そんな彼女が1982年にリリースした大ヒット曲「Forget Me Nots」は幾度となくサンプリングされ、何度も再評価され、近年もTikTokで人気を博している。90年代にはジャネット・ジャクソンのツアーの音楽監督を手掛けたりもしていて、彼女が通ってきた道は正に現代のジャズミュージシャンたちがやっているものを先取りしていたことがわかる。
しかも彼女は、キャリアの途中から音楽教育にも注力し、多くのアーティストを育ててきた。近年ではサム・ウィルクスやジェイコブ・マンといったLAの実力派たちが、彼女を師と仰いでいる。様々な意味で大きな影響力を持つ彼女に話を聞くことができた。名曲の逸話から彼女の哲学まで語りつくしたロングインタビューだ。
50年前から「ジャンルレス」「オールラウンド」を実践
―僕は、1974年のデビュー作『Prelusion』の1曲目「Shorties Portion」のイントロにあるリッチなアレンジがすごく好きなんです。あれを聴くと、あなたは20歳の時点で「ただのジャズ・ピアニスト」を目指していたのではなく、もっと大きなビジョンを描いていたのではないかと思います。もともと、どんな音楽家になりたいと考えていたのでしょうか?
パトリース・ラッシェン(以下、PR):私は昔からいろんな音楽が大好きで、クラシック、R&B、ジャズ、ゴスペル……なんでも聴いて育ってきました。だから、たとえ一つのジャンルに取り組んでいても、他の音楽の可能性や影響が自然と滲み出てくるんだと思います。
プレステッジというジャズ・レーベルと契約することになったのは、1972年のモントレー・ジャズ・フェスでの私の演奏を、彼らが観て気に入ってくださったのがきっかけです。なので当然、彼らはジャズ・ピアニストとしての私に期待していたんですけど、同時に、私がいろんな音楽が好きなこともちゃんと理解してくれていました。
長いあいだ、私のことをジャズ・ピアニストだとしか思っていなかった方も多いと思いますが、実は初期の頃から、少しずつファンクの要素を取り入れたり、出たばかりのシンセサイザーを使ったりして、実験的なことをいろいろやっていたんです。そうやって、自分なりの音楽を作ってきました。
1973年のパトリース・ラッシェン
―プレステッジ時代のあなたは、一作ごとに音楽性を変化させ、目まぐるしいスピードで進化を遂げていました。1974年の『Prelusion』と1977年の3rd『Shout It Out』ではまるで別人のようですし、その後はさらに大きな変化を遂げていきましたよね。当時、どのようなビジョンを描いていたのでしょうか?
PR:当時の私は、作曲にいちばん力を入れていました。もちろん演奏するのも大好きでしたし、素晴らしいプレイヤーのみなさんのことは心から尊敬しています。でも、いちばん関心があったのは「曲を書くこと」、そして「曲を通して何を表現したいのか」ということでした。穏やかで幻想的な気分のときもあれば、体を動かしたくなるようなときもある。そうやって、音楽は私にとって、いろんなアイデアや気持ちを表現する”言葉”のようなものだったんです。
ずっと私は、ジャンルにとらわれず、自分がいいと思う音楽を全力で届ける”オールラウンドなミュージシャン”になりたいと思っていました。でも、いろんな音楽が好きだったからこそ、自然といろんな要素を取り入れるようになっていって、音楽が進化するほどに、私自身がどんどん「わかりづらい存在」になっていったんです。
幸い、今の時代は業界もマーケティングの方法も進化して、音楽の聴かれ方も変わりました。だから若い人たちは、そんなにジャンルにこだわらない。あるのは、ただ「好きか、好きじゃないか」。私は、それで十分だと思っています。
芸術性と商業性の両立を信じて
―とはいえ、ジャズピアニストとして期待されていたあなたの音楽性がどんどん変化し、それを作品に反映していくとなると、プレステッジに理解があったとはいえ、レーベルと交渉しなければならなかったと思うのですが……。
PR:プレステッジはとても寛容で、私のやりたいようにやらせてくれました。エグゼクティブ・プロデューサーのオリン・キープニュースは、artistry(アーティストとしての表現)をとても大切にする方でした。
artistryというのは、1枚のレコードや1曲だけのことではなくて、その先も育っていくような、もっと大きくて特別な何かなんです。その成長を支えて、アーティストが自信を持って前に進み、音楽を育んでいけるようなスタートを与えることが、自分の役目だとオリンは信じていたんですね。だからプレステッジでは、どんなアルバムでもきちんと受け入れてもらえました。
ところが、そこに商業的な成功の可能性が見え始めたとき、別のレーベル──つまりエレクトラが登場しました。そこで私は初めて、「より多くの人に売ること」がレコード会社の目的なんだ、ということをはっきり理解したんです。
1978年のエレクトラ移籍作『Patrice』
