員が謎めいた力によって精神を蝕まれ、それを調査するために1人の心理学者(陰のあるドナタス・バニオニス)が送り込まれる。だが彼もすぐに、亡霊ではなく、肉体を伴って現れる死んだ元妻に取り憑かれてしまう。渦巻くソラリスの海は、さながら蛍光色版ロスコ。映画監督アンドレイ・タルコフスキーは無重力状態を、不吉な超常的苦悩として描いた――だが『ソラリス』の真のテーマは、筆舌に尽くしがたい内なる宇宙の存在だ。EH
第3位:『時計仕掛けのオレンジ』(1971年)
Warner Bros/Hawk Films/Kobal/Shutterstock
公開当時は散々こき下ろされたが――スタンリー・キューブリック監督は、しばらくの間イギリスでの公開を差し止めたほどだ――今日の映画の水準に照らしてみれば、倫理が崩壊したディストピアという点で『時計仕掛けのオレンジ』は比較的大人しい方かもしれない。だが、この過激な風刺映画の後継作品も、ここまで抱腹絶倒ではあるまい。アンソニー・バージェスの1962年の小説を映画化したこの作品は、暴君ドルーグ・アレックスを演じるマルコム・マクダウェルのスカっとするほど生意気な演技に導かれ、痛々しいほどの面白さ(と巧妙さ)を損なうことなく、従順と政府の抑圧が結託して我々の精神を壊す過程を描く。メッセージが真摯だからこそ茶番劇として完成した『時計仕掛けのオレンジ』は、実にチャーミングなガキ大将が語るダークな教訓物語だ。TG
第2位:『地球に落ちて来た男』(1976年)
ニコラス・ローグ監督によるウォルター・テヴィスの小説の映画化には、70年代にSFが甘んじていた常套手段の片鱗はなく、息もつかせぬほど刹那的で、独特だ。デヴィッド・ボウイが演じるトーマス・ジェローム・ニュートンは、地球に送り込まれた赤毛の宇宙人。枯渇した故郷の惑星のために、水を確保するのが目的だ。最先端技術の特許で巨万の富を得た後、中性的な背高のっぽは見目麗しいエレベーターガール(キャンディ・クラーク)や絶えず騒がしいアメリカのテレビ番組などに魅了され、任務の遂行が出来なくなっていく。ローグにとって、孤独やアンニュイは単なる添え物ではない。それは痛ましいほどの精神状態と存在の成れの果て。そう、よそ者は君だ。EH
第1位:『エイリアン』(1979年)
散々焦らした末にやっとサメを登場させた『ジョーズ』を別にすれば、70年代の超大作の中でも、ひとつのシーンに至るまでの不安と期待をこれほど美しく描いたのは、リドリー・スコット監督の地球外ホラー以外にはあるまい(エイリアンがケインの腹から荒々しく飛び出すシーンは、何回見ても慣れない)。あのシーンに行くまでの『エイリアン』は、大気圏外での退屈な人間ドラマ――星々の間で起こる潜水艦スリラーに過ぎない。それが突然、宇宙空間を舞台にしたホーンテッドマンションに早変わり。密室という設定が耐えられない緊張感を生み出すのだ。それまで映画の世界では、宇宙といえば謎や好奇心、冒険の源だった――だが『エイリアン』以降、宇宙は悪夢に新たな舞台を提供した。そこではどんなに悲鳴を上げても、誰にも届かない。TG
世間が水瓶座の時代からウォーターゲートとディスコの時代へと徐々に移行する中、恐らく混乱し、あるいはラリっていた観客の度肝を抜いてやろうというSF映画も確かにあった。だが1970年代も終盤になる頃には、ポストアポカリプスもののアクションアドベンチャーに衝撃の未来予想図、テクロノジー恐怖症の悪夢、”たられば”を描いた低予算のエクプロイテーション映画や超大作スペースオペラまで、一通り揃っていた――全部まとめてSFというジャンルに括られ、おかげでSFは映画界を根底から覆す存在となった。この時代の影響は今も最寄りの映画館に行けば一目瞭然だ。
今日のSF映画のあり方を築き上げた10年を称え、1970年代のSF映画ベスト50をカウントダウン形式で紹介しよう。映画史に残る最高傑作もあれば、正直、あの頃だったから良かったという作品もある。だがそれぞれがSFの行き先――寂れた小劇場であれ最先端のシネコンであれ――を再定義したことには間違いない。まさにSFというジャンルが、前人未到の領域へ大胆に足を踏み出した時代だったのだ。
第50位:『SFレーザーブラスト』(1978年)
カリスマ性ゼロの金髪のティーンエイジャーが、砂漠に打ち捨てられていたエイリアンの武器とネックレスを偶然発見。それを使って見境なく破壊行為に走り、モンスターへと化していく。『ミステリー・サイエンス・シアター3000』(この作品も取り上げられた)のロボットでさえ、この作品にはお手上げだった。とはいえ、宇宙人の最先端テクノロジーと出会ったことで平均的なアメリカ人が愚の骨頂を極めるという主題に、世を儚む意図があるのは間違いない。STC
第49位:『溶解人間』(1977年)
スティーヴ・ウェストという宇宙飛行士が(実に宇宙飛行士らしい名前だ)土星の環の探査から帰還した……が、ちょっとした肌トラブルを抱えていた。
例えば、溶けた蝋燭の様に滴り落ちてしまうとか。それに、どうやら人肉を欲するようになったらしい。一説によれば、ウィリアム・サックス監督によるドライブインシアター向け低予算映画は、元々宇宙から化け物が来る系の映画をコメディタッチで作るつもりだったらしい。だが結局コメディの要素は排除され、ホラー映画として仕切り直しされた。実際には、必ずしも意図したわけではなかろうが、コメディとして成功を収めた。DF
第48位:『スタークラッシュ』(1978年)
