ロックに革命を起こしたロックの殿堂入りギタリストであるエディ・ヴァン・ヘイレンが、がんの長い闘病の末に、現地時間10月6日に亡くなった。享年65歳だった。


エディ・ヴァン・ヘイレンの多大なる影響力がなければ、1970年代後半以降のハードロックは、想像を絶するほど違った進化を遂げていたことだろう。彼が両手タッピング奏法を発明したわけではないが、練習を重ね、完璧なタッピングの技を世に知らしめた。追悼の意を込めて、エディ・ヴァン・ヘイレンが伝説であるが故の歩みを振り返ってみたい。

1985年、オリジナルのフロントマン、デイヴ・リー・ロスがモントローズのサミー・ヘイガーに交代したが、ヴァン・ヘイレンはデビュー以来ずっとロックワールドのルールを更新し続けた。1978年のセルフタイトルのファースト・アルバム(日本盤タイトルは『炎の導火線』)は、ロック史上で最も完璧なデビュー・アルバムと言えるだろうし、彼らはヘイガーがバンドを離れる1990年代半ばまでロック界を牽引し続けたのである。2000年代に入り、バンドはアルコールとの闘い、公での奇妙な言動、ヘイガーとロスが参加したノスタルジックな再結成ツアーなどが取り沙汰されたが、新しい音楽がリリースされることはほぼなかった。

しかし、誰がバンドのフロントマンになっても、最後のヒット曲が遠い昔のものであっても、ヴァン・ヘイレンのファンは彼らが演奏するコンサート会場に必ず足を運び、ご神体とも呼べるエディ・ヴァン・ヘイレンを崇拝した。「たぶん一番嫌なのは、連中は俺の演奏がダメなときでも気が付かないってことだね。そして、ステージを降りた俺に褒め言葉をあびせるんだが、これがかなりイラつくんだよ」と、彼はローリングストーン誌に語ったことがあった。

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エドワード・ローデウィッジ・ヴァン・ヘイレンは、1955年1月26日にオランダのナイメーヘンで生まれた。兄アレックスが1歳半のときだ。父ヤンはクラリネット、サックス、ピアノの才能に恵まれていたが、「父が演奏していた音楽では収入を得ることが難しかった」と、エディは1995年のローリングストーン誌のインタビューで語っている。
「だから、父はオランダ空軍のバンドに入り、マーチを演奏していた。毎朝6時になると仕事場に行ってクソ寒い中でマーチを演奏した。俺たちはマーチのレコードを全部聞いたよ。アルと俺は居間でパレードの真似をして、鍋を持ってテーブルの周りを回っていたものさ。夜になると、父が階下で演奏するクラシック音楽を聞いていた。父はクラシックとジャズが大好きだったんだ」と。

ヴァン・ヘイレン一家が米国に移住したのはエディが8歳のときで、家族はカリフォルニア州パサデナに落ち着いた。デイヴ・クラーク・ファイヴに夢中になったことがきっかけで、エディはドラムを始め、兄アレックスはギターを手にした。そして運命の日が訪れる。ザ・サーファリーズの「ワイプ・アウト」のドラムが上手く叩けなくて機嫌が悪くなったエディは、アレックスと楽器を交換することにし、これがそのまま定着したのだ。

1970年代初頭、二人は矢継ぎ早に幾つものバンドを組んだ。ブロークン・コンボズ、トロージャン・ラバー・カンパニー、ジェネシス等など。
しかし、どのバンドでも満足できないヴァン・ヘイレン兄弟は、遂にカリスマに溢れたデヴィッド・リー・ロスという裕福な医者の息子と出会う。「PAを持っていたのがロスだけだった。俺たちは毎週末ギャラが50ドルのギグをするのに彼のPAを35ドルで借りていたんだ。だから、ヤツをバンドに入れると安くなるってことだった」とエディ。

ロスがリーダーとなり、ベースにマイケル・アンソニーが入ったバンド、ヴァン・ヘイレンは、パサデナのロック・サーキットで最も人気のあるバンドになった。彼らは裏庭でのパーティーやストリップクラブなど、演奏させてくれる場所ならどこでも演奏した。当時の彼らのレパートリーの多くはカバー曲だったが、「悪魔のハイウェイ」「サムボディ・ゲット・ミー・ア・ドクター」など、ゆっくりとオリジナル曲を増やしていったのである。キッスのフロントマン、ジーン・シモンズは彼らとデモ曲を録音して、どこかとレコード契約を結ばせようとしたが、レコード契約には一切見向きもせず、最終的にヴァン・ヘイレンがレコード契約に合意したのは、彼らのライブを観に来たワーナー・ブラザースのモー・オースティンが1977年に提示した契約だった。

何年も続いた過酷な巡業活動でバンドとしてのタイトさが増し、プロデューサーのテッド・テンプルマンはバンドのタイトさをプロの技でしっかりテープに収めた。特に「暗闇の爆撃」のギター・ソロは、エディの卓越した技術が突出しているし、キンクスのカバー曲「ユー・リアリー・ガット・ミー」では、誰もが知っているロックのスタンダード曲をエキサイティングで新鮮な曲に変えるバンドの力量を見せつけた。

