イエス、キング・クリムゾン、ジェネシスを渡り歩いた「プログレ史上最高のドラマー」ビル・ブルーフォード(Bill Bruford)。引退を表明して自身のドラム・コレクションまで処分してしまった彼が、75歳にして現役復帰。
ギタリストのピート・ロス率いるジャズ・トリオの一員として、6月25日に東京26日に横浜27日に大阪のビルボードライブで来日公演を行う。そんな彼の最新ロングインタビューを前後編でお届けする。

イエス、キング・クリムゾン、ジェネシスといえば、誰もが認めるプログレッシブ・ロックの三大バンドだ。そのすべてのバンドで活躍する腕前を持ち合わせたドラマーは、ビル・ブルーフォードの他には存在しない。彼は1972年から76年にかけて、その偉業を成し遂げた。本人は、「3つのバンドを脱退したミュージシャンというだけさ。ひとつのバンドに腰を落ち着けない奴だ、とも言われている」とジョークを飛ばす。ブルーフォードはイングランドのサリーにある自宅で、本誌のオンライン・インタビューに応じた。

そのブルーフォードは、音楽界を引退した過去の人とされてきた。2009年からは趣味のレベルでもドラムを叩くことはなくなり、楽器も処分したという。そして二度とステージに立つことはないと思われていた。引退から10年が経った2019年の本誌インタビューでは、「もはやどんな音楽も演奏する熱意が起こらない。
本を書いたり、孫の相手をしたり、今はもっと他にやりたいことがあるんだ」と語り、現役への復帰はもはや望めないように思われた。

それからわずか3年。突然心変わりしたブルーフォードはピート・ロス・トリオの一員として、イングランド各地の小さな会場で再びジャズを演奏し始めた。全盛期の上述3バンドで経験した大観衆の前でのコンサートとは両極端だが、ブルーフォードにとってはそこが重要なポイントだった。彼にはスタジアムでのコンサートよりも、小規模なジャズ・リサイタルの方がずっと居心地がよかった。一晩あたりに稼げる金額の大小など、どうでもよかったのだ。

彼が最初にお金よりも自分の信念に従って動いたのは、1972年にイエスが名作『危機(Close to the Edge)』を完成させ、これからワールドツアーが始まる、というタイミングだった。同作のスーパー・デラックス・エディションが、2025年3月にリリースされた。今こそ、75歳になった彼が引退撤回を決断した真意を再確認する絶好のタイミングだろう。

ピート・ロス・トリオで演奏するビル・ブルーフォード

イエス初期の記憶「一から十まで勉強になった」

—イエス初期の話から伺いたいと思います。どの時点で、このバンドがそれまでにない新しいタイプだと認識しましたか?

ビル・ブルーフォード(以下、BB):難しい質問だな。一人のミュージシャンとして、簡単に答えられるような問題ではない。
1968年から72年までの約4年間在籍したが、最初の3年間は財政的に破綻していた。なんとか持ちこたえているような状態で、どうやってバンドが継続できていたのか、よくわからない。

すると突然、イギリスで郵便局のストライキが起きた。そこでバンドのマネージャーが、リチャード・ブランソンと交渉したのさ。郵便が止まったせいで国内チャートはデータの収集ができなくなったから、ストライキ中はブランソンが経営していたレコードショップの売上データがチャートを作成する唯一の根拠となった。だから彼のレコードショップで売上ランキングが上がれば、国内チャートのトップ20が約束されたも同然だった。そうやって一度でも「トップ20に入ったバンド」として世間に名前を売れれば、あとはこっちのものさ。

1969年撮影のイエス

—初期のイエスが、ロイヤル・アルバート・ホールで行われたクリームのフェアウェル・コンサートの前座を務めることになりました。どのような感じでしたか?

