パンデミックによりライブ・ミュージック業界が完全にストップした2020年。ブルース・スプリングスティーンは、自宅でたくさんの自由時間を手にしている自分に気づいた。その時間を有効に活用することにした彼は、膨大な量の未発表音源を吟味し、1983年から2018年の間にお蔵入りになっていた完成状態のアルバムを7作引っ張り出し、『トラックスII』としてパッケージにまとめた。大半のコア・ファンも一切聴いたことがない、驚異の未発表曲が74曲収録されている(全83曲収録)。
「これらをひとつのグループとして見てみると、俺が今まであまり深く掘り下げてこなかったタイプのジャンルだね」。スプリングスティーンはフロリダ州ウェリントンの自宅からZoom越しにそう語り、アルバム群がウェスタン・スウィングからバート・バカラックにインスパイアされた60年代のポップまであらゆるものを網羅していることを強調する。「みんな色々規格外だった。さてどうするか? 俺にはわからない。ということで、こういう形で問題を解決したんだ」。
これらの曲は90年代に録音されたものの割合が高い。1992年から2002年にかけてスプリングスティーンがリリースしたスタジオ・アルバムが1995年の『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』わずか1作だったため、彼にとって「失われた期間」と見なされることの多い時期である。
話題が多岐にわたるインタビューの中で、スプリングスティーンは『トラックスII』を深く掘り下げ、『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』にまったく満足していなかったことを説明し、来年のリリースに向けて新作ができていることを明かし、伝説となった『ネブラスカ』エレクトリック版のテープについて新事実を暴露し、今もアメリカを信じていることについて説明している。
ミニ・ドキュメンタリー『インサイド・トラックスII:ザ・ロスト・アルバムズ』(日本語字幕付き)

『トラックスII:ザ・ロスト・アルバムズ』(展開写真)
★DISC1『LAガレージ・セッションズ83』:『ネブラスカ』と『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を繋ぐ、ローファイ・サウンドを探求した作品
★DISC2『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア・セッションズ』:グラミー賞・アカデミー賞を受賞。ドラム・ループとシンセサイザーによるサウンドに挑戦
★DISC3『フェイスレス』:未完の映画のために制作されたサウンドトラック的アルバム
★DISC4『サムウェア・ノース・オブ・ナッシュヴィル』:ペダル・スティールを含む小編成のカントリー・バンドによる編成
★DISC5『イニョー』:国境をテーマにした物語を豊かに描く、マリアッチ的サウンドを含む作品
★DISC6『トワイライト・アワーズ』:オーケストラ主体。20世紀半ばのフィルム・ノワールやバート・バカラックを想起させるサウンド
★DISC7『パーフェクト・ワールド』:アリーナ・ロック仕様のEストリート・バンドらしい力強い楽曲群
『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』に満足できなかった理由
―ボックス・セットは『LAガレージ・セッションズ83』で始まりますね。あなたが『ネブラスカ』と『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の間にアルバムをまる1枚レコーディングされていたとは、誰も知りませんでした。
BS:『ネブラスカ』のレコーディングやそれにまつわる経験が楽しかったから、その流れを汲んだものを少人数のリズム・セクションでやってみたいと思ったんだ。あれと同じとてもローファイな曲を新しく一揃いね。当時は『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』で自分がどこに向かっているのか確信が持てていなかった。アルバムは半分できていたけど、もう半分がまだだった。そんな訳で、その2作の間にできたのがこれということだ。

