1981年にリリースされた菊地雅章『ススト(Susto)』が、主要ストリーミングサービスで世界配信開始。アナログ盤も復刻され、改めて注目を集めている。
21世紀のはじまりに起こった再評価
戦後の日本のジャズの歴史を語る際、秋吉敏子や渡辺貞夫は不可欠だし、日野皓正、富樫雅彦、山下洋輔も高く評価されている。ただ、さまざまな記事を読んでいると、菊地雅章という人への評価はそれらとはどこか違って見えた。人気や評価というよりは「期待」に近い、明らかに他のミュージシャンとは異なる特別な感情を、多くの人が抱いていたように思える。
渡辺貞夫のバンドを経て、自身のリーダー作品でも大きな成功をおさめ、後にアメリカに移住。活動休止中のマイルス・デイビスとのセッション、ギル・エヴァンスとの録音、ポール・モチアンやゲイリー・ピーコックとの活動など、菊地雅章がアメリカのジャズ最前線で活躍していたことは、日本のジャズ史においても際立った成果のひとつだった。
そんな菊地雅章への期待は晩年まで続き(※2015年死去)、2012年にECMから『Sunrise』が出たときには大きな話題になった。菊地は何を見ているのだろう、何を考えているのだろう、菊地は次に何をやるのだろう──メディアもリスナーも、彼のやることに何かを聴きとろうと、何かを感じ取ろうと、真剣に菊地の音楽に向き合っていた。2000年ごろからジャズを聴き始めた僕は、そんな雰囲気が漂っていた中で菊地雅章の音楽を聴くようになった。
僕が最初に聴いたのは1981年のアルバム『ススト』だった。
その後まもなく、菊地成孔が率いるDATE COURSE PENTAGON ROYAL GAREDENの『アイアンマウンテン報告』が2001年に発表されたことで、『ススト』は僕らの世代にとっても、より身近なものとなっていく。菊地成孔はその音楽から多大な影響を受けただけでなく、『ススト』の冒頭に収録されている「サークル/ライン」を、「CIRCLE/LINE~HARD CORE PEACE」というタイトルでカバーしていた。彼のバージョンは、ポストパンクやフリーファンクを通過したような、荒々しくザラついた質感へと変貌していた。
2000年当時といえば、レディオヘッドが『Kid A』を、ディアンジェロが『Voodoo』を発表し、マッドリブやJ・ディラが頭角を現し始めた時期。日本ではゆらゆら帝国やナンバーガールが人気を集めていたころ。Pro ToolsなどのDAW(デジタル音楽制作ソフト)を駆使したサウンドと、温かみのあるアナログな音像という、一見相反する美学が共存していた時代だった。
70年代マイルスの継承と刷新
今でこそ『ススト』は、日本のジャズ屈指の名盤としての地位を確立しているが、改めて考えると、リアルタイムでは奇妙な立ち位置にあった作品なのではないかと僕は思っている。1981年に発表された『ススト』について書かれたテキストの多くは、当然のようにエレクトリック期のマイルス、つまり『Bitches Brew』(1970年)や『On The Corner』(1972年)との比較を前提として語られることが多い。
『ススト』に収録されている「ニュー・ネイティヴ」は、まさにその時期のマイルスのサウンドそのものだ。1978年ごろに菊地雅章がマイルス・デイビスとのセッション(公式な録音は無し)を行っていた経験が『ススト』に反映されていることもあり、変拍子やポリリズムといったリズム面を中心に、マイルス的要素の強調が目立つ。とはいえ、サウンド的に近いとされる作品群とは、約10年の隔たりがある。『Agharta』(1975年)でさえ、6年も前の作品だ。
そして1981年といえば、マイルス・デイビスが隠遁状態から復帰し、『The Man With The Horn』を発表した年でもある。80年代以降のマイルスは、マーカス・ミラーらを起用し、サウンドを大きく変化させたことでも知られる。復帰後のマイルスは、ちょうどプリンスが『Controversy』(1981年)をリリースしていたような、当時の同時代的なサウンドにアジャストしようとしていた。つまり、『ススト』と並べて語られる70年代のマイルスのサウンドは、すでに”ひと昔前のマイルス”ということになる。