「歴史に残るスペースアドベンチャー」というのが、このイタリア映画のポスターの謳い文句だ。念のために言っておくと、この映画が作られたのはどんなに安っぽい『スター・ウォーズ』のパクリも、それなりに稼げた特殊な時代だった。一世を風靡したジョージ・ルーカスの作品にどれだけあやかっているかって? 宇宙船の空中戦あり、光の剣あり、「暗黒世界同盟」からやってきた悪党ザース・アーン(咳払い)は小さな惑星ほどもある最終兵器の建設を企んでいる。クリストファー・プラマーが演じる役どころは、その名もズバリ皇帝(大きく咳払い)。子供時代にこれを見た思い出を懐かしく振り返るのでなければ、まるでプロセスチーズのようなこの作品は、誰もが銀河の遥か彼方で一攫千金を狙っていた時代の名残と見るのが関の山だ。DF
第47位:『監獄都市ブラッド』(1977年)
5人の男女――『2001年宇宙の旅』で時の人となったキア・デュリアもいる――が、1800年代後期によくありそうな辺境の町ような場所で目を覚ます。多くの疑問が浮かぶ。
ここはどこだ? 自分たちはここで一体何をしている? 「監獄都市ブラッド」から逃げ出すために、なぜ人を殺さなくてはならない? 『シェーン』の悪役(ジャック・パランス万歳!)が鉛玉をぶち込もうとしているのに何か理由が? 簡潔に言えば、何もかもが見た目通りではない、ということ。西部劇とSFを組み合わせたこの奇妙な作品は、多くの点で『ウエストワールド』を手本にしており、B級ムービーらしいチープさという点では後者を越えていることも言っておこう。とはいえ、このエクスプロイテーション映画の結末は(あえてネタバラシはしないが)、この先何年もSFを席捲することになるテーマを予見していた。DF
第46位:『続・猿の惑星』(1970年)
『猿の惑星』シリーズで最もクレイジーなこの作品は、1968年の第1作を逐一再現する形で幕を開ける。時空間の歪みをくぐり抜けた宇宙飛行士たちが着陸したのは、言葉を話す類人猿が支配する未来の地球。そこで仲間の1人(ジェームズ・フランシスカス)が捕らえられてしまう。だが主人公が脱出すると、ストーリーはそこから大きく展開し、舞台はニューヨークの地下鉄のトンネルへ。そこでは第1作の主人公(チャールトン・ヘストン)が、突然変異でテレパシー能力を備え、核爆弾を崇める人間のカルト集団に囚われていた。70年代の幕開けに作られた『族・猿の惑星』は、観客がすでに知っているストーリーをさらにダークに、さらに奇妙に作り替え、70年代のSFの方向性を確立した。NM
第45位:『デススポーツ』(1978年)
他人のヒット作のひどいパクリを作ることにかけてロジャー・コーマンの右に出る者はいない。だが彼は間違いなく、自らのヒット作のひどいパクリを作ることにも長けていた。『デス・レース2000年』がそこそこヒットした後、コーマンは再びデヴィッド・キャラダインとタッグを組み、さらにチープさに輪をかけた作品で前作のヒットにあやかろうとした。
今度の舞台は1000年後の未来。腰巻姿のキャラダインが、生死をかけたオートバイバトルに巻き込まれる。全てがあまりにもチープなので、さながらホームビデオのようだ。砂漠で跳んだり跳ねたり揉み合ったりというシーンも、まるで楽しく騒いでいるようにしか見えない。子供の頃、友達とビデオカメラを持って裏庭を転げ回ったことがあるなら、この作品はそのとき撮った映像とほとんど変わらない。BE
第44位:『宇宙からのメッセージ』(1978年)
『スター・ウォーズ』をパクったこの作品の戦闘シーンに見られる力強い演出は、日本の深作欣二監督(『バトル・ロワイアル』)の成せる業。お粗末な特撮や笑ってしまうほどひどいセリフ回し、魔法の種やら屈強な兵士やら極悪非道なサムライ皇帝やら意味不明なストーリーには目を瞑っていただきたい。だが独創的な衣装に始まって、酔っぱらってろれつの回らないヴィック・モローの存在感に至るまで、この作品にはどこか惹かれるところがある。公開当初さんざん酷評していたニューヨーク・タイムズ紙のジャネット・マスリン記者でさえ、その魅力を認めざるを得なかった。「深夜1時にチャンネルを回して偶然『宇宙からのメッセージ』に当たったら、荒唐無稽だと思いながらも、きっと躍動感を覚えるだろう」BE
第43位:『25世紀の宇宙戦士キャプテン・ロジャース』(1979年)
『スター・ウォーズ』の影響で、映画スタジオはこぞって成功の方程式の分析に奔走した。あれほど大勢の観客を魅了したのは宇宙への旅か、特殊効果か、はたまた古き良きシリーズものへの郷愁か? その3つ全部だと読んだ『バトルスター・ギャラクティカ』のプロデューサー、グレン・A・ラーソンは、1920年代の大衆小説のヒーロー、バック・ロジャースをTVシリーズに蘇らせた。そしてドラマに先行して映画版を制作し、NBCでドラマが放映される半年前に劇場公開した。
がっしりした顎のギル・ジェラードが演じる主人公はNASAスペースシャトルの操縦士。80年代に凍結保存され、2491年に眠りから覚めると、地球と戦闘種族ドラコニアンとの争いに巻き込まれていた。至るところにディスコの煌めきを散りばめようとしているのが見て取れる――特にバックの相棒で小生意気なロボット、トゥウィキは、スタジオ54帰りのC-3POのようだ。NM
第42位:『新・猿の惑星』(1971年)
第1作『猿の惑星』で宇宙飛行士が地球に来るときに通った時空の歪みを、今度は3匹の未来の猿――コーネリアス(ロディ・マクドウォール)、ジーラ(キム・ハンター)、マイロ博士(サル・ミネオ)――が反対側へ潜り抜ける。3匹が行き着いた先は1973年。そこで彼らはまず好奇の目で見られ、次に有名人となり、最後には大衆の敵と見なされる。シンプルな立場逆転劇はシリーズに手を加えただけでなく、新たな息吹を送り込んだ。ドン・タイラー監督は陰謀と世代闘争で混迷を極めていた70年代アメリカにコーネリアスとジーラを据え、はっと驚く新たな映像を披露した。NM
第41位:『世界が燃えつきる日』(1977年)