―1978年に移籍してからはレーベルとの関係性が変わったと。
PR:エレクトラは、私がやっていることの中でも、特に商業的な側面にフォーカスしたがっていました。私は、ジャズの伝統的な部分を大事にしながらも、大好きなダンスや歌の要素も取り入れて、自分らしく、正直な表現をしたいと思っていたんです。最初のうちは、それがすごく自然にできていたし、プレッシャーも感じていませんでした。でも、レコードの売上が伸びてくると、「売れるんだから、もっと売らなきゃ」というプレッシャーがかかるようになって、だんだんとそのバランスを取るのが難しくなっていったんです。
それでも私は、「芸術性の高い作品でも、商業的に成功することは十分に可能だ」という信念を、一度も手放したことがありませんでした。多くの人に受け入れてもらうためには、ある種の芸術性というか、緻密さや洗練が必要だと思っていたからです。私にはジャズの素養があったので、即興演奏や作曲、コードの響きや展開といった、”いわゆる売れる音楽”ではあまり語られないような要素が、自然と身についていたんです。だからこそ、それらを自分の音楽に取り入れることで、周りにある音楽とは少し違ったものにすることができました。
その点に、レコード会社はかなり戸惑っていました。
先駆的な感性を育んだ音楽ルーツ
―70~80年代には、ある種のスタジオ・ミュージシャンとして、数多くの作品で演奏してきましたよね。そうした活動は、あなたのキャリアにどのような影響を与えたのでしょうか?
PR:人と一緒に音楽を作ると、自分では思いもしなかったようなチャンスが生まれるんです。コラボレーションを通して、音楽への新しいアプローチを学ぶこともできます。私はもともと、映画音楽の作曲家になりたいと思っていたので、スタジオワークをしたり、人の作品に参加して、その人のビジョンに合った音を瞬時に出すことを繰り返すうちに、自分の音楽的なボキャブラリーの幅がどんどん広がっていきました。
それに、私の周りには素晴らしいミュージシャンがたくさんいたんです。高校時代、アース・ウインド&ファイアー(以下、EW&F)が活動を始めたばかりの頃、彼らが私の高校のプロムパーティーで演奏することになって、そのリハーサルの様子を間近で見ることができました。グルーヴを試したり、試行錯誤を重ねながらサウンドを作り上げていく、そのプロセスを目の当たりにして、「音楽ってこうやって進化していくんだな」と実感したのを覚えています。
ハービー・ハンコック、ベニー・モウピン、クインシー・ジョーンズとの出会いも、ちょうどその頃でした。みんなタイプの違うアーティストですが、それぞれから大きなインスピレーションをもらいました。私が音楽の道を歩き始めたとき、マイケル・ジャクソンやプリンスも活躍していました。
パトリース・ラッシェンが歌で参加、ハービー・ハンコック「Give It All Your Heart」(1982年)
Prince and Patrice Rushen pic.twitter.com/ATczkjljNd— Chris•tine | a Brazilian tiny lesbian (@alligatortearsq) March 3, 2024
プリンスとパトリース・ラッシェン。「I Wanna Be Your Lover」は1979年当時、プリンスが彼女に抱いていた恋心を綴った曲だとされている
―「映画音楽の作曲家になりたかった」とのことですが、どんな人たちを聴いたり研究したりしてきましたか?
PR:映画音楽を書くには、幅広い知識が必要だと思ったので、昔学んでいたクラシックを改めて勉強し直しました。ブラームス、ベートーヴェン、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、アーロン・コープランド……同時に、両親のコレクションにあって小さい頃から聴いていたマイルス・デイヴィスやデューク・エリントン、カウント・ベイシー、クインシー・ジョーンズ、サド・ジョーンズなんかも改めてじっくり聴き直したんです。
私が惹かれたのは、作曲のスタイルや音の響き、テクスチャーや”色”といった部分でした。いろんなスコアを研究して、クラシックからジャズまで、小編成のものから大編成のものまで、幅広く学びました。
それから、R&Bやポップスの大ヒット曲を手がけていたアレンジャー、チャールズ・ステップニー、トム・ベル、バート・バカラック……彼らの楽曲やオーケストレーションは本当に素晴らしくて。そういう幅広い音楽を聴いてきたことで、私はたくさんの表現方法を身につけることができたんだと思います。それからさらに後になって、バーナード・ハーマンやジェリー・ゴールドスミスといった映画音楽の作曲家の作品も聴くようになりました。彼らも、映画音楽以外の音楽的なバックグラウンドを持っていたからこそ、その感性を映画音楽の中に自然に取り入れることができたんだろうな、って私は思っています。
―チャールズ・ステップニーなら、どの作品が好きですか?