1980年前後の状況をもう少し整理しておくと、ハービー・ハンコックは『Mr. Hands』(1980年)でポップなファンク路線を追求し、ジャコ・パストリアスは『Word of Mouth』(1981年)で独自の道を歩み、チック・コリアは『Three Quartets』(1981年)で、キース・ジャレットは『Standards』(1982年)でアコースティックなジャズの可能性を提示していた。1981年にはウィントン・マルサリスが『Wynton Marsalis』でデビューを果たし、アコースティック・ジャズの復権が語られ始めていた。ジャズのメインストリームの流れが大きく変わりつつあった時期でもある。また、同じころにジョン・ゾーンが頭角を現し始め、ポストモダン時代のアバンギャルド・ジャズが芽吹き始めていた。つまり、当時は激動の時代であり、明らかな変わり目でもあった。ジャズは、すでに『Bitches Brew』的な世界からは大きく遠ざかっていたのだ。
国内では、すでにカシオペアやT-SQUAREがデビューしており、1981年には高中正義が『虹伝説』をヒットさせている。ポップなフュージョン・サウンドがチャートを席巻し、Roland Jupiter-8やYamaha CS-80といったシンセサイザーによる、クリアで華やかな音作りが支持を集めていた。YMOでいえば、『BGM』や『テクノデリック』でサンプラー的な機材(LMD-649)やリズムマシン(TR-808)を駆使していた時期だ。機材面での進化が一気に進んだタイミングでもあった。
かと思えば、オーネット・コールマンのグループでギターを務めたジェイムス・ブラッド・ウルマーが、UKのラフ・トレード・レコーズから『Are You Glad To Be In America?』を発表し、1981年にはサックス奏者ジョン・ルーリー率いる、パンキッシュなジャズ・サウンドで注目を集めたグループ、ラウンジ・リザーズのデビュー作も世に出ている。トーキング・ヘッズの『Remain in Light』や、パブリック・イメージ・リミテッドの『The Flowers of Romance』が発表されたのもこの時期であり、エッジの効いたジャズやファンクが次々と登場していた。
つまり、70年代が終わり、一気に80年代のモードへとシフトしていた時期だった。そんな中、菊地雅章がニューヨークと東京の二拠点で、総勢20人以上のNYのトップ・プレイヤーを起用して制作したのが『ススト』だった。それは、70年代マイルス的なポリリズム・サウンドを、80年代的なクリーンで煌びやかな音響で鳴らすという試みだった。
80年代の東京ならではの近未来的サウンド
以下、『ススト』のプロデュースを務めた伊藤潔のインタビューを引用する(※シンコーミュージック刊『MILES : Reimagined 2010年代のマイルス・デイヴィス・ガイド』掲載、聞き手は柳樂光隆)
*
―『ススト』を提案したのは?
伊藤:プーさん(菊地雅章)からだね。彼はこのバンドで、自分のロフトで1年ぐらいリハーサルをやってた。78~79年ぐらいからリハーサルを始めたんじゃないかな。レコーディングは80年にやった。
―デモはあったんですか?
伊藤:ないね。僕はそのバンドのリハーサルを何度も聴きに行ってた。でもどうやって録るか、というのをまず考えたよね。プーさんは「このままの形でやらせてくれ」と。ヘッドフォンもなしね。
―基本的には、スタジオに入って、ひたすらセッションしてっていう?
伊藤:そう。メロディーがあるわけじゃない。グルーヴ・ミュージックだから。
―演奏を始めたら、そのまま延々とやってる感じですか?
伊藤:そうだったね。
―結構細かく編集してるんですか?