ロジャー・ゼラズニイの小説を映画化した20世紀FOXは、核戦争で荒廃した、虫の巣食う土地を放浪する元陸軍工作員の物語が、パニック映画ファンとSFファンタジーオタク両方のニーズを満たすだろうと高をくくっていた(彼らが乗り回す超クールな武装車両にも触れたかな?)。ところがどっこい、公開数カ月前に『スター・ウォーズ』を公開した。その後の顛末はご存知の通り。作品自体は些か時代を感じるが、生き残った人間が僅かな物資をかけて死に物狂いで戦うというストーリーは、『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『マッドマックス』といった作品を予感させる。
NM
・70年代SF映画、ベストシーン50(写真)
第40位:『未来世界』(1976年)
まず、(1973年のカルト映画の名作『ウエストワールド』のように)テーマパークのロボットが来場客を殺戮し始めたら、再建して再オープンしようなどと考えない方がいいだろう。1973年の映画の続編に当たる今作で、ピーター・フォンダとブライス・ダナー演じる調査報道ジャーナリストは、第1作で人気娯楽施設を運営していた会社が政治家や軍指導者のクローンを作り、世界征服を企んでいることを知る。前作ほど印象には残らないものの、『未来世界』はサムライや宇宙旅行、そして何より恐ろしいことに、ユル・ブリンナーとの官能的な夢のシーンを盛り込んで、さらにスケールアップした。JN
第39位:『ラルフ・バグシのウィザーズ』(1977年)
アニメ作家のラルフ・バクシによる初の「ファミリー映画」は、双子の兄弟――アバター(魔法使い)とブラックウルフ(半悪魔)――の物語。2人が生まれる数百万年前、テロリストが原子爆弾を投下したため、地球の生命体の半数は放射能に汚染された土地でミュータントとして生活している。トールキン風の街を舞台に第二次世界大戦後の世界をテーマに描くカートゥーンファンタジーは、手描きのイラストと実際のヒトラーのプロパガンダ映像を織り交ぜ、ラストシーンでは実写の上にアニメーションを重ね、魔法がテクノロジーを凌駕する様を描いている。バクシ本人もよく冗談で、魔法と妖精と暗殺者をアーティスティックにまとめたこの作品は「Pixar作品の冒頭1分半分の予算」で制作された、と言っていた。ファンタジーとSFの融合の傑作として今も語り継がれている。DF
第38位:『ハードウェア・ウォーズ』(1978年)
「笑えて、泣けて、たったの3ドル!」 当時まだ1作しかなかった(想像し難い!)『スター・ウォーズ』を、映画の予告編風にパロった13分のショートムービーの謳い文句だ。わずか8000ドルという雀の涙ほどの予算で監督兼主演のアーニー・フォセリアスが作り上げたのは、憎めないほどチープで、かつ完全無欠のパロディ作品。さながら雑誌Madのコミックに息が吹き込まれたかのようだ。空気の抜けたバスケットボールのような惑星(実際にそうなのだが)の運命が危機にさらされる中、空飛ぶスチームアイロンと泡立て器がバトルを繰り広げる。
最終的にフルーク・スターバッカーと仲間たちの冒険物語は100万ドルの興行収入を上げた。費用対効果という点では、ジョージ・ルーカスさえも足元には及ばない。SA
第37位:『宇宙空母ギャラクティカ』(1978年)
ロン・ムーアが人間対マシンの物語を9.11を題材にした説得力のある力強い作品に作り替えるずっと前に、グレン・A・ラーソンが手がけたABCのTVシリーズがあった。ローン・グリーン演じる主人公が12惑星連合を率いて、サイロンと呼ばれる殺人ロボットとの闘いに挑む姿を描いた作品だ(ここで登場するロボット兵士と、別の人気映画のストームトルーパーがあらゆる点で似ていることは決して偶然ではない)。ドラマのパイロット版として制作されたこの長編映画は、主に海外向け公開されたが、最終的にはアメリカでも公開された。スターバックと仲間たちが、円盤型の宇宙船を打ち落とす姿を、TV画面ではなく大スクリーンで見られるようになったわけだ。当時ギャラクティカのランチボックスを持っていた人にとって、この作品を見るたびに感じるほんわかとした気分は、何ものにも代え難いだろう。DF
第36位:『地球最後の男オメガマン』(1971年)
何度となく映画化されてきたリチャード・マシスンの小説『地球最後の男』が原作の『オメガマン』は、疫病の大流行の後唯一生き残った人類である陸軍医(チャールトン・ヘストンにとって、今作がいわゆる”終末SF三部作”の2作目にあたる)が人気のない荒廃したロサンゼルスを一人さすらうシーンで始まる。ほどなく彼は、殺気だったアルビノのミュータントの群れや、復讐に燃える生存者軍団と遭遇する。かの有名なヘストンとロザリンド・キャッシュの異人種間キスを除けば、ゴミが散乱する街角、商品棚が埋め尽くされたショッピングセンター、黒こげのドジャースタジアムをはじめとする、世紀末後の世界を描いた舞台セットと、グリーンのベルベットのジャケットとブルーのトラックスーツに代表される、ヘストンのポン引き顔負けの衣装が特に印象的だ。この未来は完全に荒んでいるが、少なくとも洒落っ気は健在だ。EH
第35位:『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(1970年)
デヴィッド・クローネンバーグ監督のお気に入りのテーマは、化粧品が原因による疾病で成人女性が絶滅し、残された男性たちが小児性愛的な集団を形成している未来を舞台にした2作目の長編映画ですでに描かれていた。中性的な主人公エイドリアン・トライポッドはハウス・オブ・スキンという謎の施設を後にし、人気のない街を彷徨する。ストーリーが中弛みする場面もあるが、それでも背景のモダニズム建築は必見。見たところ低予算で作られたようだが、クローネンバーグの発想力は手段を遥かに越えていた。地平線の向こうに、輝ける病的エッセンスを感じ取れるだろう。SA