『LAガレージ・セッションズ83』ジャケット写真
―『ネブラスカ』以前はスタジオの外でアルバムを録音したことがありませんでしたね。大きな解放感があったのでは。
BS:人がずっと少なかったから、ずっと実験的になったね。スタジオに行くとバンドもみんないるし、プロデューサーもみんないる。とても秩序だった環境だから、ある意味保守的になってしまう傾向がある自分に気づいたんだ。そんな訳で、『ネブラスカ』はその限界を突き破った。それまでのレコーディング・プロセスになかったリスクの要素を取り入れたんだ。
―あなたはライナーノーツの中で『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』には「満足していなかった」、ご自身の他のアルバムのようには自分に「結びついて」いなかったと語っています。それはなぜでしょう。
BS:あれは俺が出したアルバムだった。俺が作ったアルバムにはなったけれど、必ずしも俺が作ることに興味があったアルバムではなかったんだ。俺は『ネブラスカ』を受け継ぐ、どこかしら似た感覚のフル・アルバムを作ることに興味があった。「マイ・ホームタウン」と「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を聴いてもらえればわかるだろう。あれが、俺が意図したブックエンドのようなものだったんだ。残りの曲は……単に、当時手元にあった曲だね。俺が書いた曲だった。俺がレコーディングした曲だった。
着想から制作まで、これは必ずしも計画通りのアルバムではなかったけれど、クリエイティビティというのはそういうものだからね。スタジオに入る。アイデアを持っている。でも、必ずしもそれ通りに完成する訳じゃない。つまりあのアルバムが俺にとって個人的にそういう状況にあっただけのことなんだ。
―そうおっしゃるとは少し驚きました。私はかねてから、『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』はレーガン政権下のアメリカで置き去りにされた様々な人々からのメッセージとして聴いていました。リスナーからは一体感があるように感じていたのですが。
BS:他の人たちにとってもそうだったんじゃないかな。恐らく俺はもっとダークなものを求めていたんだと思う。でもそれを別とすれば、あのアルバムには『ネブラスカ』のテーマが入っている。「ダウンバウンド・トレイン」にね。
―「ハングリー・ハート」以降、『ネブラスカ』のような曲はあまり書かないように、もっとラジオ・フレンドリーな曲を書くようにとのレーベルからのプレッシャーは感じましたか。
BS:いや。契約してから長年の間、ソニーとの関係についてはラッキーなんだ。俺がやりたいことそのもの以外のものをやるようなプレッシャーを受けたことは一度もないよ。
―「ザ・クランズマン」はぞっとする感じの曲ですね。極悪人の視点から書いているということで。
BS:俺は時々そういうことをやるんだ。あれは『ネブラスカ』的だったし、中でも特にリスキーな選択だった。俺は(クー・クラックス・)クランのメンバーを代弁して歌っているんだ。憎しみと毒性というものが世代から世代へと受け継がれることについての曲だね。
「ザ・クランズマン」:『LAガレージ・セッションズ83』収録
ドラム・ループの真意
―あなたのアルバム『ヒューマン・タッチ』と『ラッキー・タウン』について少しお聞きしたいと思います。
BS:一般にファンサイト上で、『ヒューマン・タッチ』は特にあまりリスペクトされない作品なんだ。実は自分は結構好きなんだけどね。「ロール・ザ・ダイス」「ヒューマン・タッチ」「リアル・ワールド」のような素晴らしい曲もいくつかある。思うにみんなプロダクションに疑念があったんじゃないかな。もしかしたら彼らは正しかったのかもしれないし、もしかしたら正しくなかったのかもしれない。俺にはわからないけれど、それが現実なんだ。
そんな訳で、俺は事実を何となく軽視していたきらいがある。実際『ラッキー・タウン』は大体自分の思い通りにできたし、とてもいいアルバムだと思っている。でも世間での受け入れ方から軽視していたんだ。