伊藤:うん、かなりハサミは入れてる。本当はもっと短くしたかったんだけど、これ以上は無理だった。あと、LPの時代だから、カッティングできるようにミックスしないといけない。針が飛んじゃうからね。それはエンジニアと随分やったよね。キックも随分踏んでるから。本当はツインドラムだから左右に置くとかしたいけど、キックを真ん中に置かないと絶対に針飛びするわけ。そういう制約もあったよね。
*
伊藤の話を踏まえると、制作プロセスに関しては、マイルスが70年代にプロデューサーのテオ・マセロと行っていた手法と同じであり、『ススト』はその点でかなり”マイルス的”であると言える。一方で、”マイルス的ではない”部分が少なくないことこそが、『ススト』を特別な作品たらしめている。
冒頭に収録された「サークル/ライン」にそれは顕著で、音の分離が非常によく、整頓されたクリーンなサウンドが特徴的だ。ここにこそ、マイルスとの明確な違いがある。『On The Corner』のような混沌や猥雑さは存在しない。また、マイルスはジミ・ヘンドリックスやスライ&ザ・ファミリー・ストーンのような、ロック的サイケデリアや暴力性に強く惹かれていたが、菊地の音楽はあくまでクールだ。「ニュー・ネイティヴ」では4人のギタリストがそれぞれ歪んだ音を奏でているが、それはロック的な激しさというよりも、音響的に”配置”された印象を与える。細部まで設計されたような美しさが、そこにはあった。
70年代マイルスのアルバム群、特に『Bitches Brew』などは音がくぐもっており、「音が良い」とは言い難かった。そのため、クラブのような環境にはあまり向いていなかった。クラブミュージックに影響を与えた作品ではあるが、実際にクラブでプレイされる音楽ではなかった。ただ、そのクリアではない、少しもやがかかったような、すべての楽器が混ざった状態で鳴っているような独特の質感が生み出す怪しげなフィーリングも、当時のマイルスの魅力のひとつとなっていた。
対して、『ススト』はきわめてクリアな録音で、すべての音が分離して聴こえる。だからこそ、クラブでも映える音になっていた。実際、『ススト』はクラブシーンでの再評価という文脈とともに語られてきた作品でもある。透明感すら感じさせる音像は、80年代の録音技術と、東京のCBS/Sonyスタジオでの精密なミックスによるものだろう。
構造が明確に見えるような音楽、音響の広がりやディテールの精密さ、そして洗練された神秘的な雰囲気。マイルスの音楽が夜の呪術的なサウンドだとすれば、『ススト』は都市的で近未来的、そして人工的な明るさを備えていた。録音地はニューヨークであっても、そこにはテクノロジーに彩られた都市・東京の気配が感じられる。
時代を先取りした日本的美意識と実験性
さらに、東洋的なニュアンスも、この神秘性を生み出す要因のひとつかもしれない。「サークル/ライン」では、旋律や音色の重ね方に、東洋的な笛や打楽器を思わせる響きがあり、それらが幻想的な風景を描き出している。
菊地雅章は、山本邦山との共演作『銀界』(1971年)、『End For The Beginning』(1973年)、『East Wind』(1974年)、さらには東風名義での『Wishes』などを通して、日本的な要素をジャズと融合させてきた。『ススト』は、その延長線上にある作品でもあるのではなかろうか。
『ススト』がクラブシーンで評価されたという話になると、DJクラッシュの「僕がやりたいと思っていた音楽を、マイルス・デイビスやプーさんは20年以上も前からやっている」という発言が必ずと言っていいほど言及されてきた。彼が菊地雅章に惹かれた理由として、自身も模索し続けている「日本的な表現」への共感もあったのではないかと思う。
そうした東洋的な要素を溶け込ませるために必要だったのは、マイルス的な生々しさを演出するザラっと歪んだ空間ではなく、クリーンで澄んだ、神秘的な空間だった。スペースを生み出すための、コントロールされ整然とした楽曲と演奏。そして、その空間がしっかり感じ取れるような、80年代的な立体感を持った録音とミックス。
「サークル/ライン」には、計算しつくされた美しさがある。「わびさび」「間(ま)」「余白」「引き算」といった、日本的な美意識を表す言葉がしっくりくる。そのような美しさは、『ススト』にしかないものだ。『ススト』のインナースリーブには、数多くのアーティストへの謝辞が記されている。その中には、日本的な要素を取り入れた音楽の先駆者である武満徹の名前も含まれていた。
後年の評価だけ見ると、『ススト』は大成功を収めたように思えるが、当時プロデュースを担当した伊藤潔は「あまり売れなかったし、リクープもしなかった」と語っている。伊藤は、その理由として「ラジオ向きではなかったこと」を挙げていたが、少なくともアメリカ市場においては、時代の潮流と合わなかったことや、エレクトリックなグルーヴ・ミュージックと東洋的な美意識が交差するという実験性が、まだ十分に受け入れられる環境にあったとは言い難かった。だからこそ、『ススト』はまず国内で評価され、本格的な国際的認知には、なお至っていないように思える。