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しかし、彼らのデビュー・アルバム(1978年)をビルボード200の19位まで上昇させ、ブラック・サバスのツアーのオープニング・アクトに選ばれたきっかけは「叶わぬ賭け」「ジェイミーの涙」などのオリジナル曲だった。「3年前の俺は……他の連中と一緒にエアロスミスを観るためにステージの前を陣取っていた」と、エディは1980年にローリングストーン誌に語っていた。
「なのに、それから1年後にはエアロスミスとプレイしていた。死ぬほど驚いたよ。だって、俺はずっとギターを弾くとは思っていたけど、今のような立場になるなんて想像すらしていなかったもの」と。

デビュー・アルバムの次にリリースされたのが翌年(1979年)の『伝説の爆撃機』で、シングルカットされた「踊り明かそう」「ビューティフル・ガールズ」がヒットした。この後5年間の彼らは記憶が曖昧なほどに多忙を極め、アリーナをソールドアウトにし、乱痴気騒ぎを繰り広げ、大ヒットアルバムを続けざまにリリースした。ヴァン・ヘイレンにはラジオ局で流れるようなヒット曲は多くなく、大抵のシングル曲が「ダンシング・イン・ザ・ストリート」「オー・プリティ・ウーマン」などのカバー曲であっても、だ。この理由は、のちにエディがバンド内の確執の結果だったと説明している。

1995年にローリングストーン誌に登場したとき、エディは「デイヴと俺らのプロデューサー、テッド・テンプルマンが(俺の新スタジオ5150に)ビビッたんだよ。このスタジオで最初にやったのが『ジャンプ』で、あの二人はこれが気に入らなかった。俺は『嫌ならやめれば?』と返したよ。当時の俺は二人が言うところの商業的なアイデアってのに嫌気がさしていた。これが(1982年の)『ダイヴァー・ダウン』でカバー曲をやった理由。
俺はカバーバンドなんかになるつもりはなかったよ」と説明していた。

バンドはカオスの中へと陥って行ったが、エディは私生活で平和を見つけていた。コメディドラマ『One Day at a Time』に出演していた女優ヴァレリー・バーティネリと1981年に結婚したのである。ロスはこの結婚に不満だったとエディが教えてくれた。独身のパーティー好きというワイルドなバンドイメージとそぐわないから、と。「彼が『お前の女房にはデトロイトに来るなと言ってくれよ。LIFE誌のインタビューがあるからさ』と言ったのを覚えている。連中が彼女を追い詰めて、何かマズいことになるかもしれないと心配になって、結局彼女はライブに来なかった。俺はこらえたよ。でも彼女は傷ついた。彼女がどんなふうに感じるか、分かるだろ? 俺らの世界に入ってきたばかりの彼女は、あんなふうに除け者扱いされて傷ついたんだよ」と1986年のローリングストーン誌でエディは話している。

『ダイヴァー・ダウン』の次のアルバムをレコーディングする段になって、エディは「ジャンプ」のレコーディングとシンセサイザーの使用を主張して譲らなかった。
その結果、アルバム『1984』はスマッシュヒットとなり、「ジャンプ」「パナマ」「ホット・フォー・ティーチャー」のミュージックビデオがヘビーローテンションされたため、彼らはMTVのスーパースターとなった。アルバムは100万枚単位でセールスを伸ばし、ビルボード200で2位まで駆け上がったのである。このアルバムのツアーで彼らは世界中をまわったが、この頃にはオフステージのエディとロスは口を聞くことすらなくなっていた。このツアーが終わり、ロスはバンドを脱退してソロ・アルバムを作り始めた。1995年のローリングストーン誌で、エディは「俺は泣いた。ひとしきり泣いてから、兄に電話して『あのクソ野郎がやめた』と伝えたよ。最後には逃げるヤツのために、俺は何年もわがままを我慢してきたってことさ」と言っている。

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エディもソロ・アルバムの製作を一瞬考えた。フィル・コリンズ、ジョー・コッカー、ピート・タウンゼントなど、錚々たるゲストを迎えてやろうかな、と。しかし、すぐに新たなヴォーカリストを迎えてバンドを継続すべきという考えに至った。フェラーリのディーラー、クラウディオ・ザンポリが元モントローズのフロントマン、サミー・ヘイガーとのミーティングを手配した。サミーはソロになって「非情のハイウェイ55号」という大ヒット曲を出したばかりだった。
彼らはとりあえずジャムしてみた。「ものすごい化学反応がおきて、かなりエキサイティングだった。夜中までプレイし続けた。12時間一度も休まないで。家に寝に帰って、翌朝起きたて、『うわっ、俺はあのバンドに入るんだ』って思ったよ」と、ヘイガーは2016年にローリングストーン誌に語った。

ワーナー・ブラザースはこの変化に確信が持てず、以前のバンドとの差別化を図るためにバンド名を「ヴァン・ヘイガー」に変えることを提案した。「変えていたら面白かったかも。今思うと、あのバンドの2つの時代を区別する方法がそれだったかもしれない。でも、俺が入ったことで出来るあれこれを考えたとき、俺たちは何も恐れていなかったんだよ」とヘイガー。

