今回の来日は、2018年のサマーソニックでヘッドライナーを務めて以来、実に7年ぶりとなるバンド編成での出演。ジェイソン・フォークナーやロジャー・ジョセフ・マニング・Jr.(共に元ジェリーフィッシュ)を含む盤石の布陣で臨む。ベックは近年も大型フェスでパフォーマンスを披露しており、そこでは代表曲を惜しみなく連発。日本でもヒットパレードと呼ぶにふさわしい、エンターテインメント性あふれるステージを披露してくれるはずだ。
約30年前、「Loser」で突如脚光を浴びたベックは、ロサンゼルスの裏通りからメジャーシーンへと駆け上がり、オルタナ世代の象徴となった。アジカンによる日本語カバーでも知られるこの名曲で、〈I'm a loser, baby, so why don't you kill me?〉(俺は負け犬さ、ベイビー。だったらいっそ殺してくれよ)と自嘲気味に歌った男は、気がつけば時代のアイコンに──その軌跡をあらためて辿るべく、メジャーデビューアルバム『Mellow Gold』でシーンを震撼させた1994年の貴重なインタビューをお届けする。

近年のライブ写真(Photo by Pooneh Ghana)
2024年のフルライブ映像、「Loser」は49:09~
「新たな代弁者」と呼ばれることへの抵抗
「今後『Loser』をやるときはさ」と、ベック・ハンセンは自らの大ヒット曲について語る。「〈"I'm a schmoozer, baby, so why don't you rock me?〉(俺は世渡り上手、一緒にロックしないか?)と歌ったほうがいいかもね」
もし彼が「世渡り上手」だとしたら、ベック(当時23歳)は間違いなく「オルタナティブ界の世渡り上手」だ。風変わりでクセになる落ちこぼれ賛歌「Loser」を不意打ちのようにヒットさせた童顔のシンガーは、ロサンゼルスの薄暗いメキシコ料理店で、自分とは何者なのかを伝えようとしている。もちろん、彼らしいチャーミングで風変わりなやり方で。
「こんなバカげたことがまだまだ続くようなら……」と、ベックは首を振りながら言う。「ほんとに歌詞を変えなきゃいけなくなっちゃうよ」
「こんなバカげたことの数々」は、1994年初頭における最も意外な一夜のサクセスストーリーであり、その快進撃は、オフビートで憎めないこの男がこれまで持っていた”負け犬”イメージを打ち砕くことになった。つい最近まで、ベックはロサンゼルスの──しかもかなりディープな──アンダーグラウンドで活動していたミュージシャンで、自主制作の中には1993年のシングル「MTV Makes Me Want to Smoke Crack(MTVを見るとクラックを吸いたくなる)」なんて曲もあった。だが、”新しきオルタナ・ロックの世界”が幕を開けた今、ベックはトップ40ヒットを飛ばし、DGCレコードの最優先アーティストとなった。「Loser」の巧妙なビデオクリップがMTVの「Buzz Bin(注目枠)」にしっかり収まった今、ベックもそろそろクラックパイプを取り出す頃かもしれない。
レストランのスピーカーから流れる、アル・スチュワート「Year of the Cat」のミューザック版に合わせて、トルティーヤチップでリズムを取るベック。彼は「Loser」のビデオがMTVで初めて流れ、自分が”グランジ世代の新たな代弁者”として祭り上げられた瞬間を思い出していた。
「そのとき僕は、ワシントン州のオリンピアにいたんだ。誰かから電話がかかってきて、『ビデオが初公開されるよ』って言われてさ」とベックは語る。「で、テレビのDJがスラッカーがどうこうって延々しゃべってるわけ。『Loser』はスラッカーのアンセムだ、みたいなことを言ってて……。
「だってさ、僕にはスラック(怠ける余裕)なんてまるでなかったんだよ」とベックは続ける。「時給4ドルの仕事をして、生き延びるのに必死だった。ああいうスラッカー的なノリってさ、何にでも絶望してるヒマがある人たちのもんだろ?」
ベックの話を聞くかぎり、彼の成功は、努力も意欲もほとんど介在しないまま訪れたもののようだ。昨年、ロサンゼルスの小さなゲリラ系レーベル、Bong Load Custom Recordsが「Loser」の12インチ盤をリリースする以前、彼の状況はかなり悲惨だったという。
「1年前なんて、ダウンタウンの路地裏にある家の裏の物置に住んでたんだ。ネズミだらけのね」とベックは振り返る。「金もゼロ、可能性もゼロ。ビデオ店で最低賃金の仕事をしてて、ポルノコーナーのDVDをアルファベット順に並べるとか、そんなことしてたよ」
「信じてくれよ、全部棚ぼたみたいなもんなんだ」とベックは言う。「仕事を見つけるのも、女の子と付き合うのも、何をやるにしても苦手だった。ライブのフライヤーすら自分で作ったことがない。