一方で、近年では日本的な要素を盛り込んだ秋吉敏子の音楽が、世界的にその評価を高めつつある。そんな光景を見ていると、これから日本のジャズが再発見されていく過程で、どこかのタイミングで『ススト』が真に賞賛される日が来るかもしれないと思う。レコードでの再発や、各種ストリーミングサービスでの解禁が、そのきっかけになることを願っている。
菊地雅章
『ススト』
配信・アナログ盤LP購入:https://masabumikikuchi.lnk.to/sustoreissue
〈収録曲〉
1. サークル/ライン
2. シティ・スノー
3. ガンボ
4. ニュー・ネイティヴ
5. ガンボ (EDIT TAKE) ※配信のみ
6. サークル/ライン (EDIT TAKE) ※配信のみ
〈アナログ盤LP〉
【完全生産限定盤】
★STEREO
★オリジナル盤仕様(可能な限り忠実に再現 / 国内盤オリジナル帯再現)
★E式ジャケット
★180グラム重量盤
★国内カッティング、ソニー・プレス
★日本独自企画
★岡崎正通 / 塙耕記 監修
公式サイト:https://www.sonymusic.co.jp/artist/MasabumiKikuchi/
日野皓正を含む総勢17名ものバンドと作り上げた本作は、マイルス・デイビス譲りのポリリズムを、80年代東京のテクノロジーと日本的美意識で再構築した孤高の一枚。同時代のレゲエやダブ、ポストパンクとも共振し、90年代以降はクラブ・ミュージックの文脈でも再評価されてきた。今こそ再発見されるべき先進性を、ジャズ評論家・柳樂光隆に解説してもらった。
21世紀のはじまりに起こった再評価
戦後の日本のジャズの歴史を語る際、秋吉敏子や渡辺貞夫は不可欠だし、日野皓正、富樫雅彦、山下洋輔も高く評価されている。ただ、さまざまな記事を読んでいると、菊地雅章という人への評価はそれらとはどこか違って見えた。人気や評価というよりは「期待」に近い、明らかに他のミュージシャンとは異なる特別な感情を、多くの人が抱いていたように思える。
渡辺貞夫のバンドを経て、自身のリーダー作品でも大きな成功をおさめ、後にアメリカに移住。活動休止中のマイルス・デイビスとのセッション、ギル・エヴァンスとの録音、ポール・モチアンやゲイリー・ピーコックとの活動など、菊地雅章がアメリカのジャズ最前線で活躍していたことは、日本のジャズ史においても際立った成果のひとつだった。
そんな菊地雅章への期待は晩年まで続き(※2015年死去)、2012年にECMから『Sunrise』が出たときには大きな話題になった。菊地は何を見ているのだろう、何を考えているのだろう、菊地は次に何をやるのだろう──メディアもリスナーも、彼のやることに何かを聴きとろうと、何かを感じ取ろうと、真剣に菊地の音楽に向き合っていた。2000年ごろからジャズを聴き始めた僕は、そんな雰囲気が漂っていた中で菊地雅章の音楽を聴くようになった。
僕が最初に聴いたのは1981年のアルバム『ススト』だった。
大学の近くにあったジャズ喫茶の店主が、「エレクトリック期のマイルスが好きなら、これも気に入ると思うよ」とかけてくれた。初めて聴いたとき、日本人のミュージシャンがこんなアルバムを作っていたことに大きな衝撃を受けたのを覚えている。その頃の僕は、まだジャズを聴き始めたばかりの時期。エレクトリックというだけで新しいと思えた自分にとっては、刺激が強すぎた。JBLのスピーカーから大音量で流れるこのアルバムは、まるでテクノのように感じられたのを覚えている。『ススト』は、それまで自分が抱いていた”ジャズミュージシャンが作る音楽”というイメージを覆してくれた作品のひとつだったと思う。
その後まもなく、菊地成孔が率いるDATE COURSE PENTAGON ROYAL GAREDENの『アイアンマウンテン報告』が2001年に発表されたことで、『ススト』は僕らの世代にとっても、より身近なものとなっていく。菊地成孔はその音楽から多大な影響を受けただけでなく、『ススト』の冒頭に収録されている「サークル/ライン」を、「CIRCLE/LINE~HARD CORE PEACE」というタイトルでカバーしていた。彼のバージョンは、ポストパンクやフリーファンクを通過したような、荒々しくザラついた質感へと変貌していた。
2000年当時といえば、レディオヘッドが『Kid A』を、ディアンジェロが『Voodoo』を発表し、マッドリブやJ・ディラが頭角を現し始めた時期。日本ではゆらゆら帝国やナンバーガールが人気を集めていたころ。Pro ToolsなどのDAW(デジタル音楽制作ソフト)を駆使したサウンドと、温かみのあるアナログな音像という、一見相反する美学が共存していた時代だった。