それから、Eストリート・バンド抜きでレコーディングしたことも、多くのファンの受け止め方に影響を与えた気がするんだ。それも理由だった。アルバムのタイミングも良くなかったと言えるね。
―『トラックスII』にはドラム・ループ中心にまる1枚書かれたアルバムがありますね。あのサウンドにあなたを惹き込んだのは何だったのでしょうか。
BS:「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」だね。あの作品では小さなドラム・ループを作ったんだ。それの効果が気に入った。当時曲を書くのに使われ始めていたシンセサイザーと相乗効果があったから、その後で自然な流れとして「今度はシンセサイザーとドラム・ループのサウンドを基盤にアルバムをまる1枚作ってみよう」と思ったんだ。そしてその通りにしたという訳だ。
「ブラインド・スポット」:『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア・セッションズ』(『トラックスII』DISC2)収録
―ループはどのように作ったのですか。
BS:自分で作ったものもあったし、エンジニアが持ってきたCDを聴いてみて俺が「ああ、今のはクールだな」とか「今のはクールだな。トライしてみよう。それに合わせて書いてみるよ」とか言ったものもあったね。
―過去にはあなたの「ヒップホップ・アルバム」とファンに呼ばれていましたが、まったくの誤称ですね。
BS:ああ、そういうものではないね。確かにドラム・ループは使っているけど。ドラム・ループを耳にして、ヒップホップだと短絡的に思ったんだろう。でもそうじゃない。要はループとシンセサイザーを使ったアルバムなんだ。

『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア・セッションズ』ジャケット写真
―ドラム・ループはどのようにライティングのプロセスを変えましたか。
BS:ドラム・ループはトランスっぽいことに気づいたんだ。そんな訳で、あのアルバムの楽曲の多くは少しトランスっぽいというか、とてもドリーミーな感じになっている。シンセサイザーとループのコンビネーションが、ある種のダークでドリーミーなサウンドを生み出したんだ。それがアルバムにはかなり多く入っている。
―どうしてお蔵入りになったのでしょうか。
BS:ボブ・クリアマウンテンがミックスしてくれたものを自宅に置いてあった。曲順を決めるプロセスの途中だったけど、どうにも正しい曲順にできなくてね。それで……俺はこの50年来ファンと会話を続けてきていて、できる限り尊重しようとしている。その会話を尊重する方法のひとつが、コンテクストをオープンにしておくようにすることなんだ。それで俺は「うーん、まいったな、俺にはわからない」と言った。人間関係のアルバムを3作書いた後で、このアルバムの性質については「どうにも確信が持てない。これは今出すには閉鎖的過ぎるんだろうか? 今が出し時なのか?」と思った。俺にとってアルバムのリリースの多くはタイミングありきなんだ。これは良くも悪くもタイミングがいいと思えなかったアルバムのひとつだね。
―歌詞の内容は多くがかなりダークですね。あなたの人生ではすこぶるハッピーだった時代だったことから鑑みるに興味深いです。
BS:ああ、合わないね。人は、ソングライターがいつも自伝的なものを書いていると思う傾向がある。俺の場合は当然そうではない。頭の中で完全に違う地形を行くことがある。書き甲斐があると思える文脈を掘って、しばらくその文脈に取り組むんだ。
90年代にグランジを「取り入れなかった」理由
―『サムウェア・ノース・オブ・ナッシュヴィル』は『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』と同じ頃に作られましたね。一体どうやって?
BS:あれは午後にレコーディングしたことが多かったね。よりダークな『トム・ジョード』は夜にレコーディングしたんだ。両方が同じアルバムの一部になると思っていた。
―片方しかリリースできないと気づいたのはどのように?
