【画像を見る】かつての父と娘
米ニューヨークのクイーンズにあるダイナーの駐車場に入ると、黒塗りのキャデラックの運転手はエンジンを止めた。50年代に建てられたダイナーの建物は、雨の日にしか現れない幻のように現実感に乏しい。石張りの外観は、まるで過去から飛び出してきたかのようだ。私は車から降り、1983年に父が捕まった場所を見上げた。連邦刑務所から逃げ出した父は、このダイナーで逮捕されたのだ。2年間の逃亡生活の果てに、父は長年来の愛人とここで朝食をとったあとに連邦保安官たちに取り押さえられた。その当時、父は南米コロンビアから新たな積み荷を手配し終えたばかりだった。あくまで私の想像だが、あの日もきっと雨が降っていたにちがいない。父の逮捕から40年がたったいま、私は10年近くにわたって70年代の大麻売買の最重要人物である父を追い続けてきたDEA(米麻薬取締局)の元捜査官とここで落ち合う。彼が追い続けた人物の名はダン・マクギネス——かつて私が「パパ」と呼んだ男だ。
配車アプリで手配した車が滞在先のホテルの前で停車したときは、ただ笑うしかなかった。黒いキャデラック——最後に会ったあの日も、父は黒いキャデラックを運転していた。
いろんな意味で、私はホイトの言うとおりだと思う。だが、父の仕事仲間や父が愛した女たち、父を捕まえた捜査官たちにインタビューをするようになってからというもの、私はある事実に直面した。ダン・マクギネスという人物は、断片的にしか知られていないのだ。彼のすべてを知っている人物なんて存在しない。もちろん、実の娘である私でさえ、父のすべてを知っているわけではない。
面会室で手渡された回想録
81年に逮捕された父は、中南米から米国東海岸にまたがる世界屈指の密輸ルートをすでに確立していた。この記事を執筆するにあたってリサーチをしていた私は、「グルーパー作戦」に関するローリングストーン誌の古い記事に出くわした。グルーパー作戦とは、大麻産業を叩き潰すためにDEAが主導した作戦で、記事の主役はもちろん父だ。1982年の記事には、父に関する次のような文章があった。
ダン・マクギネスは、華奢でありながらも男っぷりのいい、アイルランド系とイタリア系の米国人だった。タイトにスタイリングされた黒いカールヘアと物腰は、東海岸のコネチカット州の裕福な地域の出身だという印象を与えた。実のところ、マクギネスは労働者階級が暮らす同州のブリッジポートで幼少期を過ごした。マクギネスの父は、同州のフェアフィールド郡の富裕層が多い街のカントリークラブのバーテンダーをしていた。フェアフィールド郡といえば、米国の上流階級が昔から”故郷”と呼んできた場所だ。私が生まれた1977年には、マクギネスはキーマンの名にふさわしい財産を築いていた。カリブ海に浮かぶ島国ジャマイカやフロリダ州、コネチカット州に家を持っていたのだ。ロングアイランド東端のハンプトンズには、ローリングストーン誌の創刊者であるヤン・ウェナーと共同名義の物件まで持っていた。
マクギネスには、美人の妻と幼い娘がいた。マクギネスの妻である私の母は、運に見放されたときのことを考えながら、恐怖の日々を送っていた。父は、そんな心配は無用だと言って母を安心させようとした。
父は正しかった。
だが、80年にロナルド・レーガンが大統領選挙に初勝利すると、すべてが変わった。ローリングストーン誌の82年の記事によると、当時グルーパー作戦は「連邦政府の法執行機関による、もっとも巧妙かつ効果的な潜入捜査」とみなされていた。作戦が終わる頃には、155人以上の密輸業者が逮捕された。父もそのひとりだ。それなのに、多くの人は20年余りにわたって父が麻薬密売システムの構築に貢献し、落日を迎えたことを知らない。「マクギネスは、70年代の大麻密輸業者のなかでも抜きん出た存在でした(中略)でも、不思議なことに、多くの人は彼の存在を知りません」とホイトは話す。
私は、マクギネスという男の伝説に囲まれて育った。
その当時、私は30歳だった。不公平なシステムを呪いながら、私は子供の頃からずっと父の出所を待ちわびてきた。それなのに、ようやく出所した父は例のビジネスに復帰し、最終的に監獄送りになった。ペンシルベニア州の刑務所を訪れた雪の日の午後、父は「堅気の生活を送るくらいなら、死んだほうがマシだ」と私に言った。大の大人になった娘が「どうしてこんなことになってしまったの」と、面会室の真ん中で声を上げて泣くのを見た父は、堅気の生活を拒む理由を話す代わりに、その答えとして自身の回想録を私に託した。