PR:彼が手がけたEW&Fの作品はどれも大好き! ミニー・リパートンのアルバム『Come to My Garden』も素晴らしいですよね。
―ロータリー・コネクションの人脈ですね。
PR:ええ。ロータリー・コネクションでは、ふたりは一緒に活動していました。そのときも、そして『Come to My Garden』でも、一連の”art song”(※ピアノと歌だけで演奏される、クラシック音楽の形式)を書いていたのはチャールズ・ステップニーだったんです。彼は、それらの楽曲をミニー・リパートンに歌わせていました。
―お話を伺っていると、本当にたくさんの音楽を聴いてこられたんですね。
PR:ははは(笑)。だって楽しいから!今でも音楽を聴くのが本当に大好きで、学び終えることなんて、一生ないと思っています。何かおもしろい音を耳にすると「これ、何だろう?」って気になってしまうんです。私はきっと好奇心がすごく強いんでしょうね。
先端テクノロジーとの向き合い方
―さて、ここからはエレクトラ移籍後の話をお願いします。
PR:当時のエレクトラは、ジャズの感性を持ちながらも、商業的に成功する可能性のあるアーティストを意識的に探していた時期だったんです。私は、まさにそのイメージにぴったり合う存在だったんでしょうね。当時の私は、売れるかどうかはあまり気にしていなくて、とにかくリスナーとつながることのできる、良い音楽を作りたいという思いが、いつも中心にありました。レコード会社は、あまりいい顔をしませんでしたけどね。
―そこは軋轢があったんですね。
PR:あの頃、私がやっていたことは、少しだけ時代を先取りしすぎていたのかもしれません。私は流行を追いかけることはせず、むしろ気づかないうちに、流行を生み出してしまっていたんです。もちろん、それを狙っていたわけではなくて、ただ自分らしく、ベストを尽くしていただけなんですけどね。
1980年にエレクトラから発表した『Posh』
―エレクトラ移籍後は、歌にもかなり力を入れるようになりましたよね。声の使い方はとりわけ斬新です。ご自身の声について、どのように捉えていますか?
PR:私は、自分のことをシンガーだと思ったことがありません。たまたま「声」も使って表現する器楽奏者というだけで。歌うことは大好きですが、私にとって声はあくまで”もう一つの表現手段”なんです。これまでやってきたのは、ただ自分が「いいな」と感じることだけ。それに正直に向き合ってきた結果なんです。
―あなたは新しい楽器や機材、つまりテクノロジーにも積極的に取り組んできたアーティストだと思います。次々と新しい楽器に挑戦し、自分のものにして、それを新たな音楽の創出に活かしてきました。そうしたテクノロジーの進化と音楽との関係について、どのようにお考えですか?
PR:求められているのは、やはりバランスなんだと思います。私のように、まず音楽を学び、その後にテクノロジーに触れた世代にとっては、特にそう感じます。私たちは、楽器を演奏することを覚え、音楽を理解し、譜面を書くことを学び、バンドで他の人とコミュニケーションを取りながら音楽を作ることを経験してきました。つまり、まず先に音楽があって、そのうえでテクノロジーを音楽を作るための道具として取り入れてきたんです。
でも今は少し状況が違います。特に若い世代にとっては、進化したテクノロジーを使えば、音楽を体系的に学ばなくても、ボタンひとつでコードを鳴らしたり、音色を簡単に切り替えたりすることができてしまう。その中で、「なぜこの音を選ぶのか」「音楽や感情の質をどう高めていくのか」といった意識の部分が、以前とは異なってきていると感じるんです。
もちろん、私はテクノロジーに対して否定的なわけではありません。むしろ、テクノロジーは音楽にたくさんの選択肢を与えてくれる存在だと思っています。精度を高めることで音楽の流れを明確にしたり、特定の楽器の特性にとらわれずに音を曲げたり、音と音のあいだのニュアンスを表現したり、”音楽的な音”に限らず、空気感や感覚を加えることで、聴く人に「どこかにいるような錯覚」を感じさせたり……。テクノロジーを使ってできることは、本当にたくさんあると思います。
―ですよね。