BS:それは、「レポ・マン」を聴いてもらえれば明らかだね。「ストレート・タイム」の後ろ盾にはならない。だから、自分が2作のアルバムを作るプロセスにいることがかなり早く明らかになった。それに、2枚組または1枚ものにまとめようとしたときも、どうにもうまくいかなかったんだ。それで、組み合わせてうまくいく楽曲まで素材を削ぎ落とした。それがアルバム『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』だったんだ。
「レポ・マン」:『サムウェア・ノース・オブ・ナッシュヴィル』(『トラックスII』DISC4)収録
―この作品ではマーティ・リフキンが素晴らしい仕事をしていますね。
BS:マーティ・リフキンは凄腕のスティール・ギタリストだ。国内でも絶対的ベストのひとりだね。彼とは「シーガー・セッションズ」ツアーで一緒だったんだ。このアルバムには大々的に参加しているよ。本物の秘蔵ものだね。とてつもないミュージシャンで、素晴らしい男で、『サムウェア・ノース・オブ・ナッシュヴィル』では前面に出て実力を見せつけてくれているんだ。

『サムウェア・ノース・オブ・ナッシュヴィル』ジャケット写真
―大半は90年代に作られた音楽ですが、このアルバムからはまったく「90年代」のサウンドが聞こえてきませんね。同輩たちの多くはグランジやオルタナティブの要素を取り入れていましたが、あなたは当時のトレンドに近づきすらしなかった。
BS:自分は自分だと俺は思っているんだ。そしてトレンドを追いかけることは、そもそも俺にとっては、俺自身にまったく合ったことがなくてね。どうにも俺のやり方じゃないんだ。俺は内から外に出すタイプで、外から内に取り込むタイプじゃないから。そしてそれが自分の音楽に強さとパーソナルさを与えていると俺は考えているんだ。
―それは音楽が特定の時代という琥珀に閉じ込められていないことを意味します。
BS:「レーシング・イン・ザ・ストリート」を『トム・ジョード』やそれ以降に書いてきたどの曲と合わせてもすんなり合うからね。そんな感じで、俺は昔から、時代を超越したテーマについて書きたいと思ってきたんだ。家庭、仕事、スピリチュアリティ、愛、セックス、常に人々の生活の中にあるものをね。そして俺はその路線をずっと踏襲してきた。今もね。それにさっきも言ったけど、俺は内から外に出すタイプだから。
―『イニョー』のマリアッチ・サウンドに惹かれたきっかけは?
BS:90年代初期、俺たちは農場を所有していてね。その頃俺はメキシコを舞台にした曲を2、3書いていて、当時のアシスタントがディテールのリサーチを時折手伝ってくれていた。彼が「僕の住むニュージャージーのアパートの上の階に、チャロ(メキシコのカウボーイ)が引っ越してきたよ」と言うんだ。俺が「本当に?」と言うと、彼は「ああ。ニュージャージー出身の女の子がメキシコに行って、1994年の全メキシコ選手権に出たチャロに出逢って、彼を連れてニュージャージーに戻ってきたんだ。いやぁ、今まで出会った中でも指折りにすごい馬乗りでロープ使いだよ」と。
それで俺は「じゃあ、彼を家に連れてきてくれ」と言った。そうして彼が家に来て、最終的には5年間俺と農場で作業するに至ったんだ。彼は俺たちに馬の乗り方や、ロープの使い方やコツについても少し教えてくれた。
とてつもなく素晴らしい男だったよ。収穫パーティをやるときはいつも「実は素晴らしいマリアッチのバンドと知り合いなんだ」と言うから「連れておいで」と言っていた。すると彼が連れてきた、とてつもなく素晴らしいマリアッチ・バンドがうちの収穫パーティで演奏してくれていたんだ。そんな感じで、自然とあの手の音楽に夢中になっていった。それと俺の手元にあったいくつかの曲がアルバムに合いそうな気がしたから、それで収録されることになったんだ。
「アデリータ」:『イニョー』(『トラックスII』DISC5)収録

『イニョー』ジャケット写真
―このアルバムはリリースにどのくらい近づいたのですか。
BS:それほどは近づかなかったね。『デヴィルズ&ダスト』は(この時代からのいくつかの曲とともに)確かに出したけれど、まだ膨大な素材が残っていたんだ。いい曲だったことはわかっていた。これもまた、タイミングが合っていなかったから、保管室に置いていた。という訳で、パンデミックになって時間ができてアルバムにまとめるまではそのまま置いてあったんだ。
90年代の自分自身を振り返る
―『パーフェクト・ワールド』には、ジョー・グルシュキー(Joe Grushecky)と一緒に書いた曲がたくさんありますね。あなたがコラボレートした数少ないソングライターのひとりですが、彼に惹かれた理由は?