回想録を受け取ると、私は誰にも見られないようにズボンの後ろのポケットにしまった。こんなことをしなくても、郵便で送ってくれればいいのにと思いながら。きっと父は、刑務官たちに読まれたくなかったのだろう。
ルールは「積み荷の量をできるだけ大きくすること」
あの日、父は面会室の出口まで私を送ってくれた。私は面会室の敷居をまたぎ、自由な世界に足を踏み入れた。すると父は、私に向かって「じゃあな」と別れの挨拶をした。その瞬間、私は揺るぎない事実に気づいた。世間の父親が自分の子供を愛するように、父は密輸という仕事を愛していたのだ。追われること、権力、飼い慣らされた家庭生活の拒否——父にとって密輸は、情熱以上の意味を持っていた。それは、反逆への誓いだった。どれだけ刑期が長くても、実娘が懇願しても、その気持ちに抗うことはできないのだ。
幼い頃から私は、サンフランシスコ中心部のゴールデン・ゲート・パークがキャリアの出発点だったと父から聞かされていた。東海岸の寄宿学校と軍学校で数年間を過ごした父は、同郷の友人ふたりを引き連れて60年代に西部を目指した。多くの若者が薬物の多幸感と自由を求めてサンフランシスコに群がるなか、父は袋分けした大麻を売りはじめた。が、父はすぐにもっと大きなビジネスの存在に気づいた。66年には活動の拠点を地元に移し、のちにDEAから「コネチカット・コネクション」の異名で呼ばれるようになった。回想録によると、父は西海岸から持ち出した50ポンド(約23キロ)の大麻をバイカーギャング「ヘルズエンジェルス」のブリッジポート支部のメンバーに売ろうとした。取引は失敗し、銃撃戦に発展した。父は捕まり、殺人未遂罪と暴行罪、さらには現場から逃走した罪で同州の刑務所に収監された。
「30秒のあいだに、自由になるための選択肢はひとつだと気づいた」と、父はかつて語っていた。
その数年後、父はリチャード・ガルシアと出会う。ガルシアは、父が刑務所時代に協力したFBI捜査官で、のちにロサンゼルス支局の支局補佐になった人物だ。クイーンズで逮捕されたあと、フロリダ州タラハシーの連邦刑務所に入っていた父は、ガルシアをカリスマ的なドラッグディーラーとして知られるジョージ・ユングに引き合わせた。父、ユング、ガルシア、ガルシアの元パートナーであるFBI捜査官のボブ・レヴィンソン(2010年代にイラン政府に拘束され、同地で死亡したことで知られる)の4人はおとり捜査を実行し、コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルの”運び屋”をしていたパイロットのカルロス・レデルを逮捕した。この出来事は、ブルース・ポーターの著書『BLOW——ブロウ』(2001年)とジョニー・デップ主演の同名の映画にもなっている。ガルシア曰く、父は脱獄の名人として有名だった。
「いまでも覚えていますが、ダン(・マクギネス)は出所すると私に電話をかけてきました」とガルシアは振り返る。「ダンは、CIA工作員のオルドリッチ・エイムズ(訳注:CIA工作員でありながら、KGBの協力者として機密情報をソ連側に流した人物)が脱獄を図ったことを聞きつけていました。脱獄を計画していたエイムズの仲間がダンに接触したんです。ダンは脱獄の名手でしたから」
父は、コネチカット州の小さな刑務所で人生初の脱獄に成功した。もうひとりの受刑者と協力して監房の柵を取り払った父は、バイカーギャングとの取引や袋入り大麻よりも大きな野望を胸に、ふたたびカリフォルニアの地を踏んだ。同郷の友人でドラッグディーラーのジム・ヒル——ふたりは同居していた——は、大麻を売るだけではカネにならない、本当にカネ儲けがしたいなら、大麻を密輸しなければならないと考えた。回想録のなかで父は、次のように綴っている。「密輸に関する基本的なルールは——逮捕されることは別として——積み荷の量をできるだけ大きくすること。100ポンドでも1万ポンドでも、リスクを冒していることに変わりはない。それなら、1万ポンドをとるべきだ」
時は1967年。「サマー・オブ・ラブ」と謳われた当時、大麻の需要はかつてないほど急増していた。その頃、父と友人たちはカリフォルニア州サウサリートに小さなバンガローを借り、木目調のボディを備えたフォード社の1950年代製のワゴン車を所有していた。国境の南のメキシコを目指す彼らにとって、これは格好のカモフラージュだった。
営業マンとして働き続けるか? 生産手段を支配するか?