PR:でも、テクノロジーがどれだけ進化しても、絶対に代替不可能なものがあると思う。それは、音楽を学ぶための努力やエネルギー、そしてそこに費やされる時間です。たとえば、それは「500本のクレヨンがあるのに、紙がない」ようなものだと思うんです。音楽を学ぶということは、その”紙”の部分にあたる。そして、その紙にきれいな絵を描くには、もちろん”色”が必要です。しかも、ただ美しいだけじゃなく、時にはシリアスだったり、チャレンジングだったり、政治的だったりと、その絵に深みや意味を持たせるためには、色の使い方がとても重要なんです。
今の時代は、クレヨンはたくさん持っているのに、その使い方を知らない人が多いように感じます。だから、音がどこか平凡に聴こえたり、嘘っぽく感じられたり、わざとらしく思えてしまうこともある。アーティストが本当に伝えたいことの背景にある”思考のプロセス”が、必ずしも音から伝わってこない──そんなふうに感じることもあります。
かつては、プロデューサーがアーティストの伝えたいこと、つまり「artistry」を一番いい形で引き出し、録音するための環境づくりをサポートしていたんです。でも今は、プロデューサーがスタジオに入って、ほとんどすべてのことを自分でやれてしまう。そのアーティストが「本当に歌えるかどうか」「演奏できるかどうか」は、もはやそれほど重要ではなくなってきている。つまり、テクノロジーによって得られるものがある一方で、同時に何かを失ってしまう可能性も、常にあるということなんです。
―そう考えると、これからの世代は悩ましいですね。
PR:だからこそ、私は教育の現場に刺激と喜びを感じているんです。生徒たちにはいつも、「なぜそれをやるのか?」「何がしたいのか?」「何を伝えたいのか?」——そうした気持ちを、決して忘れないでいてほしいと伝えています。そして、テクノロジーをどう使えば音楽がもっとよくなるのか、何を選ぶべきかを考えるときにも、そうした気持ちを大切にしてほしいんです。

エンジニアの領域へ「女性に知識がなかったわけではない」
―テクノロジーの話と紐づけると、あなたは自分の作品の録音やミックスにも関与していますよね。そうしようと思ったきっかけはありますか?
PR:それは1stアルバム『Prelusion』のときからでした。自分のやるべきこと、つまり演奏に関してはある程度わかっていたけれど、「他の人たちは何をしているんだろう?」「エンジニアの仕事って、どんなことをしているの?」といったように、アルバム制作に関わるすべての仕事に興味を持つようになったんです。だって、録音された音楽というのは、共同作業でしか作れないものですよね。ひとりで同時に演奏して、録音して、それを自分で聴くなんて、どうしたって無理ですから。自分がブースの中で演奏した音が、きちんと正確に録音されているかどうかを確認するためには、音響システムから出る音を”私の耳”になって聴いて、作業してくれる信頼できる人が必要なんです。
エンジニアは、周波数や音どうしの調和を細かく聴き分けなければなりません。録音された音が自然にひとつにまとまり、心地よく聴こえるためには、バランスや音の配置、EQなど、すべての要素が”あるべき位置”に整っている必要があるんです。コンサートの場合は、演奏している姿や表情といった視覚情報も加わりますが、レコードでは頼れるのは音だけ。そこに何かを見るものもないし、「その場にいた」という体験もない。だからこそ、レコードにとって「音が正しく伝わること」は、ものすごく大切なことだと私は思っています。
そんな理由から、録音に関わることをもっと知りたいと思うようになったんです。いわば、私の好奇心ですね。音がどう響き合うか、逆に噛み合わないかで音楽は大きく変わるし、ベースとキックドラムの絡みも、とても重要な要素です。聴いているときは意識しにくいかもしれませんが、演奏中はとても大切なんです。だから録音でも、そこをきちんと捉える必要があります。それに、スタジオの音をなるべくクリアに、忠実に録りたいという思いがありました。その気持ちでエンジニアの方々の仕事を見て学びました。皆さん知識が豊富で親切で、録音をしやすくする工夫や、良い音にするためのコツをたくさん教えてくれました。
1987年のアルバム『Watch Out!』の表題曲
―現場でエンジニアたちから学んだんですね。エンジニアの世界は女性の割合がすごく低い世界で、70~80年代は女性のエンジニアなんてほぼいなかったと思います。
PR:まずは、とにかく見て学びました。そして、自分がどういうサウンドにしたいかについては、はっきりとした意見がありました。その意見は、ただの思いつきではなく、エンジニアの方々から得た知識に基づいていたので、皆さんも耳を傾けて、協力してくださったんです。「こうしたいんだけど、もう少しこうしてみたら?」「いいね、じゃあこう試してみよう」といった、ギブ&テイクのやりとりができていました。
