寛政十年(1798)十月、 長崎湾の沖合で巨大オランダ船が座礁した。 船は底部を損壊して浸水。
浜近くへ曳航したが再び座礁、 沈船となった。 オランダ商館は長崎奉行所に積み荷の陸揚げを要請。 奉行所は町方村方にまで浮かし方の工夫を募った。そこへ名乗りを上げたのは、 周防の小村で生まれ、 友とともに「自由」を追い求めたかつての少年の一人だった。 «「櫛ヶ浜でのささやかな幸せなど、 浦から離れられん跡取りたちに呉れてやれ。 俺たちげな食み出し者は、 この浦でろくな生き方ができんぞ。 もっと欲張れ! 和主を誘うたのは、 跡取りでなかったからじゃ。 浦のくびきから自由じゃけ誘うた。 いずれ、 漁場を得る。 櫛ヶ浜よりもっと大きな漁場じゃ。 もっともっと稼げる浦の網元になれ。 和主が漁場を持ち、 俺は廻船を得る。
和主が獲った海産を、 俺が外海に出て売り捌く。 自立した商売を始めるために、 俺は唯一の財産だった大網を手放した。 いま手放した網などは、 大した損失じゃない。 いっしょに漁に出る吉蔵、 和主が仲間入りしたから未来が開けたんじゃ」» 現実に起こったオランダ船沈没事件をドラマチックに描いた、 傑作小説。歴史作家・飯嶋和一氏は、 本書に特別に寄せた推薦文でこう語る。 「中心人物はいずれも海村の次三男である。 家を継ぐ長男以外は『余計者』であり、 穀潰しでしかない。 ‥‥ 既存の頑迷な社会システムに屈従して生きるのか。 あるいはそれをくつがえすのか。 ‥‥くつがえそうとすれば、 かなりの圧力が社会から加えられることになる。 が、 必要なのは勇気と知力だとこの小説家は語る。 はかなく脆い夢や希望ではない、 と 」

本書「陸から見る海の風景――あとがきにかえて」より

«2015年8月17日、 山口県周南市の櫛ヶ浜へ行った。
台風の影響でJR山陽本線のダイヤが乱れていた。 徳山駅から1駅、 5分足らずの近場だが、 天候不良のため電車は1時間に1本もなかった。 ちょうど電車が来ると駅員さんに教えられ、 慌ててホームを走ったのを覚えている。 櫛ヶ浜駅を降りると、 まっすぐ海へ向かった。 小雨がぱらついていた。 護岸された海辺には歩道が延び、 離れた浜に工場が見えた。 海辺を歩き回って写真を撮ってから、 引き返した。 車道を渡ったところ、 埋め立てる前は浜辺だっただろう場所に、 櫛ヶ浜神社という社があった。 大きな神社ではなかった。 天保12年(1841)6月吉日建立。 祭神は天照大神の御子五男神と三女神で、 八王子様とも呼ばれる。 鳥居に、 村井市左衛門という寄進者の名前を見た。
本作の主人公、 村井屋喜右衛門信重は櫛ヶ浜で生まれた廻船商人だった。 海で生きる民である。 後に永世苗字帯刀を許されたとき、 その屋号にちなんで村井喜右衛門と名乗った。 喜右衛門には一男三女があった。 息子の名は正豊といった。 晩年の喜右衛門は日頃から、 「死ぬ三十日前には前もって知らせる」と櫛ヶ浜の人々に言っていたそうだ。 文化元年(1804)7月、 体の不調を感じた喜右衛門は村中の家を回って挨拶し、 墓参りを済ませ、 帰郷した弟とも会った後、 8月4日に他界した。 息子の正豊にはこう遺言した。 「人には向き不向きがある。 お前は我が家の商売を継いではならない。 役人として禄を受けよ。 家業はすべてお前の叔父が責任をもって取り仕切ってゆく」 正豊には、 武士として生きるように求めた。
自身が生涯を過ごした海から息子を遠ざけたのは、 親心だったのだろうか。 喜右衛門の死から三十七年後に建てられた櫛ヶ浜神社の詳細については調べなかった。 天気は悪くなる一方で、 気づけば、 辺りに人影もなかった。 果たして寄進者は村井正豊だったのか、 その息子だったのか。 いずれにせよ、 村の有力者だっただろう。 そのとき、 村井家では馴染み深かったはずの市兵衛から拝借したらしいその名前が気になった。 市兵衛は喜右衛門の大叔父で、 かつて櫛ヶ浜の屈強な船乗りだった。 櫛ヶ浜から見る徳山湾は広大に映った。 その先に瀬戸内海があり、 さらに先にまた大海が続いていると想像すると、 なんだかそら恐ろしい気さえした。 »
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