「ダッチ」の愛称で呼ばれる元仲間のジェリー・ヴァン・ヴィーネンダールは、次のように話す。「楽しいのは密輸で、売るのはきつい汚れ仕事だった。それでも、飛行機や船を使う点は普通のビジネスと同じだ。問題は、営業マンとして働き続けるか? それとも、生産手段を支配するか?なのだ」
当然ながら、父とヒルは生産手段を支配したいと考えた。メキシコとの国境を目指して南下したふたりは、友人を介してメキシコのティファナ郊外の栽培者とつながった。「当時、あれだけの大麻を運べる連中は数えるほどしかいなかった。衝撃的な量だった。俺たちは、あの量を1カ月以内に現金化した。手応えを感じた。俺たちは、需要と供給という経済学を学んでいたのだ」と父は回想録に綴っている。

タイヤを使って大麻を運ぶイメージ図(Illustration by Mark Smith)
ティファナの運び屋たちは、あることに着目した。トラクターのタイヤに大麻を詰め込めば、タイヤは浮いてボート代わりになる。プロペラの代わりに人間が泳げば、前進も可能だ。父は、子供の頃から水泳が得意だった。12歳になると、はやくもロングアイランド湾横断に成功していたほどだ。そんな父でも、初めてタイヤを使って大麻を運んだときは相当きつかったと当時を振り返る。「海水は冷たいし、夜中だから真っ暗だ。それでも、諦めるわけにはいかなかった」
父の元愛人のスーザン・グリーンバーグは、次のように話す。「(メキシコの)プエルト・バヤルタのビーチに家を借りたことがありました。ダンは、ダイビングフィンをつけずに泳いだり、スピアフィッシングに行ったりしました。何よりも海を愛していたんです」
メキシコ人たちは、この米国人密輸業者の扱いに困った。だが、父が10マイル(約16キロ)の距離を泳ぎ切ってティファナ・スラウの米国側に見事到達すると、彼らは父に敬意を払うようになった。2010年、私は付き合いはじめたばかりの人——私の未来の夫で、マクギネスの孫の父親となる男性——と一緒にティファナ・スラウを訪れた。そこには何もなく、浜辺に打ち捨てられたトラクターのタイヤがひとつだけ横たわっていた。
その後、麻薬の密輸方法はより複雑になったものの、法執行機関が「ウィード・ホイール」と呼ぶこの方法は、現在も頻繁に使われている。だが、真夜中にメキシコ国境を泳いで越えた父とヒルは、もっといい方法があるはずだと確信した。
「当時、アリゾナ州は盲点とも言うべき場所だった」と元密輸業者のマイク・スチュアートは話す。スチュアートは、メキシコ時代の父を知っている。「多くの人が60年代後半に南を目指したが、そのなかでも最初にメキシコに目をつけたのがダンだった」
薬物の輸入量をたどることは恐ろしく困難だと言われている。それでも、2021年の調査によると、60年代から70年代にかけての大麻の輸入量の割合は、薬物の総輸入量の0.1%未満から3%近くにまで増加したと予測される。これは、たった10年で3000%以上増加したことになる。実際、1970年の大麻の輸入量の割合は、2017年までどの年よりも高かった。
莫大な量を密輸するために
1968年になると、父とヒルはサンフランシスコ・ベイエリア屈指の密輸業者として頭角を現していた。「ほかの連中がポンド単位で運んでいたのに対し、俺たちは莫大な量を密輸していた」と父は前に話していた。その後、父とヒルはメキシコの知名度の低い場所に行くことを決意する。そこには、ティファナの関係者のいとこがいたのだ。
地域史によると、ノガレスのような国境の街は、昔から米国への薬物輸出の重要な拠点とされてきた。その歴史は、30年代後半の禁酒法時代にまでさかのぼる。メキシコの密輸業者は、アルコールはもちろん、アヘンをメキシコから米国に密輸した。時代が下るにつれて、ヘロインも密輸している。40年代から50年代にかけては、抜群のネットワークをもつ結束力の強いファミリーが密輸を監視していた。米国人が立ち入る余地はない。
それでも、父とヒルはこのビジネスにうってつけのコンビだった。すっきりとした短髪と小綺麗な身なりで、ふたりは誰にも怪しまれずにアリゾナ州とメキシコの国境を行き来した。「聖書を持っていくんだ」と父は言った。「そうして、伝道師になりすます」。それからまもなくして、ふたりはベイエリアで活動するサミュエル・T・ウィリスという地元のパイロットと知り合う。ウィリスは、第二次世界大戦で米国の義勇部隊「フライング・タイガース」の操縦士として活躍した人物だ。「(ウィリスは)中国から金を、ビルマ(ミャンマー)からルビーを密輸した」と父は綴った。