確かに、あなたの言うように、当時は女性のエンジニアはほとんどいませんでした。そうやって、自分の求めていることを萎縮せずに言葉にして、その問いにきちんと応えてもらえる環境にいた女性が少なかったんだと思います。女性に知識がなかったわけではない——それは、はっきり言っておきたいですね。
的確で、知識に裏付けられたやり取りの大切さを、本当の意味で実感したのは、映画やテレビの音楽制作をするようになってからでした。あの業界は、とにかく時間がないんです。アルバム制作なら、1曲ずつ時間をかけて仕上げていくことができます。アイデアを試したり、手を加えたり、納得いくまで形を変えていくこともできる。でも、テレビや映画の世界はまったく違います。「とにかく早く」「持ち時間は数時間」「今日中にこれとこれとこれを仕上げる!」といった感じで。そんなときに本当に役立ったのが、「何が必要か」を迅速かつ的確に伝えるための知識と経験。つまり、”言葉にする力”だったんです。
名曲「Forget Me Nots」誕生秘話(1)
―あなたの録音やミックスの的確さが際立っている好例が、「Havent You Heard」や「Forget Me Nots」といった名曲だと思います。これらの楽曲は、世界中のDJたちから愛され、今なおクラブでプレイされ続けています。その理由の一つは、録音やミックスのクオリティもあるのではないでしょうか。私自身もクラブで耳にしたことがありますが、とにかく心地よい音で鳴り響き、ミキサーでいじると素晴らしい変化を見せる。まさにマジカルな楽曲です。この2曲について、ぜひお話を聞かせてください。
まずは「Forget Me Nots」から。あのトラックには、実はほとんど音が乗っていないんです! ベースラインがあまりにも完成されていて、その周りを動くコードが、ちょうどいいバランスで空間を埋めてくれる。その土台の上にキーボードが入って、もう少し高い音域に何かが必要だった。そのときに必要だったのが、私たちが ”Ear Candy” と呼んでいる、リスナーの注意を引く装飾音。それが、あの(シンセの)「ti ti ti ti」という音です。ドラムもとてもシンプルで、そこにクラップ(手拍子)が加わる。人って、手拍子には自然と反応するんですよ。手を叩くだけなら誰でもできるから、「あ、これ好きかも」って思えるんです。私自身がまさにそうでした。
だから私は、自分が「いいな」と思うことをやっただけ。そして、そうやってできたトラックの上に、あのボーカルを乗せました。全体の音に対して、ああいう穏やかで、まるで物語を語るような、リリカルなボーカルを重ねるのは、とても新しい試みだったと思います。偶然というか、試しにやってみたらすごくハマった。それが結果的に、たくさんの人に気に入ってもらえたんです。
ミックスという点では、音が少ないぶん、ひとつひとつの音を引き立てる”空間”や”余白”があったんです。そうした余白があったからこそ、DJたちは自分の好きな音を加えて、自由に遊ぶことができた。それが、あの曲がDJに愛された理由だと思っています。それに、ミックス自体も今聴いてもすごく新鮮なんです。この間ラジオを聴いていたら、あの曲が流れてきて、その瞬間、強いインパクトを感じました。2025年の今聴いてもまったく古さを感じないし、サウンドはクリーンで、編成としては小規模ですが、それぞれの音がちゃんと”あるべき場所”に配置されている。「だからこそ、リスナーにしっかり伝わったんだな」と、自分でも思いました。
1982年発表『Straight From The Heart』。「Forget Me Nots」「Remind Me」といった代表曲を収録
―音の少なさと空間が重要だったと。
PR:一方、「Havent You Heard」は、リズムセクション全員が一緒にスタジオに入るという、昔ながらのやり方でレコーディングした曲です。どんなグルーヴにしたいかは最初から明確にあったので、まずはキーボード、ドラム、ベース、ギターだけで5~10分ほど音を合わせました。全員がしっかり感じ合えるまでは、録音ボタンを押さなかったんです。そして最高のリズムトラックが録れたあとに、ストリングスとホーンのアレンジを加えました。アレンジはすべて私自身が手がけました。
