「スライの革新的な精神は、後のヒップホップの到来を先取りしていた」──82歳で亡くなったスライ&ザ・ファミリー・ストーンのフロントマン、スライ・ストーンを追悼。彼のドキュメンタリー映画『Sly Lives』(日本公開切望!)の監督を務めたザ・ルーツのクエストラヴが、Rolling Stoneに寄稿したエッセイで故人の才能と苦悩を振り返る。


スライ・ストーンの歩みは、感情を表に出すことの難しさ、特にアメリカにおける黒人にとってそれがいかに困難であるかを浮き彫りにしている。感情を表現することは時に危険に感じられた。嘲笑されたり、からかわれたり、仲間外れにされたり、殴られたり、最悪の場合は命を奪われることさえあった。そうした危険から身を守るために、黒人たちはクールな外見、感情など持っていないかのように振る舞う態度を身につけた。それは本当の感情を覆い隠し、内面の麻痺感へとつながっていった。

この苦しみは、水槽の中の金魚のように常に誰かの視線にさらされ、本当の自分をさらけ出すことができない感覚に似ている。スライはその才能を輝かせたが、同時にその期待に応え続けるプレッシャーにも晒され、創造性と注目を浴びることへの不安との間で葛藤を抱えていた。彼の芸術性は驚異的だったが、そこにはこうした困難を乗り越える重荷も伴っていた。

スライ・ストーンはあまりに先駆的な存在だったため、彼の功績にばかり焦点が当たることで、我々が『Sly Lives!』のドキュメンタリーで伝えたかったメンタルヘルスに関する重要なメッセージが薄れてしまうのではと心配していた。彼がラジオ番組のために作ったパロディCMは、『サタデー・ナイト・ライブ』のスケッチに先駆けるユーモアを示していたし、人種や性の統合された世界という彼のビジョンは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの夢と響き合っていたが、同時に物議を醸す可能性も秘めていた。1960年代後半、スライの率直な歌詞──深い感情や苦悩の表出──は、多くの黒人コミュニティにとって受け止めきれないものでもあった。生き延びることが、心をさらけ出すことよりも優先されたからだ。
「Everyday People」のような童謡のように親しみやすいメロディには、実はこうした重いメッセージが秘められていた。

時代の先を行く創造性

スライの革新的な精神は、後のヒップホップの到来を先取りしていた。もし20年後に登場していたなら、パブリック・エネミーやデ・ラ・ソウルと肩を並べていたかもしれない。彼は声の加工に挑戦し、MTVが普及する遥か以前にコンセプトビデオを制作するなど、時代の先を行く創造性を発揮していた。兄のフレディもまた、70年代を象徴するファンクの「バウ・チカ・ワウワウ」サウンドの確立に大きく貢献した。

スライは、スティーヴィー・ワンダー、トッド・ラングレン、プリンス、シュギー・オーティスといった後続のアーティストたちが帝国を築くきっかけとなる、DIYでオールインワンな天才の道を切り開いた。そこには、「うわ、これは本気だ!」と「待って、これ本気なの?」、さらには「え……まさか本気じゃないよね?」の間を漂うような、遊び心に満ちた自由があった。『There's a Riot Goin' On(暴動)』や『Fresh』の孤独感は、それ以前の5枚のグループアルバムが生み出していた「みんなで歌おう!」という一体感とは対照的である。

「Hot Fun In The Summertime」では、私たちが決して経験することのない夏の皮肉な軽やかさが響く。同時に私は、スライが姉のローズを焚きつけ、ノーマン・ホイットフィールドやテンプテーションズに対して「自分の真似をするな」と仕掛けているのも感じ取る。「Hot Fun」は、あなたが気づかぬうちに「Not Like Us」の元祖だったのだ。その一方で、テンプテーションズは「Superstar (Remember Who You Are)」で応戦するが、ホイットフィールドが組織を離れた後、スライは1976年にテンプテーションズのゴーストライターを務め、最後には彼が勝者となった。
スライは「多作」という言葉の意味を、仕事を6つ掛け持ちしているこの私ですら想像もできないほどに広げてみせたのだ。

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From Rolling Stone US.
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