第34位:『電子頭脳人間』(1974年)
マイケル・クライトンの小説『ターミナル・マン』を元にした知られざる名作スリラーで、ジョージ・シーガル演じる主人公は激しいてんかんの発作を抑えるべく、外科手術で脳にコンピューターを埋め込む。問題が起きるわけがないだろう?マイケル・ホッジス監督とリチャード・クライン撮影監督は狭苦しく落ち着かない感覚を織り込み、主人公の冷酷かつ邪悪な衝動を浮かび上がらせた。シーガルの精神を遠隔操作しようとする医師の努力も虚しく、ハッピーエンドでは終わらないだろうという緊迫感が物語の進行と共に高まっていき、やがて避けることの出来ない、悲劇的な結末へと向かう。JN
第33位:『ブラックホール』(1979年)
1950年代のアドベンチャー映画に70年代の最新特殊効果を盛り込んだディズニー初のPG指定の作品は、『海底二万マイル』の世界観を無限の宇宙空間にグレードアップした。全盛期を過ぎたアンソニー・パーキンスやアーネスト・ボーグナインといった俳優陣がしゃべるゴミ箱と戯れるといういたたまれないシーンのせいで、冒頭は時代錯誤感がぬぐえない。だが技術的な面では、タイトルの演出でCGの先駆け――ディズニーが『トロン』(1982年)のために温めていたものを垣間見ることが出来る。渦巻くブラックホールへの旅を決意する、チリチリ頭のイカれた博士を演じるマクシミリアン・シェルの仰々しい演技が見どころであることは言わずもがな。そして子供向けハリウッド作品が文字通り勧善懲悪で終わるのも衝撃的だ。EH
第32位:『猿の惑星・征服』(1972年)
『猿の惑星』シリーズ第3作は、架空の1990年代が舞台。そこでは猿やチンパンジーなどがペットとして飼われ、やがて労働力に回される。小憎らしい猿たちがその後どうなるか知っているだけに、観客は立場が逆転するのを今か今かと待ち構える。どんでん返しのラストシーンでは、後に類人猿が地球を支配することになる事件への前振りが示され、翌年公開された『最後の猿の惑星』では、家畜が蜂起していく様を年代ごとに追いながら補足をしていく。第1作以降シリーズで最も想像力に富んだこの作品は、冷血なユートピアを先に見せ、後から粉々に打ち砕く。その過程で、人間という種族に対する観客の共感は薄れていく。NM
第31位:『タイム・アフター・タイム』(1979年)
タイムトラベル・スリラーに、史上最高のSF作家と史上最悪の怪物を加え、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』をたっぷり混ぜ合わせれば、あっという間に『タイム・アフター・タイム』の出来上がり。マルコム・マクダウェル演じるH・G・ウェルズが、現代のサンフランシスコを舞台に、デヴィッド・ワーナー演じる切り裂きジャックを追いかける。『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』(1976年)で、かの名探偵の物語を巧みにアレンジしたニコラス・メイヤーは、場違いコメディと心温まるロマンスに――スクリーン上で恋人同士を演じたマクドウェルとメアリー・スティーンバージェンは翌年結婚――適度に血生臭いスリルを盛り込んだ。SA
第30位:『ダーク・スター』(1974年)
南カリフォルニア大学在学中の未来のホラー映画の巨匠ジョン・カーペンターと、未来の『エイリアン』の脚本家ダン・オバノンが華々しくコラボしたのがこの低予算オールナイト作品。4人の宇宙飛行士は宇宙空間を旅しながら、人類が生存出来そうな太陽系から「不安定な惑星」を排除する任務に当たっているが、たいていは暇を持て余している。仲間の1人が未知の風船に死ぬほどくすぐられたり、コンピューターが内蔵された爆弾が自らの存在意義について思いを巡らせたり、冷凍保存された死体がL.A.ドジャースの調子を尋ねたり。お粗末と賢いの間を揺らぐ特殊効果のクオリティーと同様に、カーペンターとオバノンのユーモアのセンスも、ルーニー・テューンズと酔っ払った大学生が考えそうなものと紙一重といったところ。「知的生命体に出会えると思う?」と1人が訪ねれば、もう1人がこう返す。「知ったことか」EH
第29位:『デス・レース2000年』(1975年)
プロデューサーのロジャー・コーマンとポール・バーテル監督によるこの低予算SFオタク向けカルト映画の決定版が公開されたとき、社会が即座に分断しなかったのは奇跡だ。この未来の世界(タイトル参照)の国民的娯楽はカーレース。罪のない人々を轢き殺したドライバーにポイントが加算される仕組みだ(車椅子の人は100ポイント)。デヴィッド・キャラダインが演じるのは歴代王者のフランケンシュタイン。『ロッキー』前夜のシルヴェスター・スタローン演じるサイコパスがその後を追う。時折現れる鉤十字や反社会的残忍性が共存したアメリカ像は実にシュールで、熱に浮かされて見るバカげた夢のように国民意識があらぬ方向に歪んでいる。このささやかなエクスプロイテーション映画に、後年のブロックバスターの数々も――『マッドマックス2』『バトルランナー』『ハンガー・ゲーム』など――多少なりと借りがあると感じずにはいられない。BE
第28位:『スリーパー』(1973年)
未来では、誰もがウディ・アレンの引き立て役に回る。古びることのないSFの常套手段とウディ・アレンの生まれ持った悲観主義のおかげで、『スリーパー』はディストピアな未来の描写を面白おかしく、皮肉を交えて描くことに成功した。アレン演じる冷凍保存されたごく普通の一般人が解凍されるシーンに始まって、扇情的な球体が主役の小洒落たパーティーまで、ドタバタぶりが随所に散りばめられている。マルクス兄弟ばりの大騒ぎとキューブリック風のクールさのミスマッチが絶妙だ。社会は警察国家に支配され、従来の快楽には無感覚。だがアレン演じる男は革命思想よりも性欲にかられ、永遠のセックスシンボル、ダイアン・キートンとの間に立ちはだかる障壁を何がなんでも乗り越えようとする。EH