この曲では、通常とは逆で、一度曲を書き終えたあと、スタジオでいったん分解してから、また組み立て直すという方法をとりました。すごくいいヴァイブを持つ曲だったので、重たくならないようにしたかったんです。ストリングスがあんな旋律を奏でるの、聴いたことありますか? 美しい高音のロングノートを奏でたかと思えば、次の瞬間にはブルースをがんがん弾いていて、冒頭ではかなりいろんなことをしています。そのおかげで、軽やかな浮遊感が生まれました。そして全体をまとめているのがホーン。ある意味、とてもシンプルな曲なんです。
「Havent You Heard」は、全員でスタジオに入って録音しています。ストリングスもホーンもすべて本物で、シンセティックな音は一切使っていません。あの曲には、まさにああいう感覚が必要とされていた時代の空気があったんだと思います。おそらく一番”新しい”楽器は、私がソロを弾いたローズ・ピアノですね。アコースティック・ピアノも、エレクトリック・ベースも、ギターもドラムも、みんな同時にスタジオにいて録音していました。それは、オーケストラがバラバラでは演奏できないのと同じことです。
1979年発表『Pizzazz』。人気曲「Haven't You Heard」を収録
―それぞれの曲で異なるビジョンがあったわけですね。
PR:曲には、それぞれに合った届け方があるもの。だからこそ、音楽を作るのは本当に楽しいんです。「この曲を届けるには、どういう形が一番いいんだろう?」そして、次の曲ではまた「これはどう届けようか?」と考える。そうしていくと、自然とすべて違うものになるんです。決まった型なんてありません。何が出来上がってくるか自分でもわからないし、きっとレコード会社はヤキモキしていたと思います。「心配しないで、いいものができるから」と、いくら言っても、です。
実はちょっとおもしろい話があって……最初、レコード会社は「Forget Me Nots」のことをあまり気に入っていなかったんですよ。
―え!?
PR:あの曲だけじゃなくて、『Straight From The Heart』(1982年)に収録されている「Number One」も「Remind Me」も「I Was Tired of Being Alone」も、そしてもちろん「Forget Me Nots」も、全部気に入ってもらえませんでした。「自分たちには扱いようがない」って、そう言われたんです。
―信じられないですね。
PR:パニックになってもおかしくないような状況だったと思いますが、私はまったく動じませんでした。どうしたかというと、フリーのPRエージェントを雇って、ラジオへのプロモーションを始めたんです。ネットがなかった当時、人々が音楽を聴く手段といえば、ラジオしかありませんでしたから。人はラジオで曲を聴いて、気に入ったらレコード店に足を運ぶ。だから、ラジオでかけてもらえさえすれば、あとはリスナーが「好きかどうか」を判断してくれる。でも、誰にも聴かれなければ、そもそもチャンスすらない。だから私はラジオに働きかけました。そして、それが一気に広がっていったんです。
あのときは、自分たちの音楽に自信があったからこそ、せめてチャンスだけは与えたいと思って行動に移したんです。恐れはまったくありませんでしたし、その行動がちゃんと実を結んだということですね。
「Forget Me Nots」は今日、TikTokを通じてダンスチャレンジのBGMとして定番化
名曲「Forget Me Nots」誕生秘話(2)
―「Forget Me Nots」に関してもう少し聞かせてください。例えば、サビの〈Sending you forget me nots to help me to remember~〉の部分って声の音量は小さいのに、すごく面白い多重録音になっていて、しかも、曲が進むとボーカルハーモニーは変化してますよね。一見、シンプルなようで実は実験的だと思うんです。
PR:あの曲でベースを弾いていたのは、共作者のひとりでもあるフレディ・ワシントンです。彼はしばらく私の家族の家に滞在していたので、よく一緒に演奏していました。彼がドラムを叩いたり、ピアノを弾いたり、私がベースを弾いたりと、いろんな楽器を持ち替えながら演奏していて、その様子をオープンリールやカセットで録音していたんです。ある日、彼がたまたまあのベースラインを弾いたとき、「今の何?」と思ってすぐにテープを巻き戻し、「これを曲にしよう」ということになりました。それをフレディの作曲パートナーだったテリー・マクファディンに聴かせたところ、あのフック──〈Sending you forget me nots to help me to remember. Baby, please forget me not. I want you to remember〉を書いてくれたんです。
