マライア・キャリーによる待望の16作目『Here for It All』。全11曲からなる本作の多くは彼女らしいスタイルに収まり、上々の仕上がりとなっている。その歌声が今も衰えていないことは疑いようがない。2018年の高評価を得た『Caution』が現代R&Bの頂点にマライアを押し上げたのに対し、今作『Here for It All』は一転してレトロなムードを前面に押し出す。モータウンの名曲を思わせるソウルフルなバラードから、ディスコやファンクを下敷きにしたアップテンポ曲まで幅広い。たとえばリード・シングル「Type Dangerous」でも、1986年のエリックB.&ラキム「Eric B. Is President」をサンプリングしていたりする。
マライアは相変わらず完璧なピッチと自信に満ちた歌詞で勝負しているが、全身全霊を注いでいるかは定かではない。というのも、この数年は彼女にとって決して容易なものではなかった。母親と姉をわずか数時間の差で亡くし、その後「All I Want for Christmas Is You」をめぐる著作権訴訟(最終的には棄却された)に巻き込まれ、さらには10代に成長した双子の母としての日々がある。そんな状況で心が揺らいでいるとしても、誰が彼女を責められるだろうか。
アルバム収録曲「Nothing Is Impossible」では、そんな世間の憶測に応えるかのような姿を見せる。
「My Love」はポール・マッカートニー&ウイングスの名曲をカバーしたもので、マライアは大仰な技巧を避け、率直で温かみのある歌唱を選んでいる。彼女は2020年の「Save the Day」でロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」(フージーズ経由のバージョン)をサンプリングしたが、「My Love」にはフラックのR&B名曲に通じる温かく、余裕のあるムードが宿っている。そして一度聴けば口ずさまずにはいられないサビが印象的だ。
新作の多くは、むしろジャズやソウルの古典に立ち返っている。スタジアムを沸かせる曲調ではないが、ピアノバーやラウンジで心地よく響きそうな楽曲が並ぶ。ブルージーな「In Your Feelings」では、マライアがハイヒールを脱ぎ捨て、客とおしゃべりを楽しんでいる姿すら浮かんでくる。昨年バイラルヒットとなった「Its a Wrap」の続編のようにも聴こえるこの曲は、6/8拍子のクラシカルなリズムに生演奏と意識の流れのような歌詞が重なり、マライアがスキャットで〈あなた、ちょっと感情に溺れすぎてるみたい/どうして私たちはこんなに疎遠になってしまったの?〉と歌いかける。
「Jesus I Do」ではクラーク・シスターズが参加し、ステファニー・ミルズのカバーのようにも聴こえる賑やかな仕上がりに。うねるベースラインと高揚感あふれるゴスペル・コーラスは、リバイバル礼拝にもぴったりの熱気を帯びている。
一方で「I Wont Allow It」ではより好調ぶりを見せ、ディスコ・ファンクのグルーヴに乗せて恋人(あるいはライバル?)に再び自分を出し抜こうとしてみろと挑発する。ここでのマライアのペンは冴えわたり、思いがけないブランド名を織り込んだ、これまでで最も痛烈なおちょくりを披露している──〈顔がボロボロになったらどうするの?…アキュテイン(ニキビ治療薬)も手に入らないでしょ?もっとプロアクティブでいるべきだったのに〉
「Play This Song」MVは9月26日23時~公開
今の彼女自身に忠実な楽曲集
歌詞は全編で軽やかに弾み、アルバムの幕開けを飾る「Mi」では、彼女の”やりすぎ”とも言えるパブリック・イメージを受け止めながら、2005年の『The Emancipation of Mimi』を参照している。「私はD-I-V-A、そしてMC」とエレクトロ風味のR&Bトラックに乗せて歌い、〈ハリー・ウィンストンのダイヤにルイ13世──『Emancipation』以来、値段なんて気にしたことはない〉と誇らしげに言い放つ。
シングル曲「Type Dangerous」と「Sugar Sweet」の2連打は、本作で最もラジオ映えする楽曲といえるだろう。一方「Confetti and Champagne」は妖艶なオルタナR&B曲で、夜の街に繰り出すUber XLの車内を彩るのにふさわしい。
新作におけるマライアのボーカルはより抑制が効いており、アルバムのラストを飾るタイトル曲「Here For It All」は、いわば”期待されるマライア・バラード”に最も近いものだ。愛する人に対して〈思い出したくもないことはあるけれど、それでもあなたと共にいる〉と誓うこの曲は、終盤でハイトーンが炸裂し、本作で最も情熱的な瞬間をもたらす。
彼女の輝かしいカタログと比べて、『Here for It All』はリラックスしていながらも抑制が効いている。ただ、多くの点でこれは、キャリア35年を迎えたマライアがまさに作るべきアルバムのようにも思える。何十年もの間、声を限界まで酷使し、ステージで心を注ぎ続けてきた彼女が、ついに落ち着き、肩の力を抜いた姿を見せているのだから。収録曲のすべてが、彼女自身が言うところの「ただ楽しむため」「ただ懐かしさのため」に古い友人と一緒に書いたかのように感じられ、ヒットチャートを意識したものではない。
『Here for It All』はマライアの歌声が健在で力強いことを証明しているが、それはあくまで「自分が歌いたいときだけ思い切り歌う」という姿勢のもとにある。もし今後、彼女が長期の休養を選ぶとしても、ファンには十分に寄り添ってくれるであろう、タイムレスな愛らしい楽曲群が残される。彼女が”バタフライ”として再び舞い戻るまで、この作品が支えとなるだろう。たとえ当面これが最後の新作となっても、『Here for It All』はマライアにふさわしい勝利の凱旋だと言える。
From Rolling Stone US.

マライア・キャリー
『Here for It All』
発売中
歌詞/対訳付、日本盤ボーナス・トラック2曲収録
詳細:http://bignothing.blog88.fc2.com/blog-entry-16260.html

マライア・キャリー来日公演
2025年10月28日(火)兵庫・神戸 GLION ARENA KOBE *SOLD OUT
2025年11月1日(土)神奈川・ Kアリーナ横浜
2025年11月2日(日)神奈川・ Kアリーナ横浜
特設サイト:https://www.creativeman.co.jp/artist/2025/mariahcarey/