今、引き受けておかなかったらきっと後悔する
──このような社会状況の中で取材を受けてくださること、とてもありがたく思います。
山内:びっくりしなかった? こんな醜い顔で。でもね、どうしても他に語り部がいないものだから。
──最初に、坂口監督から映画撮影のお話しをもちかけられたとき、きみ江さんはどのように思われましたか? ためらいなどはなかったのでしょうか。
山内:ハンセン病が歴史に残るならば協力したい、って思ったの。今、引き受けておかなかったらきっと後悔するんじゃないかなって。患者のみなさんは自分の顔を見せるのを嫌がるでしょう? ならば、わたし自身が犠牲的精神でやらせてもらおうかしら、と(笑)。わたしはカメラに対してはなんの抵抗もないんですよ。前にNHKに出たときは、子どもたちも喜んでくれて(※山内さんは養子縁組をした娘さんとそのお孫さんがいます)、孫たちも、「ばぁばのおかげで超有名人になっちゃった!」って喜んでいました。
──素敵なご家族! おばあちゃんが家族のヒーローなんですね。
山内:ハンセン病でこんな不自由な体のおばあちゃんがいて、学校でいじめられるんじゃないかって心配していたんだけど、「ばぁばの悪口を言うような大人はロクな大人じゃない」って(笑)。昨日も会いに来てくれたんですよ。
──きみ江さんご自身が語り部となって、過去や記憶を語り続けることはつらいこともあったかと思うのですが。
山内:変えられる病気ではないし、持って生まれたものならばそれを逆手にとって活かしていこうって思っているんですよ。
──そう思われるまで、葛藤もありましたか。
山内:それはもう、ありましたありました。醜い顔で言葉もうまく出ないから聞き取りにくいでしょう? だから、聞きとれなかったら質問をしてもらえればいいって最初から言っておくの。「なんでも聞き返してください」って。そうして、取材に来てくれる方がわたしを成長させてくれた部分は大きいですよ。…でもね、抵抗がなかったかって言えば嘘かもしれない。わたしは教養もまったくないし、劣等感の塊ですから。だけど、卑下してどうなるものでもないし、同じ人間であるならば優秀な方もいれば劣等感がある方もいるし、これは開き直りです(笑)。
──取材する側が言うことではないですけど、メディアに出るということは、必ずしもいいことばかりではないですもんね…。
山内:そうなの。特にわたしの身内がね、つらいことが多かったみたい。
ここに来てもいいことはないから、このまま帰りなさい
──療養所へ来て、自殺を選ばざるをえなかったご友人をたくさん見たそうですが、映画でおっしゃられていたように、「でも、自分はぜったい自分で死なない」と決心するまでのことを教えていただけますか?
山内:後追いをしてみんなが生き返ればいいけれど、それで死んだとしても、みんなも自分も死んでしまうだけなの。死んでハンセン病がなおるわけでないし、ハンセン病との縁が切れるわけではないし。自分はこういう業を持って生まれてしまったのだから、それを背負って命をまっとうして死んで、そのときにはじめて業が切れるんじゃないかって思っています。
──それまでは、「業を背負っても自分の人生を生きる」という気持ちをずっと持たれているのですね。
山内:そう、それまでは生きますよ。わたしは7歳のときに、皮膚に白い反応が出て痛くもかゆくもないというハンセン病の症状が出はじめたのだけど、そのころのお医者さんはハンセン病って見抜けなかったの。どんどん戦争(※第二次世界大戦)が激しくなるうちに、神経がやられて、両方の手が曲がっちゃって、火傷をしてもわからないし、釘を踏んでもわからなくなって。
──ケガをしても気づかないっていうのは命を落とす危険性があるということですよね。しかも戦時中に…。
山内:もうー、それは大変なんてもんじゃなかった! でも、お医者さんには小児リュウマチって言われていて…。
──7歳で症状が出てから、22歳でやっと病名を知ることができたんですね。
山内:でもね、「不自由でつらかっただろう」と言われるまでそういう感覚がなかったの。みんながどれだけ完全なのか、わたしはわからないから。だって、子どものころからずっとこの体だから。先生は、「もう体は無菌の状態になっているし、ご家族も理解してくれているからあなたはこのまま家で暮らしなさい」って言ってくれたんだけど、わたしは、「ハンセン病っていう名前がついたからには療養所に行きます」って言ったの。
──療養所で暮らすことは、きみ江さんご自身が決められたんですか?!