BS:そうだね、彼の曲は以前から好きだったし、ルーツに何かしら共通のものがあると感じていたんだ。労働階級出身だし、彼はそのことについてたくさん書いていたからね。それにジョーはとにかくものすごく粘り強いんだ。彼はただ何気なく歌詞を送ってくる。確か大半は彼がレコーディングできるように俺が曲を書いたんじゃないかな。俺は彼のアルバム(『アメリカン・バビロン』)をプロデュースしたからね。そんな訳で、彼が歌詞を送ってきて、俺が曲をつけて、送り返していた。
彼はとにかく粘り強い男で、俺たちはとても親しい友人になった。今も続いているよ。あまりたくさんライティングを共にしたことはないけど、いくらかはやった。いつも楽しいんだ。俺は他人と曲を書かない傾向があるけどね。
「レイン・イン・ザ・リヴァー」:『パーフェクト・ワールド』(『トラックスII』DISC7)収録

『パーフェクト・ワールド』ジャケット写真
―Eストリート・バンドの再結成ツアーの終盤、あなたは新曲をセットリストに取り入れていました。「アメリカン・スキン」「ランド・オブ・ホープ・アンド・ドリームズ」、それからジョーと一緒に書いた「コード・オブ・サイレンス」などです。2000年前後にEストリート・バンドのアルバムを計画していたのでしょうか。
BS:再結成ツアーが終わって、俺が次に考えたのは、「よし、バンドを続けるのであればアルバムを作らないといけないな」だった。「アメリカン・スキン」と「ランド・オブ・ホープ・アンド・ドリームズ」、他2、3曲を携えてスタジオに入ったのは確かだ。レコーディングも確かに少しやったけれど、どうにもいいものにならなかった。
何年も使ってきたプロダクション・チームだったし、やろうとしていたことをやり終えたけれど、新鮮なアイデアをもたらしてくれて、その時代にもっと合ったサウンドを与えてくれる他の誰かに来てもらう時機が来ていたんだ。
それはもちろんブレンダン・オブライエンだった。当時も今も凄腕のプロデューサーで、素晴らしい男だ。彼との作業は素晴らしい時間だったよ。彼は俺たちにモダンな録音を与えることに、本当に深く貢献してくれた。その後、俺はロン・アニエッロとも仕事をした。彼もまた驚異的なプロデューサーで、素晴らしい男だ。彼も当時からずっとね。ブレンダンと仕事をするようになると、曲が次々と生まれて、そこから『ザ・ライジング』ができた。その後の『マジック』『ワーキング・オン・ア・ドリーム』もね。彼は『デヴィルズ&ダスト』を仕上げるのも手助けしてくれたんだ。
―今回の他のアルバムとは違って、『パーフェクト・ワールド』は当時完成していなかったアルバムだったのですよね。
BS:そう、あれはアルバムとして作らなかったやつだね。単に音源として持っていて、どこに向かうかわかっていなかったんだ。それでこのプロジェクトのことを考えついたとき、「何てこった。音源はたくさんあるけどロック・ミュージックはないな。俺にはロック・ミュージック・ファンが少なからずいることはわかっているのに」と思って「じゃあ、何かまとめてみようか」と考えた。それであの音源を選んで、手持ちの音源をアルバムにまとめたんだ。
―90年代当時にこれらのアルバムを一切出さなかったことについて後悔はありますか。
BS:まあ、このプロジェクトで全部一度に出すのは楽しいよ。普通じゃないことだしね。それに、実はこのコンテクストでこれらを出すことが正しいと信じているんだ。だから後悔はないね。ないよ。
―90年代の時点で、もしかしたらキャリアが消え去ってしまいそうで自信を失い始めたことはありましたか。
BS:そうでもないね。俺はかねてからこう言っていたんだが……(70年代半ばの)大きな裁判の最中でも、「そうか。まあ、誰かに出版権を奪われて、誰かにアルバムや曲や、そこから生まれたカネを取られることはあるだろうけど、俺はアメリカのどこでも、あるいは世界の大体どこでも、飛行機から放り落とされてもちゃんと着地して、最寄りのロードハウス(訳注:居酒屋。ライブができるところもある)を見つけて、誰かの夜を照らすんだ」と思っているよ。
