マーカス・ブラウンは、ニューヨーク・ソーホーにあるXLレコーディングスのリスニングルームの隅に置かれたソファをじっと見つめている。革の縫い目を観察し、クロームのフレームを確認したあと、すぐに広報担当者に「これって売り物ですか?」と尋ねた。「僕のアパートにあるのはは正直あんまりなんだけど、これなら気分がいい」と、Nourished By Timeとして活動するブラウンは語る。2023年のデビュー作『Erotic Probiotic 2』をリリースして以降、彼は街から街へと転々とし、昨年の大半をトロ・イ・モアとのツアーで過ごした。そして今、彼はニューヨークの最新アーティスト拠点、クイーンズのリッジウッドに腰を落ち着けたことに安堵している。8月22日リリースの2ndアルバム『The Passionate Ones』に向けた準備を進めながら、頭の中では新居のインテリアを思い描いている最中だ。「このラグも持って帰っちゃおうかな」と彼は冗談めかして言う。
昨年、31歳のソングライター/プロデューサー/マルチ奏者である彼は、黙示録的なラブ・バラード「Hell of A Ride」で文化的な時代精神に触れた。この楽曲はEP『Catching Chickens』に収録され、複雑な拍子構成と未来的な和声進行によってNPRの2024年ベスト・ソングに選出された。ストリーミングを徹底的に嫌うブラウンだが、「Hell of a Ride」はSpotifyで400万回の再生数を記録し、同アプリのエディターによる年間ベスト・ソングのひとつにも選ばれた。「今の僕なら、あんなに忙しない曲は絶対に書かない……自分が本当に作ろうとしていた音楽を示すものでもない」と彼は語る。「『Hell of a Ride』はコードが多すぎて、今ではむしろ腹が立つくらいなんだ」
洗練された楽曲をインディーのヒットへと昇華させるブラウンの能力は、彼の音楽的才覚の証でもある。
しかし彼を動かしたのは”ポップの王”だけではない。「スラッシュがギターを弾いている姿を見て、『うわ、めちゃくちゃカッコいい』って思ったんだ」と、元ガンズ・アンド・ローゼズのギタリストについてブラウンは振り返る。「そこからずっとYouTubeを漁って、やがてジミ・ヘンドリックスを知った瞬間、すべてが決まったんだ」
音楽的覚醒を果たしたブラウンはすぐに家の地下室へ向かい、父親のアコースティック・ギターをこっそり弾き始めた。しかし弦を1本切ってしまったことで秘密はすぐに露見した。「父が切れた弦を見つけて『ギターやりたいのか?』って聞いてきて、ギターを買いに連れて行ってくれたんだ。そこからレッスンも受けて、それ以来、1日たりともギターを弾かない日はないよ」
マーカス・ブラウンを形作った3つの名義
Nourished By Timeとして活動する以前、バークリー音楽大学を卒業したブラウンは、2つの別名義で音楽を発表していた。大学時代は授業をサボってまで、”実験的”プロジェクトのRiley with Fireに打ち込んでいたという。卒業後、地元ボルチモアのバーンズ&ノーブルで働きながら稼いだ給料を元手にロサンゼルスへ滞在し、その間はMother Marcusという名義で作品をリリースした。
「本名は絶対に使いたくなかったんだ。自分の名前は死ぬほど退屈だと思ってたから」とブラウンは言う。
ブラウンにとってRiley with Fireは、作曲とプロデュースを学ぶための学校のような存在だった。一方Mother Marcusは彼自身の内面的な抗議であり、その名義で発表したのはわずか2曲だけだった。「当時の僕は本当に迷っていた。自信も希望も失っていたし、ストリーミングの世界もまったく理解できなかった。だから音楽を発表できなかったんだ」と彼は語る。現在では多くのプロジェクトがストリーミングで聴けるようになっているものの、ビジネスモデルに納得できたことは一度もないという。ただし、自分の作品を託す器が必要だということには気づいた。
「自分を外に出せていないことが何よりも苦しかった。停滞していたし、自分自身にもっと応えるべきだと思ったんだ」そうした負債を返すかのように生まれたのが、3つ目にして現在のペンネームである。「Nourished By TimeはMother MarcusとRiley with Fireを飲み込んで、よりシンプルで効率的になったんだ」と彼は言う。「あの頃のプロジェクトをやっていた時よりも、今の僕は自分自身をはるかによく理解している」