回想録によると、ウィリスは数カ月にわたって父とアレックスというもうひとりの地元の密輸業者に小型機を操縦してサンフランシスコ湾上空を飛ぶ訓練を施した。それから時を待たずに、彼らはメキシコの国境を越えて飛行機でノガレスに着陸した。1968年には、父と仲間たちはノガレスから定期的に大量の大麻を運び出し、その量は飛行ごとに増えていった。彼らは、もっと大きな飛行機の操縦方法を習得し、アグア・プリエタという国境の南にあるメキシコの小さな町からアリゾナ州のヒラ・ベンドを往復するようになった。回想録のなかで父は、この頃のあるエピソードに触れている。荷物を受け取るためにメキシコの小さな町に着陸しようとした父は、そこにメキシコ政府軍がいることに気づいた。彼らは、何者かに通報されて、父を待ち伏せしていたのだ。父が慌てて高度を上げようとした瞬間、彼らが発砲した。父はやむを得ず着陸し、走って脱走を試みた。以下が回想録の抜粋だ。
俺は必死で砂漠を走っていた。幸い、砂漠は緑に覆われた窪地に事欠かなかった(中略)迷路のように入り組んだ窪地に救われた(中略)[政府軍に追われながら]奴らを振り切ろうと銃で応戦した(中略)当時23歳だった俺は、無我夢中で走った。ようやく窪地から抜け出すと(中略)そこには別のパトロール部隊が待ち受けていた。
その数日後、政府軍は父を探しにメキシコに戻ってきたヒルを捕らえた。だが、ヒルはすぐに保釈金を用意することができた。そこでふたりは、急遽逃亡計画を練ることにした。父をはじめ、数人の密輸業者はかろうじて脱獄に成功したものの、彼らはまたもや逮捕された。父ともうひとりの受刑者は、刑務所では看守から責められ、法廷でも矢面に立たされたあげく、有罪判決を受けた。「ひどい判決だった」と、のちに父は振り返った。それでも、何年の刑期を宣告されたかは忘れてしまったようだ。そこから父はソノラの州刑務所に移送された。そこは、メキシコ政府が国境に押し寄せてきた新規の密輸業者を捕まえては送り込む場所だった。ソノラの州刑務所は、父にとってゲームチェンジャーとなった。それも、法執行機関の思惑とはまったく別の形で。
ソノラの州刑務所
「あそこは、密輸業者を養成する高等教育機関のような場所でした」とホイトは言う。
ソノラの州刑務所は、映画の世界から飛び出してきたような場所だった。父曰く、そこには作家のケン・キージーや心理学者のティモシー・リアリーといった著名人が面会に訪れたのだ。刑務所の名物は、何と言っても自家製のLSD。当時は、受刑者だけでなく、看守までもが自由にLSDを摂取していた。父はここに2年いたのだが、そこで彼は地元の女性と出会った。刑務所には夫婦面会制度(訳注:受刑者が数時間から数日間、配偶者と個別に過ごすことが許される制度)があったため、女性は父の第一子を身籠った。その子は「エルネスト」と名付けられたが、彼の消息については何も知らない。
ソノラの州刑務所で父と知り合った元密輸業者のマイク・スチュアートは、次のように話す。「米国の刑務所とはまったくの別物だ。ソノラの州刑務所は、塀を除けばごく普通の町なんだ。店もあれば、家族もいる。パーティもドラッグもある。ダンがそうだったように、俺も(ワシントン州の)レブンワースの刑務所にいたことがあるが、そこと比べるとソノラの刑務所はバカンスのように楽しかった」
いくら楽しくても、刑務所は刑務所だ。2年近く服役した父は、そろそろ家に帰りたいと思った。これについては、父の頭のなかには複数のバージョンが存在しているようだが、そのなかでも一番よく話してくれたエピソードがある。父は、旧友ヒルにある計画を持ちかけた。父のお気に入りのバージョンによると、父は看守を買収し、刑務所の外にある病院に連れていってもらえるようにと看守にわざと暴力を振るわせた。2週間の入院生活が開けると、ヒルは父の病室の外に藁を敷き詰めたトラックで乗り入れた。父は病室から抜け出し、ふたりは国境へと向かった。
父の元愛人のグリーンバーグは「ダンは、フーディーニ(訳注:ハリー・フーディーニ、脱出王と呼ばれた19世紀末の伝説のマジシャン)のような人でした。脱獄を試みた回数を見ても、彼の右に出る者はいないのではないでしょうか。彼は、どんな場所からでも逃げ出すことができました」
しかし、米国に戻った父とヒルは窮地に立たされた。ふたりはネットワークを作り、かつてないほどこのビジネスを熟知していたにもかかわらず、善良な白人の旅行者、伝道師、建設業者として気づかれずに活動するという強みを失っていたのだ。ふたりとも20代後半に入っていた。いまさらメキシコに戻ることもできない。
そこで彼らは、米国で居場所を失った若者たちの例に漏れず、地元に帰った。だが、コネチカット州では父に対して令状が出されていた。「逃げるのに疲れた」と父は言った。父は2年間服役し、その間ヒルはのらりくらりと生活しながら、父の出所を待った。1974年、父は晴れて自由の身となり、ヒルと再会した。こうしてふたりは、ノガレスで立ち上げ、そして失ったビジネスの再建に着手した。