ロス抜きのヴァン・ヘイレンは続かないと考えていた人たちは、1986年3月にそれが間違いだったと知ることになる。新作『5150』がリリースされて、ヴァン・ヘイレン初のナンバーワン・アルバムになったのだ。そして、アルバムがチャートトップへ駆け上がる現象は1988年のアルバム『OU812』、1991年の『FOR UNLAWFUL CARNAL KNOWLEDGE / F@U#C%K』、1995年の『バランス』まで続いた。バンドのコアなファンの多くはロスがいた時代のヴァン・ヘイレンの方を好んでいるのだが、ヘイガー加入によってバンドの人気は上がり、「ドリームス」「ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラヴ」「パウンドケーキ」などの大ヒット曲がバンドにもたらされたのも事実だ。

しかし、『ツイスター』のサウンドトラックへの参加がきっかけで、バンドは崩壊し、メンバー同士の争いが始まった。彼らは長いツアーを終えたばかりで、サミーは妻と新生児との時間を持つために休暇を望んだ。しかし、バンドは休む間もなくスタジオを入ることに決めた。ギター・ワールド誌にエディはこう語っていた。「俺はヤツに『サム、次のレコードを作りたいとか、次のツアーをしたいと思うなら、チームプレイヤーに徹しなきゃダメだぜ。ヴァン・ヘイレンはバンドなんだ。サミー・ヘイガーが主役のライブじゃない。エディ・ヴァン・ヘイレンが主役でも、アレックス・ヴァン・ヘイレンが主役でも、マイケル・アンソニーが主役でもない。するとヤツがやっと『ああ、チクショー、マジでイラつく。俺、ソロに戻りたいよ』と言った。俺は『正直に教えてくれてありがとう』って応えたよ」。

コンピレーション・アルバム用に2曲レコーディングするためにロスが戻ったのだが、MTVビデオ・ミュージック・アワードの楽屋での口論がきっかけで、その計画も立ち消えた。そして、ヴァン・ヘイレンと同じマネージメント会社に所属するエクストリームのフロントマン、ゲイリー・シェローンが3番目のヴォーカリストとしてバンドに加入することとなった。1998年のローリングストーン誌で、エディは「車を降りた瞬間にこいつだと思った。わがままもエゴも一切なかったから」と述べた。

しかし、1998年の『ヴァン・ヘイレンIII』はファンに受け入れられなかった。このアルバムでのツアーも場所によっては客の入りが悪かったため、ツアー終了後にシェローンには解雇通知が手渡され、ヴァン・ヘイレンは長い活動停止に入る。2004年にヘイガーと再結成ツアーを行って再び表舞台に戻ったとき、エディはアルコール中毒の末期症状に陥っており、挙動不審さも極まっていた。「彼は舌を液化して体内に注入して(舌ガンを)完治したと言っていた。また、人工股関節置換術をしたとき、手術中ずっと起きていて、医者がドリルで穴を開けるのを手伝ったとも言った」と、ヘイガーが自身の回顧録で明かしている。

この再結成ツアーはグダグダのパフォーマンスと酷評で目も当てられないものになった。そして、このツアーが終わって1年ちょっと経った頃、バーティネリは離婚を申し立てた。2007年にバンドがロックンロールの殿堂入をしたとき、エディはリハビリ中ということでセレモニーを欠席。同年の後半、バンドは遂にロスとの再結成を果たしたのだが、マイケル・アンソニーを脱退させて、まだ10代のエディの息子ウルフギャングをベーシストとして加入させたのである。

2012年、ヴァン・ヘイレンは遂に新作『ディファレント・カインド・オブ・トゥルース』をリリースしたが、収録曲の多くが1970年代のデモ曲が元になっていた。2012年にこのアルバムのプロモーションでツアーを行い、その3年後にもアメリカ国内の円形劇場を回るツアーを行った。しかし、エディはロスと一緒に新曲を作るのはほぼ無理だと言った。「無理だね。だってバンドの4人のうち、俺たち3人はロックンロールが大好きだし、残りの1人はダンス・ミュージック好きなのさ。以前はそれで上手く行ったけど、今ではデイヴは話し合いにすら応じない」と、エディは2015年にビルボードのインタビューで答えている。

また、オフステージでのロスとの付き合いも現実的に無理だと言っていた。「彼は俺の友だちでいたくないんだよ。どう言ったらいいのかな? ロスの自己イメージというのは実際の彼とは異なるものなんだ。俺たちはもう20代じゃない。もう60代だぜ。60らしくしなきゃ。俺は髪の毛を染めるのをやめた。だって若返ることは絶対にないって分かっているからね」と。

ヴァン・ヘイレンが公の場で最後に演奏したのは、2015年の10月4日のハリウッド・ボウルだった。このとき、ロスはステージでエディを抱きしめ、二人は温かい笑顔を交わした。そしてエディは「俺の人生で最良の年だ。人生の頂点だよ。こんなふうにお前とステージでプレイするのがさ、だろ」と言ったのだった。

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