ベックは、DGCとのちょっと変わった契約──豊かな創作の自由と、さまざまなインディーズ作品のリリース継続を認められたもの──のもとで制作した初のアルバム『Mellow Gold』によって、自分が「Loser」だけの存在ではないことを証明したいと考えている。自宅で8トラックのレコーダーを使って録音された低予算の作品で、フォーク、ブルース、ラップ、カントリー、そしてベックが身の回りで見つけたあらゆる音を自在にブレンドしている。ユーモラスで、フォーキーで、ファンキーで、時にフリーキーでもある。そんな『Mellow Gold』は、まるでウディ・ガスリーとウディ・アレンが出会う奇妙な場所への旅のようだ。「Nitemare Hippy Girl」「Fuckin With My Head (Mountain Dew Rock)」「Soul Suckin Jerk」といった収録曲を聴けば、このアルバムがポップヒットを狙った計算づくの産物ではないことは明らかだ。
「『Mellow Gold』のコンセプトはね、ゴミ捨て場で見つかったサタニックなK-Telレコード(※ヒット曲を集めた安価なコンピ盤シリーズ)って感じなんだ」とベックは実に淡々と説明する。「何人かがそれをいじくり回して、抱いて寝たり、半分飲み込んでから吐き出したりしてる。誰かはそれでポーカーをして、誰かは吸おうとした。で、そのレコードはモロッコに持ち込まれて、フムスとタブーリを塗りたくられた。その後、水上スキー大会に運ばれて、みんながその上を滑ったり、フリスビーみたいに投げたりしたんだ。で、最終的にターンテーブルに乗せられた時には、元のK-Tel盤がまったく新しいレベルに達してたってわけ。『Freedom Rock』(※70年代のロック・コンピレーション)的なノリをそのまま引き継いだってこと、わかるだろ?」
もちろん、わかってるさ。
フォークへの傾倒「ゴミをアートに変える」
では、この男はいったいどこから現れたのか? それはもちろんロサンゼルスだ。あちこち旅もしてきたベックだが、彼の多感な少年時代の多くは、事務職の母親と異父兄と一緒に、街のいかがわしくも活気あるエリアで過ごしていた。ハリウッド・ブールバードを自転車で走り回っては、どこか惹かれるものがあったパンクスたちを眺め、黎明期のヒップホップを聴きながら、ときにはブレイクダンスをかじったりもしていた。彼の「ストリート音楽」志向は、自然に身についたものらしい。というのも、彼自身の話によれば、赤ん坊の頃はブルーグラスのストリート・ミュージシャンだった父親と一緒にたむろしていたという。
幼い頃、ベックは一時期、母方の祖父母が住むカンザスに預けられていたことがある。「まあ、ちょっと変わった家庭だったからね」と、彼は納得のいくように語る。「きっと心配されてたんだと思うよ」
祖父は長老派教会の牧師で、幼いベックが耳にしていた教会音楽や賛美歌は、知らず知らずのうちに彼に影響を与えたという。「そういう音楽を意識して聴いてきたわけじゃないけど、すごく影響を受けてる」と彼は語る。「歌詞はどこか聖書的で、不器用で、それでいて素晴らしいものがあるんだ」
またベックは、もう一人の祖父であるアーティストのアル・ハンセンとヨーロッパで過ごしたこともあった。「おじいちゃんはタバコの吸い殻を集めて、それをくっつけて裸の女性の絵を作るんだ。それに銀色のスプレーを吹きかけるのさ」とベックは語る。
ベックは、自身が最初に買ったレコードが、オリビア・ニュートン=ジョンが多数フィーチャーされた映画『ザナドゥ』のサウンドトラックだったかもしれないと、勇敢にも(?)告白している。だがその後すぐに、彼はよりルーツ色の濃い音楽、たとえばミシシッピ・ジョン・ハートに傾倒していく。「あんなの、それまで聴いたこともなかったよ」とベックは振り返る。「70年代のヒッピーが虹のことを歌いながらフィンガーピッキングしてるとかじゃない。正真正銘の本物だった。他のことはそっちのけで、半年間ずっと部屋にこもって、自分も弾けるようになるまでフィンガーピッキングを練習し続けたんだ」
「完全にアウトサイダーって感じだった」と語るベックは、高校を9年生(※日本でいう中学3年相当)で中退し、ろくでもない仕事をいくつか経験したあと、路上で演奏を始めた。「最初のライブは、市バスの中だったよ」とベックは語る。「バスに乗り込んで、ミシシッピ・ジョン・ハートの曲を、完全に即興の歌詞で弾き語りするんだ。すると酔っ払いが怒鳴り始めて、俺のことをアクセル・ローズって呼んだりする。だからこっちも、アクセル・ローズとか、堤防とか、バスの回数券とか、ストリキニーネ(※毒物の一種)について歌にして、全部ごちゃまぜにして歌ってやるんだ」
1989年、当時17歳だったベックはニューヨークへ向かった。「もう、絵に描いたような話だよ」と彼は語る。