BB:本当に緊張した。(ジンジャー・)ベイカーのドラム・セットと比べると僕の機材はかなり見劣りしたしね。僕はずっと彼のファンで、子どもの頃からプレイを参考にしてきた。とても大きな存在だったんだ。
15、6歳の頃、ロンドンのジャズクラブによく通っていた。当時のクラブは年齢制限がなく、自由に出入りできた。ベイカーと知り合いという訳ではなかったが、彼は、観客の中で自分の演奏に見入っている少年に気づいていたはずだ。当時の彼は22歳くらいだったと思うけれど、僕からはすごい年上の大人に見えた。

僕にとってベイカーは、ものすごく大きな影響を与えてくれたドラマーだった。それもあって、アルバート・ホールで演奏する時は少し緊張した。とはいえ結果として、僕らは役割を果たせたと思う。ドラムソロでスティックを落としてしまったが、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』の楽曲「Somethings Coming」はバッチリ決まった。曲のつなぎ目で少し間を置いて次の演奏に入るところで、床の上に転がるスティックの音だけが鳴り響いた。演奏中にスティックを落としたのは、後にも先にもそれが最後だ。

—イエスとの最初のアルバム・レコーディングを通じて、スタジオでの音楽制作について何か得たものはありますか?

BB:一から十まですべてが勉強になった。初めは少しビビっていた。
自分のヘッドホンから流れるサウンドは、自分の聴きたい楽器を自分の好みにミックスできることを、レコーディングが終わってから知った。だから最初は、ヘッドホンの片方からはギターの爆音、もう片方からはリバーブのサウンドだけが聴こえてくる状態でレコーディングしていた。まったく酷い経験だったよ。ただ僕は学習能力がある方だから、次からはちゃんと対応したよ。

「Yours Is No Disgrace」1971年のライブ映像。ギタリストはピーター・バンクス、キーボーディストはトニー・ケイ

—スティーヴ・ハウが加入したことで、曲作りにどのような変化がありましたか?

BB:彼は音楽の幅を広げてくれた。今振り返ってみれば単純明解で当然のことだが、当時の僕は、ただ自分の楽器と演奏だけに集中していたんだ。スティーヴはピーター・バンクスよりも多彩な音楽の引き出しを持っていて、エネルギッシュで楽しい人間だった。それから、ピート・タウンゼントにものすごく傾倒していた。スティーヴは、シタールとかポルトガルの楽器とか、目新しい多様なサウンドも持ち込んでくれた。

「スティーヴがいれば、もうピーターは用無しだな」ということで、ピーターは押し出される形になった。その後のリック・ウェイクマンとトニー・ケイの交代も、同じような感じだった。
リックの方が多種多様なキーボード・サウンドを表現できたからね。トニーはオルガンにこだわり過ぎていたから、バンド自体がこぢんまりとした交響楽団みたいになってしまっていた。

—『サード・アルバム(The Yes Album)』に収録の「Starship Trooper」や「Yours Is No Disgrace」は、バンドにとって大きな飛躍のきっかけだったと思います。あなた自身はどう感じていましたか。

BB:当時の自分がどう感じていたかは、はっきり覚えていない。毎日があっという間に過ぎていった。同時に、バンドがいつ分裂してしまうか、日々ハラハラしていたよ。バンド内では、誰を残して、誰が不要だ、などというシビアなやり取りが続いていた。明日は我が身かもしれないと感じたから、クビを宣告される前に自分の方から去ったのさ。

BBCによる1972年撮影の秘蔵映像

『こわれもの』『危機』制作秘話(1)

—「Roundabout」はアメリカのラジオを通じて大ヒットしました。自分たちでも驚いたのではないでしょうか。

BB:そうだね。
当時のプログレ事情は面白かった。当時のFMラジオは、「Roundabout」より長い曲でも、4分程度に短く切り詰めて流していた。イングランド人の僕にとって、ニューヨークのFM局WNEWで45分おきに「Roundabout」が流れる状況に驚いたし、とても衝撃的だった。当初は「Roundabout」が受けるとは思っていなかったし、ヒットも期待していなかった。でも、ヒット曲はこうやって生まれるんだな、というのが理解できた。

—初めて渡米してのコンサートは、いかがでしたか?