父の服役中、ヒルはフェアフィールド郡の高級住宅街のプライベートプールの清掃員として働いていた。そこでヒルは、家のオーナーのひとりであるヴァン・ヴィーネンダールと知り合う。いまも「ダッチ」という愛称で親しまれている彼は、ドライクリーニング店を経営していた。ヒルは、ダッチの家の規模とドライブウェイの車の数を見て、彼のドライクリーニング事業がマネーロンダリングの手段であることを見抜いた。それに加えて、ダッチの妻がコロンビア出身だと知ると、ヒルの好奇心は掻き立てられた。
「法律上の問題に直面するまで、ダンと一緒にメキシコからいろんなものを輸入していたとジム(・ヒル)から聞いていた」とダッチは言う。「彼らが何を輸入していたか、すぐにピンときた。そこで、パートナーシップの可能性を考えたんだ」
ヒルはすぐにダッチを父に紹介した。こうして新たな計画が誕生した。
メキシコからコロンビアへ
ダッチ曰く、コロンビア産大麻の密輸は、同地出身の兄弟がメキシコの大学に通ったことをきっかけにはじまった。彼らは、メキシコで「アカプルコ・ゴールド」と呼ばれる在来種の大麻株を発見した。アカプルコ・ゴールドは、はるか昔から原産地であるメキシコに自生する大麻の原種だ。兄弟はアカプルコ・ゴールドを母国コロンビアに持ち帰り、同地で栽培した。その数年後、アカプルコ・ゴールドはコーヒーや米、タバコといった生産物と一緒に栽培されるようになった。彼らは、この品種を「サンタマルタ・ゴールド」と命名した。
元DEA捜査官のホイトによると、コロンビアの密輸業者は、主に地元の栽培者からなる独自のネットワークを形成していた。父が最後に捕らえられたクイーンズのダイナーのテーブルにつきながら、ホイトは父のパイロットが初めてコロンビアを訪れたときのエピソードを振り返った。「パイロットのケニー・クヌーセンは、コロンビアの太平洋側に行くようにとダンに指示されたそうです。そこまで行ったら左に折れて、滑走路が見えるまで30分間南下しろと言われていました」
だが、クヌーセンが滑走路に着陸すると、そこには誰もいなかった。数分後に地元の人々がジャングルの中から姿を現した。手には銃や槍を持っている。クヌーセンは、彼らのリーダーに「何の用か?」と訊かれた。ホイトは話を続けた。「ケニー(・クヌーセン)から聞いた話によると、大麻を取りにきたと言った瞬間、全員が手のひらを返したようにフレンドリーになりました。取引相手はもっと南の滑走路にいるけど、ここにも大麻はあるから大丈夫だ、と言われたそうです」
当時のコロンビアの大麻市場は、カルテルではなく、協同組合として機能していた。地元の栽培者が生産品と利益を共同で利用し合っていたのだ。ホイトによると、組合の関係者たちは毎月顔を合わせては収益を山分けして、負債を返済した。だが、コロンビアと米国内の空港を行き来することは、ティファナの最盛期と同じくらい危険だった。とうとうクヌーセンは、地域航空便が発着するコネチカット州の空港でDEAに逮捕された。父とヒルは、米国沿岸警備隊に怪しまれずに中米を往復するルートを見つけなければならなかった。飛行機という選択肢がない以上、残されたルートはひとつしかない。パナマ運河を経由して、カリブ海から運ぶのだ。
1974年当時、マヌエル・ノリエガはまだパナマ共和国のトップの座にはついておらず、国家警備隊の司令官として国に仕えていた。だが、ダッチ曰く、ノリエガは最高司令官就任後も傀儡にすぎなかった。「パナマの真の黒幕は、オマル・トリホスでした」とダッチは話す。ノリエガよりも先に最高司令官を務めたトリホスは、中南米で足止めされた大麻の存在と、その鍵を握るパナマ運河に目をつけた。
メキシコ時代と同様に、父は関係者に連絡を取りはじめた。その結果、父は当時の最高司令官であるノリエガ本人と顔を突き合わせることになる。FBIの元支局補佐のガルシアは、次のように話す。「ノリエガを捕まえたとき、彼と直接コンタクトを取ることができる唯一の目撃者がダンでした。ダンはノリエガに現金10万ドルを手渡したことがあったため、反証第一号として法廷に立たされたのです」
ベールに包まれた「大物密輸業者」
ホイトをはじめ、父のビジネス関係者によると、ダン・マクギネスは70年代最大のコロンビア産大麻の輸出業者へと成長したにもかかわらず、その名はまだ知られていなかった。
そのことについて、ダッチは次のように話す。「ダンよりビッグな連中はいた。彼らは、10万ポンド(約4万5000キロ)あるいはそれ以上の大麻を動かしていた。最終的には、ファミリーや麻薬カルテルといったものがすべてを支配するようになったが、ビジネスモデルを築いたのは、ダンのような連中なんだ」
75年、ダン・マクギネスは夢にまで見た生活を手に入れた。彼は、バーテンダーだった自分の父が仕えていた男たちの仲間入りを果たしたのだ。米国での刑期を終えた父は、晴れて誰にも怪しまれずに大麻を密輸することができた。その量は、1000ポンド(約4500キロ)なんてものじゃない。父は、コロンビアから定期的に5万ポンド(約2万3000キロ)の大麻を密輸し、儲けを懐に収めた。父は29歳になったばかりで、東海岸に沿って積み荷を移動させるかたわら、フロリダ州フォート・ローダーレールに滞在していた。ある朝、父は州道A1A沿いを歩く若い女性に出会う。