彼はその夏、仕事と住む場所を探し回ったものの、ほとんど成果は得られなかった。やがてマンハッタンのロウワー・イースト・サイドにたむろするようになり、幸運にも当時そこで盛り上がっていた「アンチ・フォーク」に出会うことになる。「あのシーンは、まさにパンクそのものだった。僕にはぴったりだったよ」とベックは語る。「パンクって、ずっと自分の中で一番好きなジャンルだったんだ。でも僕が持ってたのはアコースティックギターだけで、誰も一緒にやりたがらなかった。なのにそこには、アコギ一本で激しくパンクしてる連中がごろごろいたんだよ」
ニューヨークで1年以上を過ごしたのち、ベックはついにロサンゼルス行きのバスに乗った。自分が当時ホームレスだったかどうかについては多くを語ろうとせず、「何かを利用するみたいなことはしたくないから」と説明しているが、厳しい状況だったことは認めている。「寒さにはもううんざりだったし、ボコボコにされるのもイヤだった」と彼は言う。「金もなくて、住む場所もなくて、彼女もいなくて、暖房もなけりゃスプーンもシリアルもない。周りの友だちにも見放されてたし、シーンにいた連中もみんな僕にうんざりしてたよ」
LAの片隅で生まれた「Loser」
ロサンゼルスに戻った当初も、ベックの状況が劇的に好転したわけではなかった。シルバーレイクのビデオ店で働く日々のあと、ギターを抱えて地元のクラブやコーヒーハウス──Als Bar、Rajis、Jabberjawといった店──に飛び入りし、バンドとバンドの合間に数曲だけ演奏していた。「みんな酔っぱらってたし、持ち時間も2分くらいしかなかったから、いつもバカっぽい曲を歌ってたよ」と彼は言う。「それが僕にとって唯一のチャンスだったんだ」
やがてベックは、重要な支援者たちを得ることになる。BMGミュージック・パブリッシングの西海岸タレント獲得部門ディレクターであるマーガレット・ミッテルマンと、Bong Load Custom Recordsのパートナーであるトム・ロスロック、ロブ・シュナップ、ブラッド・ランバートの3人だ。「ベックに最初に惹かれたのは、すべてを自己完結できるフォーク・アーティストだったということ。レコーディングするのに最高の存在だと思いました」と、ロスロックは語る。ベックはラップにも関心を示しており、それを聞いたロスロックは、ヒップホップ・プロデューサーのカール・ステファンソンと彼を引き合わせた。こうして、ベック、ロスロック、ステファンソンの3人によって、「Loser」はリリースの2年以上前に録音されたのだった。
Bong Loadがこのシングルを正式にリリースするまでには1年以上の時間がかかった(発売されたのは1993年の夏だった)が、楽曲への反応は即座だった。「レコードがプレスされる前から、すでに大きな盛り上がりがあったんだ。すぐにブートレグ(海賊版)も出回り始めたよ」とロスロックは語る。シアトルやロサンゼルスのヒップなラジオ局も、驚くほどのスピードでこの曲を取り上げていった。
「そのうち、すべてがとんでもないことになっていったんだ」とベックは語る。「だって、デヴィッド・ゲフィン(※DGCレコーズを傘下に収めるゲフィン・レコードの創設者)が家に電話をかけてきて、僕に興味があるって伝えてきたんだよ。レコード会社なんて、数カ月もすれば引き下がるだろうって思ってたのにさ」

Photo by Lindsay Brice/Michael Ochs Archives/Getty
そして最終的に、1993年のサンクスギビング(11月下旬)──Bong Loadからの新たなシングル「Steve Threw Up」や、Fingerpaint Recordsからの10インチEP『A Western Harvest Field by Moonlight』のリリース直前──ベックはDGCとの契約を結ぶことになった。「成り行きに任せてるよ」と彼は語る。「あまり意識しすぎないようにしてる。あるいは、それに縛られて便秘にならないようにね」
それでもベックは今なお、「イーストL.A.の端っこにある、ピンク色のスタッコ壁の化け物みたいな家」に住んでいる。唯一の”ロックスター的な贅沢”といえば、朝食用シリアルのコレクションを急ピッチで増やしていることぐらいだ。最近はトースターを買おうかと考えているらしい。
「この騒ぎと成功について言えば、まあ、けっこう笑える話だよね」とベックは語る。「今じゃ、誰でもステージに出てガチャガチャ音を立てればいいって感じだし。きっと何でもアリなんだろうね」
アジカンによる「Loser」カバーのMV(2013年)
※1994年4月21日号のローリングストーン誌US版に掲載
From Rolling Stone US.