BB:本当に素晴らしい経験だった。それまでの僕らはイギリス国内に閉じ込められていたからね。狭い国だから2、3年もすれば退屈で死にそうになるし、観客からもすぐに飽きられてしまう。のびのびできる場所が必要だった。もちろん、アメリカが正にそういう場所だというのはわかっていたが、どうすればアメリカへ進出できるのか、当時の僕らにはわからなかった。

ニューヨークのアトランティック・レコードは、僕らが何者なのかまったく理解していなかった。たぶんイギリスのフォーク・グループとでも思っていたのだろう。でも当時の僕らには、軌道修正する時間がたっぷりあったし、「次のアルバムがヒットしなければおしまいだ」というプレッシャーもなかった。そうやって活動を続けていたら、ラッキーなことにジェスロ・タルの前座として声がかかり、アメリカ行きが実現したんだ。

アンダーソン・ブルーフォード・ウェイクマン・ハウ(ABWH)による「Roundabout」(1989年のライブ映像)

—アルバム『危機』の制作に入った時は、バンドとしてどのような目標を掲げていたのでしょうか。

BB:まずは、サイモン&ガーファンクルよりも長い時間をかけてじっくり作ろう、ということだった。彼らは『明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)』の制作に、3カ月間もかけていた。だから僕らは3カ月と2日かけて、このものすごい記録を破ってやろう、と考えたのさ。

それから言うまでもなく、『こわれもの(Fragile)』に収録した「Heart of the Sunrise」がひとつのテンプレートになった。自分たちの中でも自信作だったので、「これを何かの形で発展できないか」と考えていた。

—『こわれもの』にはインストゥルメンタルのインタールードが多く収録されている一方で、『危機』は3曲のみで構成されています。これは強力なメッセージに思われます。

BB:『こわれもの』が短い曲の集合体になったのは、意図したものではない。いわば苦肉の策だった。いろいろ誤解も受けたが、単に十分な素材がなかったというだけさ。「ここには素晴らしいオーケストラがいるじゃないか。各メンバーがやりたいように、好きなスタイルで曲作りをしてみよう。僕らはリーダーの指示に従うよ。そうすれば、最低5曲は用意できる」と提案してみたのさ。

ところが蓋を開けてみると、それを実践したのは僕だけだった。僕の他にはジョン(・アンダーソン)も、確か全員を使って「We Have Heaven」を仕上げたと思う。でも基本的に、リックもスティーヴもソロで曲を作った。僕の曲には全メンバーが参加した。そしてクリス・スクワイアは、壮大なベース・ソロを披露した。結局は僕が提案したようには進まなかったが、とりあえずアルバム1枚分の曲は集まった。あとは数曲だけ、バンドでの作品を追加するだけでよかった。

—「Roundabout」のヒットでレーベルからの期待が急に高まったことで、次作『危機』の制作へ入る時にプレッシャーは感じましたか?

BB:個人的には感じなかった。「成功するか失敗するか」というような感覚はまったくなかった。僕らは野心家のジョン・アンダーソンの方向性に沿って、目立つことをしたかっただけなんだと思う。ジョンの野望は尽きることがなかった。僕はノリノリだったけれど、結局のところ、ただのドラマーでしかないのさ。

ビル・ブルーフォードは『危機』というプログレのど真ん中にいた人間なのに、と違和感があるかもしれない。でも僕はもともとジャズ畑の人間なんだ。ロックとかジャズとかいうジャンルを超えて、ドラムという楽器を愛して、ドラムを演奏するのが好きなのさ。ロック・バンドだろうがジャズ・バンドだろうが、結婚式のバンドだろうが、ドラムを演奏できれば楽しいし、それがみんなにも伝わればさらに嬉しい。

『こわれもの』『危機』制作秘話(2)

—『危機』のレコーディングは、スタジオ作業にかなり長い時間をかけたそうですが、特にストレスフルな時期ではなかったでしょうか。

BB:そう、とてつもなく時間をかけた。機材をまとめて高速道路を飛ばし、一晩限りのライブをやって、スタジオへ戻ってまた機材を降ろしてセッティングする。当然、すべてが変わるから、サウンドも少し変わる。そして「Siberian Khatru」の途中からレコーディングを再開する、といった感じの生活だった。

僕らは若く、エネルギーに溢れていた。ものごとの良し悪しもわからず、僕は他のバンドでの経験もなかった。実は楽な仕事だったのかもしれないし、本当にハードな仕事だったのかもしれない。でも僕は文句も言わずにこなしていた。僕らは素晴らしい仕事をしていたつもりだが、ミュージシャンが語るレコーディング中の感想など信用しない方がいい。ミュージシャンの感覚なんてしょっちゅう変わるものだからね。今振り返ってみると、すべてが順調で最高の時間だったと思う。