第27位:『2300年未来への旅』(1976年)
2274年、巨大なドーム型都市の中では夢のような生活が待っていた。病気もなければ戦争もなく、誰もが若くて美しい。が、もちろん裏がある。それもかなりヤバいのが。20代最後の年を迎えると、誰もが公開デスマッチに参加しなくてはならないのだ。逃げようとすれば、黒ずくめの警察に殺されてしまう。ドーム都市のミニチュア模型や、クリスマスカラーのカフタン姿でショッピングモールのエスカレーターを上り下りする若者の姿は、いかにも70年代らしい未来予想図だ(ファラ・フォーセットのお出まし!)。だが裏切り者のサンドマン、マイケル・ヨークとセクシーな反逆者ジェニー・アガターが外の世界へ逃走すると、ハラハラドキドキな冒険劇は「大人は誰も信じるな」という筋書から、いかにもありがちな結末へと向かっていく。EH
第26位:『スタートレック』(1979年)
映画版『スタートレック』の中では『スタートレックII カーンの逆襲』が最高傑作だ。それが正しいことは、歴史が物語っている。だがエンタープライズ号の劇場処女航海も、お勧めする価値はある。続編ほど光るところはないものの、奥行きのある、落ち着いた宇宙ドラマは『スター・ウォーズ』ピュンピュン・バンバンとは対照的だった。カーク船長とスポック、その他大勢の冒険物語もやがてアクションや笑いに注力していくことになるが、『スタートレック』は頭脳と畏怖に重きを置いていた。シリーズに新境地をもたらす『新スタートレック』のお膳立てをしたともいえる、カーク船長時代の映画だ。TG
第25位:『デモン・シード』(1977年)
悪に目覚めた機械が暴走する、というサブジャンルへのドナルド・キャメル監督の意欲作。本編を見ている最中も、自我が芽生えたコンピューターが科学者のハイテクな家を乗っ取り、彼の妻を孕ませてサイボーグベイビーを生ませるという(!)奇妙なスリラーが実在するとは、なかなか信じがたい。キャメル監督は一体どうやってスタジオを説得し、ジュリー・クリスティが銅製のルービックスネークもどきに犯される映画に金を出させたのだろう? 知らぬが仏、さほど重要ない点をつつくのもやめておこう。それより実験映画の名手ジョーダン・ベルソンから拝借した表現など、幻想的な狂気に身をゆだねるのが良かろう。SA
第24位:『ソイレント・グリーン』(1973年)
今や伝説となった悪名高い叫び声のクライマックスのシーンはしばし脇に置いといて。リチャード・フライシャー監督の1973年の作品はSFメロドラマというよりフィルム・ノワール――『猿の惑星』よりも『ブレードランナー』寄りだ。舞台は荒れ果てたニューヨーク。人口過密と気候変動で街は不毛の地と化し、人々は動物同然の生活を強いられている(実際、ニューヨークはずっとそう)。チャールトン・ヘストン――当時はまだ、こうした環境メッセージ色の強い作品にも出るような俳優だった――が演じる探偵はある企業幹部の殺人事件を捜査するうちに、人々が日々口にしている加工食品について穏やかならぬ真実を突き止める。全体的な雰囲気はSFワンダーランドというよりもメランコリックで、シニシズムはなかなか拭い落とせない。BE
第23位:『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(1979年)
患者の内に秘めた怒りを物理的な存在に変える能力を持つ、非情な心理学者を描いた1979年のSFスリラーで、デヴィッド・クローネンバーグ監督は実在的な脅威を、目に見える暴力的な恐怖へと昇華させた。ホラーファンなら、患者の怒りの根源に襲いかかる実体のない精神の闇に喜々とするだろう。それ以外の人は、親子関係や抑圧された感情、そして怒りについて、作品が訴えるメッセージに心をかき乱される。クローネンバーグ監督は1980年代初期に『スキャナーズ』でスプラッター度を、『ヴィデオドローム』でシュール度を増していくが、「新しい肉体」への憑依はこの時期にすでに開花していた。JN
第22位:『スローターハウス5』
「時間の中に解き放たれた」兵士たち、宇宙を行き来する家族、第二次世界大戦中のドレスデンの爆撃。カート・ヴォネガットの傑作小説は、これまで実写化は不可能と思われてきた――が、ジョージ・ロイ・ヒル監督は賢明にもこれを無視した。何はともあれ、彼が手がけた劇場版『スローターハウス5』は、原作の断片的な解離した感覚を強調し、ビリー・ピルグリムの世界観へ観客を放り込んだ。第二次世界大戦の元戦争捕虜である彼は、晩年を宇宙人の飼育小屋でストリッパーと過ごす。支離滅裂な宇宙の小噺が、トラウマを抱えた主人公の妄想の寄せ集めなのか、それとも本当に未知なる生物との遭遇なのか、それは永遠に謎のまま。映画の中ではピルグリムの人生が、酸いも甘いも潜り抜けてきた壮大かつブッ飛んだ旅として描かれている、ということだけは確かだ。DF
第21位:『ファンタスティック・プラネット』(1973年)
小説のように濃密で、夢のように掴みどころがない。ルネ・ラルー監督のおとぎ話が描き出すのは、オム族と呼ばれるヒト型の生き物が、ドラーグ族という水色の巨大生物におもちゃのように扱われている惑星。抑圧された人種が圧制者に反旗を翻す、というストーリーは第二次世界大戦の比喩として解釈されてきたが、少々居心地は悪くとも、平和的な共存を願う想いには、より複雑で普遍的な哲学が伺える。切り紙アニメーションと台詞のない長いシーンを駆使することで、想像力をかき立てるミニマリズムから理屈よりも感覚に訴える世界観が生まれた。SA
第20位:『スーパーマン』(1978年)
