アメリカでは(おそらく日本でも)他人の恋愛失敗談をネタにして承認欲求を満たす人が増えている。その風潮が、若者たちの恋愛感情を凍りつかせているようだ。


数カ月前の金曜の夜、高校の友人たちとFaceTimeで話していた。みんなそれぞれ自分の部屋でくつろぎながら、Snapchatをスクロールしていたときのことだ。ある友人が、姉妹校の女子を知っていると言い出した。彼はその子にメッセージを送りたがっていたが、親指が止まったままだった。「送れよ」と別の友人が言った。「でもしくじったらスクショされるぞ」──結局、彼は送らなかった。

僕(筆者)が6月に卒業したシカゴの高校では、プライベートな瞬間でも公共の場でも、常にスマホが持ち出されていた。授業中に誰かがプレゼンで噛んだときも、カフェテリアで誰かがつまずいたときも、すぐにカメラが向けられる。ほとんどの動画は、数十人程度の友人たちのプライベートなSnapchatグループ内で共有されるだけだったが、ときにはそれが外に広がり、もっと深く人を傷つけることもあった。

去年、他校の友人が廊下で女の子に告白しようとしているところを撮影された。少し気まずい場面ではあったけれど、彼は別におかしなことをしたわけではなく、ただ断られただけの動画だった。だが、誰かがその様子を撮ってSnapchatのストーリーに投稿したのだ。
動画には「こいつ、いけると思ったんだな(Bro thought he had a chance)」というキャプションがつけられ、昼休みまでに200人以上がそれを見ていた。

僕と同世代の若い男性にとって、こうした出来事は単なる恥ずかしい瞬間ではない。それは、恋愛のあり方そのものを変えてしまっている。撮られて笑いものにされる可能性がある──その恐怖が、これまで普通だったコミュニケーションを”リスク”に変えてしまったのだ。

「失敗コンピレーション」や「クリンジ・チャレンジ」などのトレンド──つまり、人の失敗や気まずい場面を笑いのネタとして共有する投稿──は、恥ずかしい瞬間を記録することを奨励している。人気のInstagramアカウントでは、人々の出会い系プロフィールやメッセージのやり取り、ぎこちない口説き文句などが晒されている。投稿が匿名の場合もあるが、そうでないことも多い。やがて見知らぬ他人が、その本来はプライベートであるはずの瞬間を見て、「いいね」を押し、コメントを書き込むのだ。

こうした出来事が実際に起こるのを目にして、もはやそれは「いつか自分にも起こるかもしれない」程度の遠い不安ではなくなったと感じた。それは、若い男性たちの現実でのふるまいを確実に変えてしまっている。公の場でさらし者にされるという脅威は、ごく普通のコミュニケーションをも危険なものにし、ときには恋愛を求めたり、誰かをデートに誘ったりする機会そのものを奪ってしまう。常に「恥をかくかもしれない」という恐れを抱えていると、恋愛に必要な社会的リスクを取る勇気すら失われていくのだ。
そしてこの”晒される”ことへの恐怖は、単に一部の若者が告白をためらうだけにとどまらない。ネット上での暴露や嘲笑への不安は、やがて男女の関係そのものに不信や憎しみの種をまき、長期的に性別間の関係を分断させる危険すらある。

男女のあいだの「冷戦」

若い男性のなかには、「恥をかかないため」に防衛的な態度をとるようになる者もいる。だがそれは結果的に、多くの若者の間で不信感を助長し、コミュニケーションを「自尊心を守るための戦場」に変えてしまう。やがて共感は薄れ、疑念がその代わりに根づいていく。本音を見せることに安心感を持てず、発言ひとつ、メッセージひとつにも「どう受け取られるだろう」「晒されないだろうか」「笑われないだろうか」と過剰に考えてしまうのだ。そしてその不安はやがて別の方向に転じる。若い男性たちは、自分の疑念を肯定してくれるオンライン空間──女性に対する否定的なステレオタイプを強化する場──に逃げ込むようになる。その結果、男女のあいだに「冷戦」のような状態が生まれ、互いに疑い、共感を失っていく。分断された空間では、会話や交流は防衛的な非難の応酬となり、人々は次第に他者を信じられなくなっていくのだ。

撮影されることへの恐怖がこれほどまでに広がり続けているのは、そうした動画を拡散する側がほとんど罰を受けないからだ。その結果、誰も責任を取らず、他人を辱めることが当然視される文化が生まれている。
Z世代にとってSNSの世界は、もはや「責任のない場所」、そして「残酷さが報われる場所」になってしまった。拡散されるたび、注目を浴びるのはカメラの前の人だけでなく、カメラの後ろにいる撮影者もだ。撮られた側が恥をかく一方で、撮った側は「ウケる動画を投稿した人」として評判やフォロワーを得る。動画を投稿しても咎められないどころか、エンゲージメント(反応)が増える──その構造が、さらなる”撮影”と”晒し”を助長しているのだ。こうして「恥」が一種の通貨のように消費される悪循環が続く。代償を払うのはいつも、笑いものにされた側だけである。

デジタル上の残酷さには、きちんとした「結果(責任)」が伴うようにしなければならない。学校や地域社会はこの問題を真剣に受け止め、オンラインでの晒し行為をいじめと同じレベルで扱う明確な方針を設けるべきだ。たとえネット上での晒しが今後もなくならなかったとしても、加害者にも社会的な結果が及ぶ仕組みをつくることが重要である。そうすることで、被害者にも加害者にも、「誠実さと敬意はオンラインでもオフラインでも同じように大切だ」というメッセージを伝えることができる。画面の向こうで行われる残酷さは、対面での残酷さと何ひとつ変わらない。そのことを、はっきりと、そして大きな声で伝えていく必要がある。


From Rolling Stone US.
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