『危機(Close to the Edge)』スーパー・デラックス・エディションの告知映像

—タイトル曲のさまざまなパートをつなぎ合わせる細かい作業はいかがでしたか。

BB:とにかく編集作業の連続だったね。2インチ幅テープを駆使してひたすら編集した。「エディット・オファード(”編集好き”の意)」と呼ばれた(プロデューサーの)エディ・オフォードは、僕らがレコーディングする8小節のセクションを別のセクションとつなぎ合わせるために、ずっとテープの切り貼りを続けていた。上手くいくこともあれば、最悪の結果になることもあった。でもとにかく幸運の女神のおかげで、どうにか仕上げることができた。

—そんな切り貼りだらけの編集から、まとまりのあるサウンドに仕上がっているのは驚きです。

BB:特に誰かが全体を仕切っていた訳ではない。誰かが「これはこっちへ入れた方がいいんじゃないか」と言えば、みんなが「グッド・アイデアだね」と賛同する。得られるはずもないベターなアイデアを追求しながら、気づくと朝の4時で、全員ぐったりさ。それでも何とか完成させた。

—ジョンの歌詞についてどう思いますか? 「”Siberian Khatru”って一体何だよ?」と思うことはなかったでしょうか。

BB:そうだな。でも歌詞の内容に関しては最初からあまり気にしていなかった。それよりも僕にとっては、言葉の持つサウンドとリズムの方が重要だ。〈Close to the Edge〉というフレーズは心地いいよね。〈Close to the Edge / Down by a river〉なんて、最高だ。

歌詞に口を出したことはないし、「これはどういう意味か?」などと尋ねたこともない。意味を持たせる必要もないと思う。17歳の少女がどれだけ不幸かとか、ジョンの身の上話がどうだとか、僕の抱えるストレスはこうだとか、そんな歌詞は僕にとって何の意味もない。ドラマーとしての僕に必要なのは、リズムだ。曲には常にリズムがあるし、ボーカルのテンポがしっかりしていればそれでいい。僕は言葉の持つサウンドが好きなんだ。だから「Siberian Khatru」が何を意味するのかは知らないけれど、サウンド的には響きがいい。

—レコーディング中に、マスターテープの一部を廃棄してしまったと聞きました。何があったのでしょうか。

BB:毎晩遅くまでスタジオで作業していたが、翌朝9時の営業開始の準備で清掃スタッフが来る夜明け頃までに、僕らは退室しなければならなかった。ある時、清掃スタッフが重要なテープの一部を廃棄してしまったんだ。

プロデューサーのエディ・オフォードは、デスクの上まで片付けないだろうと思い、テープを置きっぱなしにしていたのだと思う。清掃スタッフはゴミだと思って捨ててしまったのだろう。全員でゴミ箱をあさり、なんとか回収できた。エディがテープをセットしてみると、無事に再生できた。もしもダメになっていたら、最悪だったよ。ゴミ箱から拾ったテープは、最終的にアルバムに採用されたと思う。清掃スタッフのおかげで、いいエピソードができた。

イエス脱退の真相

—レコーディング中にバンドからの脱退を考え始めたのでしょうか?

BB:具体的な時期は覚えていない。ロバート・フリップ(キング・クリムゾン)としばらくつるんだりツアーに出たりしていたが、たぶん『危機』のレコーディング前後だったと思う。ロバートには、キング・クリムゾンへ加入したいという意向を伝えていた。そして『危機』の頃に、踏み出す決心を固めた。

—どういう理由からでしょう?

BB:もうこのバンドで僕がやることはなくなった、と思ったからね。できることはすべてやり尽くした感じだった。単なる繰り返しでは、進歩がない。僕としては、そんな状況に我慢ができなかった。それに、僕に期待されているのは、そういうことではないと思う。最高の感性を発揮し続けるのが、ミュージシャンとしての義務だと信じている。スタジアム規模のツアーで毎晩同じ演奏を繰り返すだけの生活は、僕の性に合わない。

僕は常に、新しいメンバー、新しい楽曲、新しい課題を求めたい人間なんだ。だから当時の自分としては、身を引くべきだと強く思うようになった。ちょうど、エディ・オフォードの友人であるアラン・ホワイトが、アルバム制作の終盤あたりに顔を出していた。もしかしたら、ドラムパートの録り直しをするつもりだったのかもしれない。彼がバンドのドラマーになるなんて考えもしなかったが、結果的にとてもマッチしていた。だから僕は納得したし、彼にとってもハッピーだったと思うよ。

1972年のライブアルバム『Yessongs』収録「Perpetual Change」におけるビル・ブルーフォードのドラムソロ。同作には彼とアラン・ホワイトの両方が参加

—数カ月前にスティーヴ(・ハウ)にインタビューしましたが、あなたの脱退は本当にショックだったと言っていました。当時はどんな感じでしたか?