「ダークな」スーパーヒーローが人気を博している昨今、DCコミックスの原作を忠実に描くというリチャード・ドナーの決断は、後から振り返ればいい意味で安全パイだった。だが21世紀の兄弟たち同様、この作品も決してB級映画ではない――総製作費5500万ドルの記念すべきシリーズ第1作は、オスカー俳優マーロン・ブランドとジーン・ハックマンを起用し、『ゴッドファーザー』のマリオ・プーゾを脚本に迎え、空飛ぶ人間の存在を観客に信じ込ませた。クリストファー・リーヴのいかにも映画スター然としたカリスマに代表されるように、年季の入ったキレのいい活力とスクリーン一杯に広がるスペクタクルが満載だ。尤も、マーゴット・キッダー演じるウーマン・リブ時代のルイス・レーンのおかげでテンポよくストーリーが展開しているからではあるが。ハックマンは憎たらしいほど粋な悪役レックス・ルーサー役で主役を食う名演技を見せたが、そんな彼ですら、グランド・セントラル駅を超悪党のプール付き秘密基地に変えた精巧なセットの前では霞んで見える。EH
第19位:『ディーモン/悪魔の受精卵』(1976年)
神が宇宙人かもしれない、と考えたのはB級映画の巨匠ラリー・コーエンが最初ではないが、地球外生命体が人の体を乗っ取って大量殺戮を始める、という筋書きを思いついたのは彼が最初だ。一般市民が道路を横断中にスナイパーの餌食となる様を描いた『ディーモン/悪魔の受精卵』は、70年代中期のマンハッタンの殺伐感をまさに象徴している。トニー・ロビアンコ演じる鼻っ柱の強い探偵は、とある事件で人間性の本質を探るうちに、自らの信念が試され、衝撃の事実を知ることになる。高尚な哲学と、血生臭い犯罪スリラーを融合したこの作品は、時に2本の映画を同時に見ているような気分にさせられる――後味の悪い、時に困惑をさせられる、そして確実に忘れられない体験だ。SA
第18位:『THX-1138』(1971年)
後年ジョージ・ルーカスが銀河の遥か彼方で展開するどの作品にも匹敵するほど、視覚的にも音響的にも秀逸。彼が描いた悪夢のような未来の極右的社会は、セックス、ドラッグ、脳死テレビ、汚職だらけの政府、反乱の必要性と不毛さを全て一緒くたにした、70年代アメリカン・ニューシネマ・ルネサンスの申し子だ。ロバート・デュヴァルは『1984』のウィンストン・スミスのごとく、物静かに存在感を放つ。これは単なる映画ではない。ジョージ・ルーカスの作品が30年代のTVシリーズから、60年代の知的なSFへ方向転換する、別世界への出発地点だ。STC
第17位:『地球爆破作戦』(1970年)
『ターミネーター』が生まれる14年前(そしてHALがポッドのドアを開けることを拒んでからわずか2年後)、スーパーコンピューターが世界を支配して人類壊滅を図る、という知られざる傑作が存在した。堅物エンジニアのチャールズ・A・フォービン博士はアメリカ国防総省を説得して、自ら開発した「コロッサス」にアメリカの核兵器庫を管理させる。すると恐ろしいことに、「コロッサス」は創造主を差し置いて、ソ連の電子頭脳と勝手に交信し始める。科学の思い上がりがストーリーの核。人類最高の天才集団の代表格として、博士は実に優れたマシンを作るのだが、そのマシンは賢いがゆえに、人類は博士のような傲慢野郎ばかりだと気づいてしまう――平和の名の下に、全員粛清するべきだと。NM
第16位:『ストーカー』(1979年)
うらぶれた雇われガイドが2人の知識人を立ち入り禁止の、放射能に汚染されたと思しきロシア領地、通称「ゾーン」へ案内する。2人の男は1日かけて、草木が生い茂る廃墟の中を彷徨い歩き、ある部屋へ辿り着く。その部屋には、人間の胸の奥底にある願いを叶えてくれる力があると信じられていた。アンドレイ・タルコフスキーのカメラワークが流れる小川や頭上を飛び立つ鳥、人気のない家に木霊する電話の音を、誰もがひれ伏す神の所業に変えるように、訪問者の畏怖で室内を魔法で満たす。EH
第15位:『少年と犬』(1975年)
通貨の代わりに缶詰めが流通し、暴力が共通言語としてまかり通る、焦土と化したこの世の地獄では、最初に沸き起こるのは性欲ではないだろう。だが、まさにそれがこの映画――ハーラン・エリスンの小説を元にした一風変わった低予算風刺映作品のポイントだ。ヴィック(『マイアミ・バイス』で有名になる前のドン・ジョンソン)は常に性欲旺盛な10代の放浪者で、愛犬のブラッドとテレパシーで意思疎通が出来る。とある地下組織が子孫繁栄のために精子提供者を探していると聞き、ヴィックは喜んで協力を申し出る。エリソンの原作は、この作品以降も数々の映画で効果的に使われてもよかったはずだが、胸糞の悪くなるような風刺をこの1本に凝縮したことで、名作カルト映画としての地位を確立する以上のことを成し遂げた。JN
第14位:『マッドマックス』(1979年)
オーストラリアン西部劇にして70年代自警団スリラー、さらにアクション満載の世紀末ロードムービーでもある。映画史に金字塔を打ち立てたオーストラリア発エクスプロイテーション映画の舞台は、戦争で荒廃した未来の地球。荒くれ者の暴走族からわずかに残された文明社会を守るのは、”マッドマックス”ことロカタンスキーのような警官だけ。ディストピアを情け無用のスタントカーレースで描いたジョージ・ミラーの作品で、メル・ギブソンは世界的スターの仲間入りを果たしたが、オーストラリア訛りの英語をアメリカ英語に吹き替えたひどいバージョンが公開されたアメリカでは、当初見向きもされなかった。だが数年後、秀逸な続編『マッドマックス2』が公開される頃には、第1作も正真正銘の名作カルト映画として認められていた。CC
第13位:『アンドロメダ…』(1971年)