山内:わたしは自分で決めたの。療養所は全国に13箇所あるけど、生まれの静岡は絶対いやですって言いました。
──「療養所ではなくて、老人ホームのような場所になってほしい」とおっしゃっていたように、今はとても整備がされていますが、過去はぜんぜん違っていたのですね。
山内:ひどい場所でしたよ。わたしが来るのを、園長先生が入り口で待っていてくれて、「ここに来てもいいことはないからこのまま帰りなさい」っておっしゃられたの。あなたはまだ22歳だし、もう無菌なのだから社会で生きていけるって。だけど、わたしは決意してここに来たから帰らないって答えました。
──体のなかに菌はいないと検査結果が出たし、うつる病気ではないということも知れ渡っていたのに戻らなかったのですね。
山内:わたしは、この中で暮らす患者さんたちが、どれだけ苦労をしてどういう思いをしているか知りたいと思ったから。
結婚する条件、断種手術
──結婚という、本来は本人たちどうしが決めることなのに、そのためには「断種手術(※優生保護法に基づく強制不妊手術)を受けなくてはいけない」という状況の恐ろしさは想像がしきれないほどでした。
山内:わたしがプロポーズを受けなければ、夫にそんな手術を受けさせなくても済むのにって悩みましたよ。元気な人ですら大変な手術なのに。でも、「俺は肝硬変で4年しか生きられないって言われているけど、一度は結婚をしてみたい。ぼくで良かったら結婚してくれますか」って夫が言ってくれて、それならば手をとりあって生きていこうじゃないかって思ったの。だけど、結婚をするためには断種手術を受けなくてはいけない、それが決まりだったから。
──「4年しか生きられない」はずだったのに、60年以上も夫婦として暮らして。愛の力としか言えないですよね。
山内:「女房の愛ってすごい力だね」って夫に言ったら、「女房の力じゃなくて俺の寿命だよ」って言うんだもの、冗談じゃないですよ(笑)。だけど、夫婦としては楽しかったんですよ。ケンカをするたびに、「あなた4年で死ぬって言ったのに詐欺師のような人ね、わたしはもう一花咲かせようと思っていたのに」「お前だって、22歳まで男と手をつないだこともないっていうから俺は犠牲的精神で結婚したんだ」なんて言い合って。誰でも欠点はあるけど、嫌なときはこうして思いっきりケンカすればいいのよ。
──きみ江さんは療養所を出て暮らしていた時期があったとのことですが、気持ちの面や生活のリズムなど、暮らしの違いはありましたか?
山内:気持ち的にぜんぜん違いますね! やっぱり開放感がある。夕方になるとお惣菜が3割引とかになるでしょ? 楽しいわよね。商店街のおでん屋さんでは、たまごを買うついでにおつゆをたくさんもらったりして。それでおじやを作るとすごくおいしいの(笑)。不自由な体での生活はほんとうに大変だったけれど、そういう気さくさのある街で暮らすのは苦労が苦労じゃなかった。偏見差別は確かにこわかったけど、買い物をしたりするなかで、ハンセン病で体が不自由な者が住んでいますよっていうことを自然に知ってもらえたから、実際はそんなにこわいものではなかったかな。共働きの家の子は、親が帰ってくるまでうちに遊びに来ていたり、ゴミ出しの袋を持って行ってくれたり。今は、「ハンセン病はうつる病気ではない」っていうことをみなさん一通り知っているから、気楽につきあっていました。
──感染についての認知が広がっていない昔は、やはりもっとたいへんでしたか?
山内:昔はね、ほんとうにたいへんだった。住んでいた村でも、4件ハンセン病が出ているんだけど、知らないうちにいなくなったり保健所に連れていかれたり…。当時は、家が1週間たっても白いままっていうくらい消毒をするから。
──えっ、家ごと? 家の外からですか?
山内:そう、家の外からもう全部。疫痢とか赤痢とかでもあんなにひどい消毒の仕方はしなかったわね。大きなタンクを自動車で運んできて、それで消毒をしてたんだけど、雪が積もっているんじゃないかと思うくらい家が真っ白くなって…。わたしはね、子どもの頃にあれを見てその消毒の白さで、いかにハンセン病がこわいものかって知らしめられましたね。
──たとえこっそり逃げたとしても、真っ白な家になることで近所の人には一目でわかってしまうんですね。
山内:そう! もう一目でわかるの。婚約破棄になってしまった妹に、「おねえちゃん、なんでそんな病気になったの」って泣きつかれたときなんて返事に困っちゃった…。そしたら夫が、「それなら俺も自分の籍を実家から抜くから、一緒にふたりだけの戸籍を作ろう」って言ってくれて、結婚をする前にわたしは実家から籍を抜いたの。それで妹はまた結婚をすることができたんですよ、わたしはもう戸籍にはいない状態だったから。いろんなことがあったけど、全部人生の1ページね。

誰しもが幸せに暮らしてきたり、花や蝶やと可愛がられた人ばかりではないけれど…
──まわりに反対をされて、ときには同じく療養所で暮らす方からも反対を受け、それでも養子をむかえると決めたのはなぜでしょうか。
山内:本来はね、できることなら愛する夫の子どもを育てたかったの。だけど、法を曲げてでも子どもを産むことが、その子にとって幸せとは限らないから。それなら親のない子を育てようって思ったんです。養子を迎えたとしても、わたしは忌み嫌われた病気にかかったし、ハンセン病の両親を持ったということで子どもにも迷惑もかかるだろうし、たくさん悩みました。養子を迎えてからも、「あなたは罪深いことをした」とまで言われた。…ほっといてくれればいいのにね(笑)。でもね、娘自身も不幸な生い立ちでお寺に預けられたりしていて、誰しもが幸せに暮らしてきたり、花や蝶やと可愛がられた人ばかりではないことを承知しているから。血をわけた子じゃないしワケあり家族だけど、わたしは幸せ者です。やっぱり、曲がらずに生きていれば幸せはきっと味方してくれるって信じているから。
──2020年になり、世間の偏見や誤解、社会の雰囲気は変わったように思いますか?
山内:そうね、ハンセン病にたいしてはずいぶん変わりましたね。学校にも行けなかったわたしが無我夢中で勉強をして本を出せたり、こうして語り部をしたり、写真展を開いたり……わたしのやってきたことで、世の人たちを少しは動かせたかなと思います。銀座で写真展をしたときは、自分でもびっくりしました。でもまだ、接し方に悩む人もいるでしょうね。そのあたりを、わたしが役にたてたら嬉しいです。
──最後に、映画を見た方へメッセージをお願いします。
山内:映画はどうでした? こわかったですか? って声をかけたいです。病気やわたしに興味をもってくれることはとても嬉しいことだから。ほんとうは上映会をしてお話しをする予定だったのだけど、今はそれができなくて……どういうお気持ちでご覧になったのか感想が聞きたいですね。