BB:ありがたいことだ。ジョン(・アンダーソン)もそうだったし、僕自身も落ち込んだ。クリエイティブな場所だったから、なかなか離れがたかった。ただ同時に、バンド内は混乱して口論も絶えなかった。断続的にぶつかり合い、言い争いと話し合いが延々と続く状態だった。

よく考えたらプロとして最初のバンドだったし、4、5年の僕のキャリア中ずっと同じメンバーと一緒にやってきたしね。そんな人間には、変化が必要な時期だった。『危機』が、ちょうどいいきっかけになった。もちろん、アルバムにはリリース後のツアーが付き物なのはわかっていた。バンドの知名度も上がっていたタイミングで、既にツアーの予定が組まれていた。でもその時点でツアーについて、僕は何も聞かされていなかった。だから「脱退しようと思う」と僕が宣言すると、「でも1週間後からツアーが始まるんだぞ」と、その時初めて知らされた。罪悪感はなかった。自分のベストは尽くしたと自負していたし、まだできることはあったかもしれないが、あのバンドではもうやる気がしなかったんだ。

—数年前にリック(ウェイクマン)が、イエスのアルバム『海洋地形学の物語(Tales From Topographic Oceans)』は彼のキャリアの中でも最悪の出来だった、と発言しています。どこを切り取っても気に入らないそうです。そんな作品に関わらなくてラッキーだと思いますか?

BB:ラッキーだったなどとは思わない。そのアルバムは聴いていないしね。僕は、脱退したバンドのその後を追うことはしない。また、自分が関わった作品を聴き返すこともない。だから、そのアルバムのことはわからない。でも今振り返ってみると、その作品に付き合って苦労する必要がなくてよかったのかもしれない。確か2枚組アルバムだったよね。

—そうです。しかも収録曲は4曲でした。

BB:ワオ! 僕には荷が重かったと思う。だから僕の選択は間違っていなかったのかもしれない。ミュージシャンとして恵まれていると思う。僕はこれまでに数多くのミュージシャンと共演してきたが、1972年の時点では、わずか4人しか知らなかった。多くのミュージシャンと共演することで、学んで経験が積めるんだ。「Close to the Edge」をスタジアムで毎晩繰り返し演奏していても、何も得るものはない。

【インタビュー後編】
ビル・ブルーフォード、プログレ史上最高のドラマーが明かす「現役復帰」の真意
>>>記事はこちら ※6月18日(水)17時公開

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From Rolling Stone US.

『こわれもの』『危機』…プログレ黄金時代、イエスの傑作をビル・ブルーフォードが振り返る

Pete Roth Trio featuring Bill Bruford来日公演

■ ビルボードライブ東京(1日2回公演)
2025年6月25日(水)
・1stステージ 開場16:30/開演17:30
・2ndステージ 開場19:30/開演20:30
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■ 追加公演:ビルボードライブ横浜(1日2回公演)
2025年6月26日(木)
・1stステージ 開場16:30/開演17:30
・2ndステージ 開場19:30/開演20:30
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■ ビルボードライブ大阪(1日2回公演)
2025年6月27日(金)
・1stステージ 開場16:30/開演17:30
・2ndステージ 開場19:30/開演20:30
>>>詳細・チケット購入はこちら

メンバー:Pete Roth(Gt)、Bill Bruford(Dr)、Mike Pratt(Ba)

【Special】いよいよ今月ビルボードライブツアーを開催する、Pete Roth Trioからビデオメッセージが到着しました東京公演はソールドアウト!ビルボードライブ横浜で行われる追加公演も残席僅かなのでご予約はお早めに
▼6/26(木)ビルボードライブ横浜公演詳細はこちらhttps://t.co/FnaJjErStspic.twitter.com/yauOKooxP8— Billboard Live TOKYO【ビルボードライブ東京】 (@billboardlive_t) June 6, 2025
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