Photo by Adali Schell for Rolling Stone
ブラウンは現時点で「Nourished By Time」という名前に満足している。
彼はNourished By Timeを音楽だけにとどまらない存在として構想しており、写真、映像、パフォーマンスアートへと広がるマルチメディアの入り口にしたいと考えている。「僕は億万長者になるためにこの業界にいるわけじゃない。家族を養って、家を買って、ビジネスを始められるくらい快適に暮らせるお金があれば十分なんだ」と彼は言う。その目標のひとつには、ブラック・コミュニティのための食料品店を立ち上げることや、人々が資本主義に抗うためのストライキを後押しするアプリの開発があるという。「いわば”ストライキ版のGoFundMe”みたいなものだよ。人々がストライキに踏み切れない最大の理由は、単純に生活費が払えなくなるからだと思うんだ」
ポストR&Bを実践した挑戦作
最新作『Passionate Ones』は、ブラウンが抱く現実社会へのまなざしを映し出した作品だ。完全にセルフ・プロデュース/セルフ・ライティングで作られた本作には、シングル曲「9 2 5」のように、働くために生き、生きるために働くというハムスターの回し車のような日常を、ブラウンの艶やかな声で描き出す楽曲が収められている。
「BABY BABY」では、パレスチナでの爆撃の可能性とボルチモアのショッピングモールが爆撃される可能性を重ね合わせ、「どこで誰にでも起こり得る」という感覚を提示する。そして「Its Time」には審判の日のテーマが込められており、罪と救済の選択ではなく、現状維持を選ぶのか、それともこの世界のシステムや”支配者”からの自由を選ぶのか――その二択が歌われている。
最新アルバムのテーマは重く感じられるかもしれないが、どの曲も「愛を見つける希望」によって世界の苦悩を拭い去ろうとしている。これはまさにブラウン自身が自らの音楽を「ポストR&B」と形容するのにふさわしい。そこにはSWVに影響を受けたボーカルアレンジや、ジョデシィ(90年代を代表するアメリカ出身のR&Bグループ)触発された”パッション”が込められている。
「『Passionate Ones』は、そうしたサウンドを取り入れて、いじって、もっと奇妙にして、ある意味で裏返そうとした作品なんだ」と彼は語る。そしてポストR&Bというジャンルの開拓者として、プリンス、フランク・オーシャン、ソランジュらの名前を挙げる。「ポストロックとかポストパンクっていう言い方はよく耳にするけど、ブラックミュージックに関して”ポスト”が語られることってほとんどないだろう?」
タイトル曲のような一部の楽曲を除き、ブラウンはロンドン、ボルチモア、ニューヨークを行き来する合間の1カ月ほどでアルバムの大半を仕上げたという。本作には彼にとって初めてのサンプリングの試みもあり、ソングライター/詩人ラブリ・シフレの「Saved」を楽曲「Max Potential」で使用している。シフレが”妥当な価格”でサンプルの使用を承認してくれたことについて、ブラウンは「彼はこの曲を信じてくれたんだ」と語る。「もともと彼の音楽が大好きだったけど、同じブラック・アーティストがブラック・アーティストを支えてくれたことに本当に感謝している」
また、このアルバムは「他のアーティストとのコラボレーションなしで作る最後の作品になるだろう」とも語る。「こうした形で2枚のアルバムを出すことは、自分が高いレベルでやれることを証明するうえでどうしても必要だったんだ。
ブラウンは『Passionate Ones』がリスナーに、より多くの愛やコミュニティ、そして怒ることへの許しを与える作品になればと願っている。しかし、全員に好かれることは期待していない。「みんなに好かれる作品なら、それは仕事を果たしていないってことだと思う。何も挑戦していない証拠だからね」

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