そういった同時代性に加え、クラブミュージックとしての機能性さえも感じさせる菊地成孔のサウンドが媒介となり、菊地雅章の名盤は、ジャズマニアの枠を越えて一気に広がっていった。『ススト』は、和ジャズという文脈よりも以前に、ジャズの枠を超えて再評価が起こった、数少ない日本のジャズ作品のひとつだった。
70年代マイルスの継承と刷新
今でこそ『ススト』は、日本のジャズ屈指の名盤としての地位を確立しているが、改めて考えると、リアルタイムでは奇妙な立ち位置にあった作品なのではないかと僕は思っている。1981年に発表された『ススト』について書かれたテキストの多くは、当然のようにエレクトリック期のマイルス、つまり『Bitches Brew』(1970年)や『On The Corner』(1972年)との比較を前提として語られることが多い。
『ススト』に収録されている「ニュー・ネイティヴ」は、まさにその時期のマイルスのサウンドそのものだ。1978年ごろに菊地雅章がマイルス・デイビスとのセッション(公式な録音は無し)を行っていた経験が『ススト』に反映されていることもあり、変拍子やポリリズムといったリズム面を中心に、マイルス的要素の強調が目立つ。とはいえ、サウンド的に近いとされる作品群とは、約10年の隔たりがある。『Agharta』(1975年)でさえ、6年も前の作品だ。
そして1981年といえば、マイルス・デイビスが隠遁状態から復帰し、『The Man With The Horn』を発表した年でもある。80年代以降のマイルスは、マーカス・ミラーらを起用し、サウンドを大きく変化させたことでも知られる。復帰後のマイルスは、ちょうどプリンスが『Controversy』(1981年)をリリースしていたような、当時の同時代的なサウンドにアジャストしようとしていた。つまり、『ススト』と並べて語られる70年代のマイルスのサウンドは、すでに”ひと昔前のマイルス”ということになる。
1980年前後の状況をもう少し整理しておくと、ハービー・ハンコックは『Mr. Hands』(1980年)でポップなファンク路線を追求し、ジャコ・パストリアスは『Word of Mouth』(1981年)で独自の道を歩み、チック・コリアは『Three Quartets』(1981年)で、キース・ジャレットは『Standards』(1982年)でアコースティックなジャズの可能性を提示していた。1981年にはウィントン・マルサリスが『Wynton Marsalis』でデビューを果たし、アコースティック・ジャズの復権が語られ始めていた。ジャズのメインストリームの流れが大きく変わりつつあった時期でもある。また、同じころにジョン・ゾーンが頭角を現し始め、ポストモダン時代のアバンギャルド・ジャズが芽吹き始めていた。つまり、当時は激動の時代であり、明らかな変わり目でもあった。ジャズは、すでに『Bitches Brew』的な世界からは大きく遠ざかっていたのだ。
国内では、すでにカシオペアやT-SQUAREがデビューしており、1981年には高中正義が『虹伝説』をヒットさせている。ポップなフュージョン・サウンドがチャートを席巻し、Roland Jupiter-8やYamaha CS-80といったシンセサイザーによる、クリアで華やかな音作りが支持を集めていた。YMOでいえば、『BGM』や『テクノデリック』でサンプラー的な機材(LMD-649)やリズムマシン(TR-808)を駆使していた時期だ。機材面での進化が一気に進んだタイミングでもあった。
かと思えば、オーネット・コールマンのグループでギターを務めたジェイムス・ブラッド・ウルマーが、UKのラフ・トレード・レコーズから『Are You Glad To Be In America?』を発表し、1981年にはサックス奏者ジョン・ルーリー率いる、パンキッシュなジャズ・サウンドで注目を集めたグループ、ラウンジ・リザーズのデビュー作も世に出ている。トーキング・ヘッズの『Remain in Light』や、パブリック・イメージ・リミテッドの『The Flowers of Romance』が発表されたのもこの時期であり、エッジの効いたジャズやファンクが次々と登場していた。
つまり、70年代が終わり、一気に80年代のモードへとシフトしていた時期だった。そんな中、菊地雅章がニューヨークと東京の二拠点で、総勢20人以上のNYのトップ・プレイヤーを起用して制作したのが『ススト』だった。それは、70年代マイルス的なポリリズム・サウンドを、80年代的なクリーンで煌びやかな音響で鳴らすという試みだった。
80年代の東京ならではの近未来的サウンド
以下、『ススト』のプロデュースを務めた伊藤潔のインタビューを引用する(※シンコーミュージック刊『MILES : Reimagined 2010年代のマイルス・デイヴィス・ガイド』掲載、聞き手は柳樂光隆)
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―『ススト』を提案したのは?