Photo by Pooneh Ghana
ベックが歩んできた「変幻自在の30年」
1994年の「Loser」で脚光を浴びたベックは、その後も独自の感性でジャンルを越境し、オルタナティヴ・ミュージックの最前線を走り続けてきた。
1996年の大ヒットアルバム『Odelay』では、ローファイなギターサウンドにヒップホップ由来のサンプリングを重ね合わせることで、ジャンルを自在に横断。”何でもアリ”の時代精神をポップ・アルバムとして昇華させ、グラミー賞2部門を受賞するなど、ベックの代表作として今なお語り継がれている。
続く1998年の『Mutations』ではフォークやボサノヴァ、カントリーの要素を取り入れた静謐で内省的な世界観を展開するも、1999年の『Midnite Vultures』では再びスタイルを刷新。ファンク、ソウル、エレクトロを大胆にミックスし、過剰さと洒落っ気が共存するミクスチャー・ポップの金字塔として高い評価を受けた。
21世紀に入ってからも、ベックはアルバムごとに作風を大きく変化させながら高い評価を獲得してきた。2002年の『Sea Change』は、ストリングスの美しさとメロウな質感が際立つ内省的な一作。2005年の『Guero』ではビートと遊び心を前面に押し出し、ラテンやエレクトロの要素も取り入れたにぎやかで多彩なグルーヴを展開。2008年の『Modern Guilt』ではデンジャー・マウスの力を借りて、60年代のサイケデリックやガレージロックの空気感をモダンな音像と融合させた。
2014年の『Morning Phase』では、『Sea Change』の延長線上にあるような静謐でオーガニックな音世界を構築し、グラミー賞では「最優秀アルバム賞」を含む主要3部門を受賞。2017年の『Colors』では一転して、カラフルかつ洗練されたポップサウンドを全面に押し出し、ダンサブルかつキャッチーな楽曲群で新たなリスナー層を獲得。同作収録の「Dreams」は、ストリーミングにおいて「Loser」に次ぐ人気曲となっている。
2019年の『Hyperspace』では、ファレル・ウィリアムスとのコラボも話題に。2023年にはフェニックスとの共作シングル「Odyssey」をリリースし、今後はオーケストラとの共演ツアーも予定されているなど、現在も精力的な活動を展開している。

BECK Live in Japan 2025
2025年5月28日(水)大阪・Zepp Namba
2025年5月29日(木)東京・NHKホール
OPEN 18:00 / START 19:00
公演詳細:https://www.nano-mugenfes.com/25/beck/

ASIAN KUNG-FU GENERATION presents NANO-MUGEN FES. 2025 in JAPAN
2025年5月31日(土)・6月1日(日)神奈川Kアリーナ横浜
開場 9:00 / 開演 11:00 / 終演 20:30(予定)
■出演
5月31日(土):ASIAN KUNG-FU GENERATION / ELLEGARDEN / SPECIAL OTHERS ACOUSTIC [NEW] / ストレイテナー / VOICE OF BACEPROT and more
6月1日(日):ASIAN KUNG-FU GENERATION / THE ADAMS / BECK / くるり / YeYe [NEW] and more
ASIAN KUNG-FU GENERATION presents NANO-MUGEN FES. 2025 in JAKARTA
2025年5月24日(土)・25日(日)Allianz Ecopark Jakarta, INDONESIA
■出演者
5月24日(土):ASIAN KUNG-FU GENERATION / ELLEGARDEN / Homecomings / KANA-BOON
5月25日(日):ASIAN KUNG-FU GENERATION / BECK / くるり / リーガルリリー
公式サイト:https://www.nano-mugenfes.com/