この20年、幾度となく映画館に蔓延したバイオハザード・スリラーの先駆け的作品。恐ろしい宇宙病原体をテーマにしたマイケル・クライトンの小説をロバート・ワイズ監督が映画化したこの作品には、SFらしい低俗さと幻想の代わりに、マニュアル的なシリアスさが漂っている。墜落した人工衛星が持ち帰った謎の胞子――コードネーム:アンドロメダ――により人類が滅亡の危機に立たされていると知った科学者らは、何としてでもこの致死的な病原体を封じ込めようとする。真っ白な無菌空間への憧れと、「サイエンス・フィクション」の「サイエンス」の部分へのこだわりが非常にいい仕事をしている。細菌恐怖症の方々は、覚悟して見るべし。DF
第12位:『ローラーボール』(1975年)
ノーマン・ジュイソンが描いた近未来エクストリームスポーツには、政治陰謀スリラーにマクルーハンかぶれのメディア風刺、超暴力的な描写と当時流行りのスポーツブームがひとまとめにされ、さらにロバート・アルトマン顔負けのズームショットがふんだんに取り入れられた。その上ジェームズ・カーンが、ローラーボール史上最高のプレイヤーを演じている――ローラーダービーとモトクロスとフットボールとボクシングを組み合わせた、超大人気の格闘スポーツだ。この歪みきった未来では企業支配が国民国家に取って代わり、会社の重役たちはカーン演じるチャンピオンのようなボーラーが自分たちの人気度を悟らないよう、ゲームに裏工作する。世紀末的なデスマッチで激しさを増していくスケートリンク上のアクションは、今見ても扇動的な残虐さだ。EH
第11位:『ウエストワールド』(1973年)
従来のバカンスに飽きた未来の裕福な観光客のために作られた、3つの大人向けテーマパーク。そこでは等身大のロボットが、どんなニーズにも答えてくれる。だが不具合を起こしたアンドロイドたちは来場客を殺戮し始め、最後にはユル・ブリンナー演じる無愛想な喧嘩早いガンマンと対峙する。マイケル・クライトンの1973年の映画は、コンピューターウイルスの登場を予見し、後年の映画で定番となるCGIを最初に活用した作品だ。今見ると時代遅れなところもあるものの、『ロボコップ』から『ブレードランナー』まで、あらゆる映画に登場する悪徳企業の存在に目を付けた映画第1号として語り継がれている。殺人カウボーイロボットという存在も、未来永劫SFオタクの憧れであり続けるだろう。JN
第10位:『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年)
これまで作られた傑作リメイク作品の中でもダントツの人気を誇る本作。ドン・シーゲル監督がマッカーシー時代を舞台に描いた名作を、フィリップ・カウフマン監督は1978年のサンフランシスコに置き換えた。ドナルド・サザーランド演じるトレンチコート姿の公衆衛生調査官は、一般市民が虚ろな眼をした自らのレプリカへと変容していることを知る。60年代の残骸へのとどめの一撃と言わんばかりに、謎の現象は隣人、社会、環境への不信感へ人々を駆り立てる。カウフマンはフィルム・ノワール風のミステリーから超常現象スリラー、そして絶叫SFホラーへと、いくつものジャンルや雰囲気を操る才能に長けていることを証明した。本当の敵は自分たちの中にいる、という最後の幕切れから立ち直ることなど到底不可能だ。EH
第9位:『未知との遭遇』(1977年)

Moviestore/Shutterstock
『ジョーズ』で一山当てたスティーヴン・スピルバーグの次なる傑作を最後に見たのはいつだっただろうか? リチャード・ドレイファスとテリー・ガーが夫婦喧嘩をしてドアをピシャリと閉めるシーンを覚えているか? スピルバーグがクライマックスをずいぶん先まで引っ張り、ドレイファスがいとも容易く宇宙船への乗船を承諾したことを覚えているだろうか? 『未知との遭遇』が傑作たる所以は、1977年のもうひとつのSFブロックバスター『スター・ウォーズ』とは違い、時間をかけてゆっくりと、70年代のパラノイアやリーダーズ・ダイジェスト誌的な神秘へ我々を誘っていき、最後にマンハッタンほども大きな宇宙船であっと驚かせた点だ。オーソン・ウェルズが火星人の侵略を警告してから40年後、スピルバーグは我々を友好的なエイリアンに出会わせてくれた。もちろんそれには何の悪意もなく幼児を攫うシーン、キーボードを激しく連打して交信しようとするシーンも含まれている。そして極めつけは、フランソワ・トリュフォーを手懐ける稀な力を備えた、優しい目をした光り輝く生命体だ。EH
第8位:『フェイズIV/戦慄!昆虫パニック』(1974年)
伝説的なグラフィックデザイナー、ソール・バスの唯一の長編映画。高度な知能を備えたアリの巣が世界征服を目論む、というストーリーだが、クリーチャーものというよりは、イカしたアリ学者たちとマジックマッシュルームをキメる映画、という方がふさわしい。アリたちは科学者たちを人里離れた砂漠の研究所で捕らえるが、人類殲滅を図っているわけではなく、(文字通り)巣にしようとしていることが明らかになる――最近になって公開されたエンディングでもはっきり描かれている。目くるめく映像のモンタージュは、『2001年宇宙の旅』の「無限の宇宙の彼方へ」とかなりいい勝負だ。SA
第7位:『サイレント・ランニング』(1972年)

Universal/Douglas/Gruskoff Prods
この映画にはあらゆる要素が詰まっている――”あらゆる”とは、ブルース・ダーンがロングヘアの環境活動家の殺人犯で、ドロイドとポーカーに興じたり、ウサギと話したり、サラダに異様な愛情を傾けることも含む。視覚効果の魔術師、ダグラス・トランブルの監督デビュー作『サイレント・ランニング』は、「本当は怖い童話」のエコロジー版。巨大な宇宙貨物船の中で手塩にかけて育てた温室が破壊されることになり、環境活動家は牙を剥く。道徳的には正しくとも、躍起になって苦悩をまくし立てるダーンの姿は、その後の恐ろしい展開を予感させる。独り残された彼のお供は、正義感と罪の意識、そして前述のドロイドだけ。突拍子もないほどイカれた作品だが、『スター・ウォーズ』によちよち歩きのキュートなロボットのヒントを、『ミステリー・サイエンス・シアター』には「もしも宇宙で退屈したら」という発想を与えた。EH