”Forget-me-not” は花の名前で、「忘れな草を送るよ、忘れないでいてほしいから」という言葉遊びにもなっています。この2行から、コードや物語が自然とひらめいていきました。
―セッションのようにして生まれたんですね。
PR:スタジオに入って最初に使ったのは、小さなリズムマシンでした。指のスナップ音や手拍子も、そのリズムマシンで出したものなので一定なんです。そのあとフレディがベースラインを弾き、私がキーボードを重ねました。曲のメッセージをより際立たせるためにアレンジを加えて、シンセパートも足しました。バックボーカル、リードボーカルを録ったあと、最後に入れたのがドラムでした。順番としてはかなり珍しいと思います。
でも、余計なものは要らなかったんです。ドラマーのエルヴィン・ウェブは、コーラスでダウンビートにハイハットを開けてアクセントをつけ、それ以外はあえてストレートに叩くという思慮深い演奏をしてくれました。とても小さなことかもしれませんが、あそこが曲の大きな特徴になっていて、”呼吸する余裕”を与えてくれている。ふっと軽さが出たのは、あの演奏のおかげです。それができたのは、本物のプレイヤーたちがいたからこそ。彼らは自分の耳で聴いて、自分の知識に基づいて「こうしてみたら?」とアイデアを出してくれる。みんなでそれを話し合い、納得して決めていく。そうやって、全員が「こうあるべき」と思うものを自然に持ち寄ってできたからこそ、あの曲には誠実でシンプルな音が宿っているんだと思います。
「Forget Me Nots」が生まれてから、もう40年以上が経ちました。『メン・イン・ブラック』やジョージ・マイケルの「Fastlove」など、本当に数えきれないほど、いろんな形に生まれ変わってきました。レコード会社が当初いい顔をしていなかったことを思い出すたびに、つい笑ってしまいます(笑)。
―あの曲も収録された『Straight From The Heart』はアートワークも美しいですよね。あなたの美しいヘアスタイルも印象的です。
PR:活動を始めた当初から、私が大切にしていたことのひとつが、アフリカン・アメリカンとして、特に女性としてのイメージでした。「何が美しいか」という考え自体が、すごく歪められていると思っていたんです。アルバム・カバーについて考えていたとき、友人のひとりがこう言ってくれました。「私たちの祖先は王や女王だった。昔の人たちがどんな服を着ていたか、本を見てみよう。そこからヒントを得て、その要素を取り入れつつ、自分たちらしい新しいイメージが作れるかもしれない」と。
そこで見つけたのが、ブレイズ(braids)にビーズを編み込むスタイルでした。もともとブレイズにはしていたんですが、ヘアスタイリストと相談してビーズを試してみたら、それがとてもユニークで、斬新で、美しかったんです。そして何より、ミュージシャンとしての気高さやルーツを、自分らしく、女性らしく表現する手段として、ビーズはぴったりだと感じました。
でも、アルバムを4~5枚作る頃には、髪がずいぶん長く伸びていて、ビーズもどんどん重くなってしまって(笑)。それで、「もうここまで! やりたいことはやったし、想いもちゃんと伝えられた。じゃあ、次は何をしようか?」という気持ちになったんです。そこからは、同じことを繰り返すのではなく、でも同じテーマ──美しさや高貴さ、アーティストとしての喜びや誇り──を、羽根や布など、別の素材を使って表現してみようと思った、というわけです。

Photo by Bobby Holland
レジー・アンドリュースからカマシ・ワシントンへと連なる系譜
―話は変わりますが、あなたがレジー・アンドリュース(2022年死去)のもとで学んだことがあるという情報を見ました。彼はカマシ・ワシントンやサンダーキャットの先生ですよね。今のあなたはそんな後進たちの先生でもある。そう考えるとLAの音楽コミュニティの系譜のようにも映りますが、自分でもそういった歴史の一員だという意識はありますか?