伊藤:プーさん(菊地雅章)からだね。彼はこのバンドで、自分のロフトで1年ぐらいリハーサルをやってた。78~79年ぐらいからリハーサルを始めたんじゃないかな。レコーディングは80年にやった。
―デモはあったんですか?
伊藤:ないね。僕はそのバンドのリハーサルを何度も聴きに行ってた。でもどうやって録るか、というのをまず考えたよね。プーさんは「このままの形でやらせてくれ」と。ヘッドフォンもなしね。
少しだけオーバーダブはしてるけど、基本的にはスタジオライブ。アンプとかも含めて。当時プーさんはコルグとエンドースしてて、フェンダー・ローズとかも入れると24個キーボードがある。これを全部持っていくっていうわけ。リハーサルを見てても4つか5つしか弾いてないけど、『それはダメだよ、いつ弾くかわからないじゃない』って(笑)。仕方ないから、キーボード用のエンジニアを中に入れて調整した。トラックが足りなくなっちゃうからね。だからスタジオは4週間ロックアウト。
―基本的には、スタジオに入って、ひたすらセッションしてっていう?
伊藤:そう。メロディーがあるわけじゃない。グルーヴ・ミュージックだから。
―演奏を始めたら、そのまま延々とやってる感じですか?
伊藤:そうだったね。
曲名もついてないし。譜面もなし。それもプーさんのコンセプションだよね。ミックスは六本木のソニーにプーさんも来て2~3週間かけた。編集は俺にまかせてくれて。一回も文句を言わなかったよ。
―結構細かく編集してるんですか?
伊藤:うん、かなりハサミは入れてる。本当はもっと短くしたかったんだけど、これ以上は無理だった。あと、LPの時代だから、カッティングできるようにミックスしないといけない。針が飛んじゃうからね。それはエンジニアと随分やったよね。キックも随分踏んでるから。本当はツインドラムだから左右に置くとかしたいけど、キックを真ん中に置かないと絶対に針飛びするわけ。そういう制約もあったよね。
*
伊藤の話を踏まえると、制作プロセスに関しては、マイルスが70年代にプロデューサーのテオ・マセロと行っていた手法と同じであり、『ススト』はその点でかなり”マイルス的”であると言える。一方で、”マイルス的ではない”部分が少なくないことこそが、『ススト』を特別な作品たらしめている。
冒頭に収録された「サークル/ライン」にそれは顕著で、音の分離が非常によく、整頓されたクリーンなサウンドが特徴的だ。ここにこそ、マイルスとの明確な違いがある。『On The Corner』のような混沌や猥雑さは存在しない。また、マイルスはジミ・ヘンドリックスやスライ&ザ・ファミリー・ストーンのような、ロック的サイケデリアや暴力性に強く惹かれていたが、菊地の音楽はあくまでクールだ。「ニュー・ネイティヴ」では4人のギタリストがそれぞれ歪んだ音を奏でているが、それはロック的な激しさというよりも、音響的に”配置”された印象を与える。細部まで設計されたような美しさが、そこにはあった。
70年代マイルスのアルバム群、特に『Bitches Brew』などは音がくぐもっており、「音が良い」とは言い難かった。そのため、クラブのような環境にはあまり向いていなかった。クラブミュージックに影響を与えた作品ではあるが、実際にクラブでプレイされる音楽ではなかった。ただ、そのクリアではない、少しもやがかかったような、すべての楽器が混ざった状態で鳴っているような独特の質感が生み出す怪しげなフィーリングも、当時のマイルスの魅力のひとつとなっていた。
対して、『ススト』はきわめてクリアな録音で、すべての音が分離して聴こえる。だからこそ、クラブでも映える音になっていた。実際、『ススト』はクラブシーンでの再評価という文脈とともに語られてきた作品でもある。透明感すら感じさせる音像は、80年代の録音技術と、東京のCBS/Sonyスタジオでの精密なミックスによるものだろう。