第6位:『未来惑星ザルドス』(1974年)

20th Century Fox/Kobal/Shutterstock
時は2293年。不能なヘソ出しヒッピーと、無学で薄汚い蛮族に二分されている世界。後者を抑制しておくため、巨大な頭の石像のような神が上空に浮かび、赤いおむつを履いた人間に好きなように人を殺すように言う。この「エクスターミネーター」の一人が胸毛のたくましい、ほぼ全裸のショーン・コネリー。単身平和ボケしたエデンの園へ忍び込み、シャーロット・ランプリング演じる氷の女王を自分の息子でたぶらかし、階級制度を転覆させる。半分LSDトリップ、半分ヒネリまくりの社会風刺(南カリフォルニアの神秘主義者と、武装過激派を対峙させたジョン・ブアマン監督はお見事)の、歴史に残るおバカ大作は、ジェームス・ボンドが105分間三つ編みポニーテールを振り回すだけの映画ではない――つまり相当なものだ。EH
第5位:『スター・ウォーズ』(1977年)

Lucasfilm
40年近く考えても、ジョージ・ルーカスの三文ポップ・スペースオペラがもたらした社会的・経済的影響力は計り知れない。『フラッシュ・ゴードン』シリーズ、ギリシャ神話やアーサー王伝説、レニ・リーフェンシュタール的な勝利主義の焼き増しだが、そこはやはりジョージ・ルーカス、世界観と市場開拓には先見の明を持っていた。1977年当時のキャラクターを元に、また新たな三部作が作られようとしていることからも、この作品の不変的な魅力を物語っている――いやはや、こんな映画は他に見たことがない。他の70年代のSF映画が70年代らしさを拭えない中、ルーカスはあらゆる手を尽くし――アナログな視覚効果をデジタルにアップグレードしたり、キャラクターの過去を掘り起こしたり――過去の遺物になるのを防いできた。特定の時代に留まらず、むしろスクリーンの外で、永遠に生き続ける映画を作ること。それが彼の目的だった。そして今も、我々はその物語を生きている。EH
第4位:『惑星ソラリス』(1972年)

Moviestore/Shutterstock
ポーランドの作家スタニスワフ・レムの小説を元にした『惑星ソラリス』は、SFというジャンルを超えるのではなく、遥かな高みへと昇華させた。ソ連宇宙計画時代を象徴する作品だが、ヒロイズムや集産主義や技術革新の話ではない。記憶と喪失と罪悪感をテーマにした困惑の脳内トリップだ。宇宙ステーションに残された2人の乗組員が謎めいた力によって精神を蝕まれ、それを調査するために1人の心理学者(陰のあるドナタス・バニオニス)が送り込まれる。だが彼もすぐに、亡霊ではなく、肉体を伴って現れる死んだ元妻に取り憑かれてしまう。渦巻くソラリスの海は、さながら蛍光色版ロスコ。映画監督アンドレイ・タルコフスキーは無重力状態を、不吉な超常的苦悩として描いた――だが『ソラリス』の真のテーマは、筆舌に尽くしがたい内なる宇宙の存在だ。EH
第3位:『時計仕掛けのオレンジ』(1971年)

Warner Bros/Hawk Films/Kobal/Shutterstock
公開当時は散々こき下ろされたが――スタンリー・キューブリック監督は、しばらくの間イギリスでの公開を差し止めたほどだ――今日の映画の水準に照らしてみれば、倫理が崩壊したディストピアという点で『時計仕掛けのオレンジ』は比較的大人しい方かもしれない。だが、この過激な風刺映画の後継作品も、ここまで抱腹絶倒ではあるまい。アンソニー・バージェスの1962年の小説を映画化したこの作品は、暴君ドルーグ・アレックスを演じるマルコム・マクダウェルのスカっとするほど生意気な演技に導かれ、痛々しいほどの面白さ(と巧妙さ)を損なうことなく、従順と政府の抑圧が結託して我々の精神を壊す過程を描く。メッセージが真摯だからこそ茶番劇として完成した『時計仕掛けのオレンジ』は、実にチャーミングなガキ大将が語るダークな教訓物語だ。TG
第2位:『地球に落ちて来た男』(1976年)
ニコラス・ローグ監督によるウォルター・テヴィスの小説の映画化には、70年代にSFが甘んじていた常套手段の片鱗はなく、息もつかせぬほど刹那的で、独特だ。デヴィッド・ボウイが演じるトーマス・ジェローム・ニュートンは、地球に送り込まれた赤毛の宇宙人。枯渇した故郷の惑星のために、水を確保するのが目的だ。最先端技術の特許で巨万の富を得た後、中性的な背高のっぽは見目麗しいエレベーターガール(キャンディ・クラーク)や絶えず騒がしいアメリカのテレビ番組などに魅了され、任務の遂行が出来なくなっていく。ローグにとって、孤独やアンニュイは単なる添え物ではない。それは痛ましいほどの精神状態と存在の成れの果て。そう、よそ者は君だ。EH
第1位:『エイリアン』(1979年)
散々焦らした末にやっとサメを登場させた『ジョーズ』を別にすれば、70年代の超大作の中でも、ひとつのシーンに至るまでの不安と期待をこれほど美しく描いたのは、リドリー・スコット監督の地球外ホラー以外にはあるまい(エイリアンがケインの腹から荒々しく飛び出すシーンは、何回見ても慣れない)。あのシーンに行くまでの『エイリアン』は、大気圏外での退屈な人間ドラマ――星々の間で起こる潜水艦スリラーに過ぎない。それが突然、宇宙空間を舞台にしたホーンテッドマンションに早変わり。密室という設定が耐えられない緊張感を生み出すのだ。それまで映画の世界では、宇宙といえば謎や好奇心、冒険の源だった――だが『エイリアン』以降、宇宙は悪夢に新たな舞台を提供した。そこではどんなに悲鳴を上げても、誰にも届かない。TG
編集部おすすめ