PR:もちろんです。コミュニティへの音楽教育を、私の高校で始めたのがレジー・アンドリュースでした。彼が教員になった最初の年、その教え子のひとりが私だったんです。ほかにはサックス奏者のジェラルド・オルブライト、ドラマーのンドゥグ・チャンラー、EW&Fのゲイリー・バイアス、レジー・ヤング……みんな同じ頃にレジーから学んだんです。
George Duke, Reggie Andrews, Patrice Rushen#TBT #GeorgeDuke #ReggieAndrews #PatriceRushen #Keyboardists #KeyboardPlayers #Pianists #RhodesPlayers #Rhodes #HohnerClavinetD6 #MiniMoog #Synthesizer #AcousticGrandPiano #YamahaElectricGrand #Keys #RhodesScholars #RhodesHeroes pic.twitter.com/Dm5NWtgt9h— Fender Rhodes Story (@RhodesStory) December 6, 2018左からジョージ・デューク、レジー・アンドリュース、パトリース・ラッシェン
―すさまじい同窓の顔ぶれですね……。
PR:一言でミュージシャンと言っても、その仕事は本当にさまざまで、それぞれがまったく異なるものなんです。クラブで演奏している人もいれば、オーケストラの団員として活動している人もいる。私はテレビやスタジオで毎日働いていたので、あまり顔は知られていなくても、素晴らしい演奏をしているミュージシャンをたくさん知っていますし、音楽を人に教えることを仕事にしている人もいます。レジーは、そういったすべての人が自分の道を見つけ、ミュージシャンとしてあり続けられるように、技術や芸術性を次の世代につなげていくという考えを広める手助けをしてくれました。彼は、高校の教員として最初の年から、それを実践していたんです。
レジーは、私の1枚目『Prelusion』以来、エレクトラに移籍してからの最初の何枚かも共同プロデュースしてくれました。やはり私のアルバムのプロデューサーだったチャールズ・ミムズ Jr. も、同じ高校で、同じ時期にレジー・アンドリュースに学んだひとりです。
レジーは、高校にミュージシャンたちを招いて、話を聞く機会を作ってくれたので、私たちは本当に多くの演奏家と出会うことができました。これは、まだジャズが大学で教えられる前の時代の話です。彼は、自分の信念で「音楽の道にも可能性がある」ことを伝えようとしてくれていたんです。必要なのは、「うまくなりたい」という気持ち。だから私たちは、マイルス・デイヴィスやマイケル・ジャクソンと共演できるくらい上手くなりたいと願い、実際にそれを実現した仲間もいました。卒業後も、その想いは私たちの中で生き続けています。
実は、カマシのお父さんであるリッキーとは高校の同級生なんです。つまり、彼のお父さんもレジーの生徒でした。その息子であるカマシが、今では素晴らしいアーティストとして活躍している。だから当然、強い繋がりを感じます。サンダーキャットも同様です。彼の兄、ロナルド・ブルーナー Jr. は素晴らしいドラマーで、お父さんもドラマー。実は私、お父さん(ロナルド・ブルーナー Sr.)とも高校で一緒だったんです。つまり、レジーがすべてを繋いでくれた、ということですね。

レジー・アンドリュースとカマシ・ワシントン、カマシ公式Instagramより引用
―みんな同じコミュニティにいたんですね。
PR:最初に、EW&Fが高校でリハーサルしていたという話をしましたよね。あれは、レジーがモーリス・ホワイトと知り合いで、彼のバンドをサポートしていたからなんです(※EW&Fは1970年結成、デビュー直後の時期だったと思われる)。
レジーが提唱していたのは、「コミュニティとして、お互いの成長を支え合おう」という考え方でした。その精神があったからこそ、私たちはずっと続けてこられたんです。今でも私が一緒に演奏しているのは、昔からの仲間たちが多いですし、最近出会った若いミュージシャンたちと演奏するときも、アーティストどうし、コミュニティの一員として支え合い、刺激を与え合いながら、ベストを目指しています。それこそが、レジー・アンドリュースの考えそのものだと思っています。
―貴重な話をありがとうございました。今回、日本で13年ぶりにご自身の名義によるライブを開催されますが、どのようなステージになりそうでしょうか?
PR:そうなんです。これまで何度か日本を訪れてきましたが、他のアーティストに帯同する形がほとんどで、自分名義のライブではありませんでした。今回は誰かのゲストとしてではなく”私のショー”、ヒット曲の数々をお届けします。みなさんにとって馴染みのあるアレンジはそのままに、ライブならではのエネルギーを、耳で、目で、そして肌で感じていただけると思います。とても楽しみです!
2024年のフルライブ映像
パトリース・ラッシェン来日公演
2025年7月4日(金)・6日(日)ビルボードライブ東京
1stステージ:開場 16:30/開演 17:30
2ndステージ:開場 19:30/開演 20:30
>>>詳細・チケット購入はこちら
2025年7月7日(月)ビルボードライブ横浜
1stステージ:開場 16:30/開演 17:30
2ndステージ:開場 19:30/開演 20:30
>>>詳細・チケット購入はこちら
2025年7月9日(水)ビルボードライブ大阪
1stステージ:開場 16:30/開演 17:30
2ndステージ:開場 19:30/開演 20:30
>>>詳細・チケット購入はこちら

【Billboard Live注目公演】
The Blackbyrds 来日公演
2025年7月1日(火)・2日(水)ビルボードライブ東京(東京)
1stステージ:開場 16:30/開演 17:30
2ndステージ:開場 19:30/開演 20:30
>>>詳細・チケット購入はこちら
▼最新インタビュー
ブラックバーズが語るドナルド・バードからの学び、伝説的ジャズファンクバンドの名盤物語