そういう考えが俺の中にはある。決して失うことはできない。そんな感じで、90年代の間も俺はそれを理解していた。ジョン・ランダウともある時点でそういう話をしたよ。俺が「何てこった、今回のアルバムもあまり成功しなかったな。ジョン、今はとにかく俺たちの時代じゃないんだよ。他の誰かの時代なんだ」と言ってね。長いキャリアを持とうとするのであれば、そりゃ、自分にとっていい時代もあれば、そうでない時代もあるさ。それを容認して、とにかく続けること、取り組み続けることだ。
―『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の時代が単に大きくなりすぎたと少しでも思ったことはありますか。あのアルバムからは7曲のヒットが出て、あなたはマイケル・ジャクソンに近いくらいビッグな存在になりました。赤い帽子、ブルー・ジーンズ、そして星条旗があなたを象徴するイメージになり、今日まで多くの人々に残っています。
BS:それを続けることには興味がなかったね。あの頃、俺は成功したけれど、また同じ馬を捕まえに行くことには興味がなかったんだ。いつも「まあ、あれはひとつのことだった」と見ていて、すぐにシンガー・ソングライターのルーツに戻って『トンネル・オブ・ラヴ』を書いた。だからあれが自分のキャリアになるなんていう幻想はまったく抱いていなかったんだ。
それに、あれを自分のキャリアにしたいという欲も特になかったし、アルバムの売り上げが減る心配もしていなかった。そもそもあんなに売れるなんて思っていなかったからね。
だから、単に興味深い時機だったってことだ。チャレンジングだった。あの時期は概ね素晴らしい時間を過ごした。俺のモノマネをする人は今もあのお約束の服装をする。俺のショウでも今でも見かけるよ。20代の若者がバンダナとノースリーブのシャツを着てやってくるのを見かけるんだ。今となってはチャーミングだし、後悔も一切していない。素晴らしい経験だったよ。ただ、自分でキャリアと見なしていたものではなかったね。
―そして、その後はそれ以上大きくなるすべもありませんでした。あなたは賢明にも、大きくしようとすらしなかった。
BS:俺のスタンスとしては、ビッグになることに興味を持ったことがなかったんだ。いつも深みを目指すことに興味を持ってきた。そうやってキャリアを歩んできたんだ。
【インタビュー後編】
ブルース・スプリングスティーンが語る『ネブラスカ』の新事実、今もアメリカを信じている理由
※2025年7月2日(水)17時公開予定
From Rolling Stone US.

ブルース・スプリングスティーン
『トラックスII:ザ・ロスト・アルバムズ』
2025年7月2日(水)リリース
再生・購入・特設ページ:https://sonymusicjapan.lnk.to/TheLostAlbumsAW
7CD超豪華ボックス・セット 日本プレスBSCD2
完全生産限定盤 輸入盤国内仕様 2000セット限定
●ブルース・スプリングスティーン本人とエリック・フラナガンによるライナーノーツ
●100P布装豪華ハードカバー本
●英文ブックレット翻訳&日本版ライナーノーツ:五十嵐正
●対訳&訳者ノート:三浦久

※『ロスト・アンド・ファウンド~ザ・ベスト・オブ・トラックスII』(1CD/2LP)
未発表ボックスから20曲を抜粋したハイライト集
2025年6月27日(金)リリース

映画『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』
2025年11月14日(金)全国公開
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
(C)2025 20th Century Studios