彼女の名前はスーザン・コリカ。当時まだ19歳だった私の母は、友人を訪ねてフロリダ州を訪れていた。そこで、コネチカット出身の颯爽とした元犯罪者の父と出会った。
母は、父と初めて会ったときのことを話してくれた。「あの人は、毛の赤い犬(マサチューセッツ州ボストンの犬の保護施設から盗んだ赤毛のセッター犬)を連れていた。『きれいなワンちゃんですね』と声をかけたら、『君もきれいだ』と言われたわ」
一年後、ふたりは結婚した。その翌年に私が生まれた。母は、親としても人としても申し分ない人物だが、この記事を執筆しているいま、情報源としてはイマイチ精彩に欠ける。それは、彼女が父を愛していなかったからではない。
「本当は何が起きているのか、結局は知らずじまいだった」。母にインタビューをしようとすると、こんな答えが返ってきた。「かかわりたくなかったの。あなたを育てたかったから。それに正直に言うと、怖かったの。とても怖かった」
翌年、父はともに人生を歩むことになる女性に出会う。スーザン・グリーンバーグ(よりによって母と同じ名前)は、生涯にわたって父が心から愛した唯一の女性だったにちがいない。1982年のローリングストーン誌の記事は、彼らの出会いを次のように綴っている。「ボストンのバーで若い女性と仲良くなったマクギネスは、ふらりと公衆電話のほうに向かい、マイアミのリアジェット社に電話をかけて、次の週末はふたりをプライベートジェットに乗せてジャマイカまで連れて行ってほしいと電話口で言った」
「実際は、そうではありませんでした」とグリーンバーグは明かした。ふたりが出会ったのは、ボストンではなくコネチカットだ。プライベートジェットを予約したのは3回目のデートのときだった。「でも、あの人が私を別世界に連れて行ったのは事実です。プライベートジェットに乗ってジャマイカを訪れ、夢でしか存在しないと思っていた人生を見せてくれました。当時のあなたは、まだ生まれて6カ月だったと思います」
父は、大麻の密輸と同じくらい巧みにこの二重生活をこなした。コネチカット州からフロリダ州、あるいはボストンからイーストハンプトンのように、母と私が移動するのに合わせて、グリーンバーグは空いたばかりの物件に引っ越した。この生活がはじまってからすぐにグリーンバーグは母と私の存在を知ったが、母が彼女のことを知ったのは数年後——すべてが崩壊してからのことだった。
労働者階級が暮らすブリッジポートで幼少期を過ごした父は、フェアフィールド郡に豪華な邸宅を購入した。敷地には厩舎があり、裏庭には池もあった。両親は、生まれたばかりの私をこの家に連れてきた。だが、父の帝国の瓦解とともに私たちはここを去らなければならなかった。というのも、父がグリーンバーグと出会い、母がイーストン(訳注:フェアフィールド郡にある街の名前)の幸せな主婦を努めて演じていた頃、父はDEAの捜査線上に浮上していたのだ。父のパイロットをしていたケニー・クヌーセンの話を思い出してほしい。そう、クヌーセンが父のことを話したのだ。
逃亡者と追跡者
クヌーセンは当時のことをぼんやりとしか覚えていないが、元妻のマリー・クヌーセン(のちのコネチカット州議会の一員)は、夫が重要な証人となった出来事のことを覚えている。「ケニーはダンの依頼で大量の大麻を運んでいて、コネチカットの小さな町にハワード500機を着陸させました」とマリー・クヌーセンは話す。「荷下ろしの最中に警官が現れました。警官が飛行機めがけて発砲しはじめると、ケニーと乗務員はそのまま離陸しました。最終的には、ニューミルフォードの古いキャンドルライト空港まで逃げました」
クヌーセンの名前が搭乗者名簿に載っていたことが凶と出た、とホイトは明かした。クヌーセンは、事件から一週間もたたずにDEAと地元の警察に捕まった。捜査官としてこの事件を担当していたホイトは、クヌーセンから詳細を聞いてコネチカット州が父の密輸の中心地となっていることを知る。こうして、かつて「コネチカット・コネクション」と呼ばれた男が新たなターゲットとなったのだ。
それから数年間、ホイトは父を追跡した。だが、ホイトは父の高揚感の源を知らなかった。カネよりも、権力よりも、有名ナイトクラブ「スタジオ54」での時間よりも、父は逃げおおせることに高揚感を感じていた。捜査官を欺き、警官から逃れ、夜の闇(または白昼の光)に身をくらませるスリルを味わっていたのだ。そのことについて父は、「アドレナリンが出るあの感じ、あれがたまらないんだ」と綴っていた。
数十年ぶりに父と再会を果たすと、当時63歳だった父は、警官に呼び止められて数百ポンドの大麻を詰め込んだ黒いキャデラックを路肩に寄せたときのことを話してくれた。