構造が明確に見えるような音楽、音響の広がりやディテールの精密さ、そして洗練された神秘的な雰囲気。マイルスの音楽が夜の呪術的なサウンドだとすれば、『ススト』は都市的で近未来的、そして人工的な明るさを備えていた。録音地はニューヨークであっても、そこにはテクノロジーに彩られた都市・東京の気配が感じられる。
時代を先取りした日本的美意識と実験性
さらに、東洋的なニュアンスも、この神秘性を生み出す要因のひとつかもしれない。「サークル/ライン」では、旋律や音色の重ね方に、東洋的な笛や打楽器を思わせる響きがあり、それらが幻想的な風景を描き出している。
菊地雅章は、山本邦山との共演作『銀界』(1971年)、『End For The Beginning』(1973年)、『East Wind』(1974年)、さらには東風名義での『Wishes』などを通して、日本的な要素をジャズと融合させてきた。『ススト』は、その延長線上にある作品でもあるのではなかろうか。
『ススト』がクラブシーンで評価されたという話になると、DJクラッシュの「僕がやりたいと思っていた音楽を、マイルス・デイビスやプーさんは20年以上も前からやっている」という発言が必ずと言っていいほど言及されてきた。彼が菊地雅章に惹かれた理由として、自身も模索し続けている「日本的な表現」への共感もあったのではないかと思う。
そうした東洋的な要素を溶け込ませるために必要だったのは、マイルス的な生々しさを演出するザラっと歪んだ空間ではなく、クリーンで澄んだ、神秘的な空間だった。スペースを生み出すための、コントロールされ整然とした楽曲と演奏。そして、その空間がしっかり感じ取れるような、80年代的な立体感を持った録音とミックス。
「サークル/ライン」には、計算しつくされた美しさがある。「わびさび」「間(ま)」「余白」「引き算」といった、日本的な美意識を表す言葉がしっくりくる。そのような美しさは、『ススト』にしかないものだ。『ススト』のインナースリーブには、数多くのアーティストへの謝辞が記されている。その中には、日本的な要素を取り入れた音楽の先駆者である武満徹の名前も含まれていた。
後年の評価だけ見ると、『ススト』は大成功を収めたように思えるが、当時プロデュースを担当した伊藤潔は「あまり売れなかったし、リクープもしなかった」と語っている。伊藤は、その理由として「ラジオ向きではなかったこと」を挙げていたが、少なくともアメリカ市場においては、時代の潮流と合わなかったことや、エレクトリックなグルーヴ・ミュージックと東洋的な美意識が交差するという実験性が、まだ十分に受け入れられる環境にあったとは言い難かった。だからこそ、『ススト』はまず国内で評価され、本格的な国際的認知には、なお至っていないように思える。
一方で、近年では日本的な要素を盛り込んだ秋吉敏子の音楽が、世界的にその評価を高めつつある。そんな光景を見ていると、これから日本のジャズが再発見されていく過程で、どこかのタイミングで『ススト』が真に賞賛される日が来るかもしれないと思う。レコードでの再発や、各種ストリーミングサービスでの解禁が、そのきっかけになることを願っている。

菊地雅章
『ススト』
配信・アナログ盤LP購入:https://masabumikikuchi.lnk.to/sustoreissue
〈収録曲〉
1. サークル/ライン
2. シティ・スノー
3. ガンボ
4. ニュー・ネイティヴ
5. ガンボ (EDIT TAKE) ※配信のみ
6. サークル/ライン (EDIT TAKE) ※配信のみ
〈アナログ盤LP〉
【完全生産限定盤】
★STEREO
★オリジナル盤仕様(可能な限り忠実に再現 / 国内盤オリジナル帯再現)
★E式ジャケット
★180グラム重量盤
★国内カッティング、ソニー・プレス
★日本独自企画
★岡崎正通 / 塙耕記 監修
公式サイト:https://www.sonymusic.co.jp/artist/MasabumiKikuchi/
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