「警官たちは、トランクを開けようともしなかった」と、父はにやりと笑った。警官から逃げるのが大好きだった父は、彼らを笑いものにすることを何よりも楽しんでいた。
長年にわたり、父はいくつもの偽名を使っていた。そのなかには、デイヴィッド・ホイトという名前もあった。父は、警官に呼び止められた夜のことを振り返った。父は、ホイトになりすました偽の身分証を地元の警官に見せ、潜入捜査官になりすました。ダン・マクギネスという大麻の密輸業者を追っていると言うと、警官は笑顔で「ご苦労様です」と言って父を解放したそうだ。
そんな時代は長く続かなかった。1970年代後半には、別の薬物が脚光を浴びはじめていたのだ。
「ダンの手腕がイマイチだったわけではありません」とグリーンバーグは話す。これは、父のやり方がマズかったと、いまになって父を非難する親族の言葉とは矛盾する。「彼は、コカインが得意ではなかったのです。状況が変わりはじめたのは、その頃からです」とグリーンバーグは言った。
コカインの台頭、ジャマイカでの不運
父は、1978年にキャリア史上最大の契約を取り付けた。父の話によると、ジャマイカ政府とコネクションのある仲介人が「ガンジャ」と呼ばれるジャマイカ産大麻の独占輸出業者として父を雇ったのだ。時の首相のマイケル・マンリーと彼が率いる人民国家党は、長年ラスタファリ運動(訳注:ジャマイカを中心に発生した宗教的社会運動で、アフリカ回帰や黒人史上主義などを掲げる)を推進していた。70年代半ばに米国政府から圧力をかけられるまでは、マンリー自身も大麻栽培に目をつぶってきた。その後もマンリーは、ラスタファリ運動の指導者と密接な関係を保ち続けきた。指導者の多くは大麻栽培者だが、海上でいつも同じ栽培者ばかりが米国沿岸警備隊に捕まるという事態が続いていた。父は、沿岸警備隊の裏をかくのにうってつけだった。10年前のメキシコと同様に、父のようなポロシャツ姿の白人は、従来の怪しげな船乗りとは一線を画していたのだ。まもなくして父は、ジャマイカの最重要輸出品を密輸するようになった。

写真中央がダン・マクギネス(Courtesy of the author)
「ジャマイカは一筋縄では行かない場所だった」とダッチは話す。「俺はかかわりたくなかった。でも、ダンはひと儲けできると踏んだ」
ある人によると、最初は父の予想どおり、財をなすことができた。だが、マーリー家をはじめとする地元のファミリーと敵対するようになってしまった。彼らは、白人の密輸業者が彼らの王国の鍵を手渡されたことに腹を立てていたのだ。私の親族のひとりは、ボブ・マーリーのライブ後にボブ本人が大麻産業を乗っ取ったことを理由に父を鼻であしらったときのことを覚えている。実際、ボブは間違っていなかった。父は、DC-10(訳注:マクダネル・ダグラス社が60~80年代に開発・生産した三発ジェット旅客機)や母船、ヨット、ビジネスジェットを使って、ジャマイカから米国東海岸へと大麻を次々と運んでいたのだ。問題は、ジャマイカ人たちが人選を誤ったことだった。1974年のダン・マクギネスは、この仕事を見事にこなしたはずだ。だが、78年の父は「コカインもろくに扱えない」ほどになっていたのだ。
その2年後、商業用の船舶(当時2歳の私の名前をとって、「クリステン・ジェーン号」と名付けられた)が進路外のルートを航行していることを理由にニュージャージー港で差し押さえられた。DC-10がジャマイカで墜落し、8万ポンド(約3万6000キロ)以上の大麻が押収された(親族のあいだでは、ジャマイカ史上最大の麻薬の押収と言われている)。それに加えて、大小さまざまな不運が続いた。父が所有する飛行機や船の数は減り、それに合わせて密輸量も減った。皮肉にも、ひと儲けできるとわかっていながら、父はコカインの密輸には手を出さなかった。コカインを米国に持ち込んだ責任を取りたくなかったのだ。80年代に入ると、父は必死に仕事を探すようになった。そんなとき、テオ・プロスという新参の密輸業者が姿を現した。初めて聞く名前だったが、父は気にしなかった。同業者のなかにはプロスの保証人になる者もいた。父の借金も膨れ上がった。ジャマイカでのビジネスは終わったも同然だった。コロンビアでは、麻薬カルテルが取引を支配していた。父が築き上げたビジネスは、父を切り離そうとしていた。プロスとの取引が完了した頃には、父は拘留されていた。今度は、あの父が騙されたのだ。
プロスの正体は、テッド・ウィード(まさかの本名)というDEAの潜入捜査官だった。ウィードは、グルーパー作戦の首謀者でもあった。
「捕まった頃のお父さんには、もうたいしたものは残っていなかった」と母は話す。
冒険譚の最後
新たなチャンスが到来したとき、父は判決が下されるのを待っていた。父は、そのチャンスをつかまずにはいられなかった。
フロリダ州タラハシーの拘留場で数カ月を過ごした父は、自分で歯にひびを入れた。拘留場には、常駐の歯科医師がいないことを知っていたのだ。父は、平服の上に受刑者の服を重ねて、娑婆に放たれた。刑務官たちに付き添われて歯科医院の待合室に到着した頃には、診察中は歯科医師とふたりきりにしてほしいと刑務官と話をつけていた。彼らが部屋を出ると、父はピッキングで手錠を外し、歯科医院のドアを開けた。一か八かの大勝負だった。廊下の先には「出口」のサインと、自由への扉が待ち受けていた。
そして、父は姿を消した。
それから2年間、父は逃亡生活を送った。ダッチのために薬物を密輸したり、コロンビアからのヨットを操縦したりした。ある朝、クイーンズにいた父とグリーンバーグは、地元のダイナーで朝食をとっていた。グリーンバーグが当時のことを振り返る。「あれは、私たちにとって最高の時代でした。カリブ海をクルーズしました。それに、あの人は前ほど無茶をしませんでした。幸せな時代です。あのダイナーに行くまでは。席につくや否や、私は不安になりました。後ろの男性ふたりを除いて、私たち以外にお客さんはいませんでした」
グリーンバーグ曰く、父はダイナーの外にある公衆電話を使うため、席を立った。戻ってくると、連邦保安官たちがダイナーを取り囲んだ。保安官たちは父を地面に押さえつけ、グリーンバーグを店の外に引きずり出した。その瞬間、彼女はいったい何が起きているのか、さっぱりわからなかった。「街角にキャデラックのディーラーがありました。私たちは、そこで車を借りたんです」と彼女は話す。「車を持ってきてくれるというので、待っていました。きっと、ディーラーのオーナーがFBIの捜査官に通報したんでしょうね」
その3カ月後、父はタラハシーの連邦裁判所で懲役60年を言い渡された。釈放されるまで、父は25年間刑に服した。2003年にフロリダ州の矯正施設への移動を命じられたとき、父は姿を現さなかった。24時間の捜査のあげく、バージニア州の森で発見されるまで、父は例のビジネスに舞い戻っていたのだ。父は、2008年に晴れて釈放された。その年の10月、父はひとり娘に会いに、ロサンゼルスまで車を飛ばした。私たちは一緒に夕食をとり、厩舎を訪れた。そこでは、乗馬が大好きだった子供時代をやり直すことができた。自宅に厩舎があった頃、私はまだ幼かった。そのため、父との思い出も少なかったのだ。結局のところ、イーストンの厩舎は、私のすべてだった。
私たちは、親子として失われた時間をたった一晩で埋め合わせようとした。だが、もう遅すぎる気もした。あまりにも長い間、私は父の帰りを待っていた。父と娘が踊るダンスパーティや学校の学芸会、卒業式に父が来てくれることを願った。私の人生の一部になってほしかった。男の子に振られたときや、望むものが手に入らなかったときは抱きしめてほしかった。深夜のバーで友達に語る面白いネタ話としてではなく、父親であってほしかった。私に会いにきてほしかった。どこにも行かないでほしかった。
別れの時間が来ると、私はキャデラックまで父を送った。乗り込む直前、父は最後にぎゅっと抱きしめてくれた。
「クリステン、愛してるよ」と耳元でささやく。わかっている。父が堅気になることは一生ない。犯罪の世界に囚われている多くの人がそうであるように、外の世界で生きている人には、こうした冒険譚は面白おかしく響くこともわかっている。でも、それを生きている人は、胸が張り裂けるような悲しみを常に感じているのだ。ダイナーで私の向かいに座ったホイトが悔しさをにじませた。「あなたのお父さんに会う機会はありませんでした。いつか会ってみたいと、ずっと願っていたのですが」
ロサンゼルスにいる私を訪れた3カ月後、2009年の2月に父は他界した。孫たちをはじめ、彼に会えなかった人は大勢いる。多くの意味で、父は自ら構築に尽力した世界の小話的な存在、ひいてはマイナーなプレイヤーとして記憶されるだろう。だが、数十億ドル規模の薬物が毎年メキシコの国境を越えて、コロンビアから空路で、またはカリブ海から海路で米国東海岸に到着するいまも、それらは父の軌跡を辿っているのだ。きっと父は、密輸業者屈指の無名の存在として歴史に名を刻むのかもしれない。愛する人たちにとっては、カメレオンのように変幻自在な人物として記憶されるだろう。
グリーンバーグは、次のように言った。「アウトサイダーであれ、大金持ちであれ、ダンはいつも誰とも平等に接していました。取引をまとめるためには、どんな人物にもなることができたんです」
グルーパー作戦に関する1982年のローリングストーン誌の記事は、タラハシーの連邦裁判所の場面で幕を下ろす。そこで父は、密輸業者プロスに扮していたDEA捜査官のウィードと対面するのだ。父は、ウィードの腕をつかんで彼の弁護士を警戒させる。が、記事の中の父はただ笑顔を浮かべ、ウィードに「まったく、アカデミー賞ものの演技力だな」と言い放つ。同じことを父にも言いたい。
from Rolling Stone US