8月10日、日本サッカー史上、最強のストライカーと誰もが認める釜本邦茂が鬼籍に入った。享年81。
2025年は、メキシコ五輪で活躍した他競技のスーパースターも天に召された。釜本が24歳でオリンピアンとして脚光を浴びたのに対し、彼は19歳にしてボクシング・ヘビー級の金メダリストとなっている。
3月21日に76歳で永眠したジョージ・フォアマン。14カ月ほどの闘病生活を続けた後、別れが訪れた。病名については、家族も明かしていない。実弟に何度か訊ねたが、いまなお、ハッキリとは語らないままだ。
フォアマンはメキシコ五輪後にプロに転向し、38戦全勝35KOという比類なき強さで、世界ヘビー級タイトルを奪取する。下した相手は、1964年東京五輪で金メダリストとなったジョー・フレージャーだった。「反戦・反米」を唱えて自ら世界チャンプの座を降りた稀代のカリスマ、モハメド・アリに初めて土を付けた男がフレージャーだが、フォアマンのハードパンチを浴び、6度もキャンバスに這わされ、2回KOで屠られた。

1974年10月30日、フォアマンは3人目のチャレンジャーとしてアリを迎える。開催地は、アフリカのザイール(現コンゴ共和国)。誰もが王者の圧倒的勝利を予測するなか、フォアマンは8ラウンドでノックアウトされた。
筆者は、生前のフォアマンを何度かインタビューしたが、彼はアリ戦をこう省みた。
「負けるってことが信じられなかった。自分が内面から破壊されてしまった。ジョージ・フォアマンという人間が分からなくなった。この躰が、頭が、私のものだと思えないんだ。
当時は色んな言い訳を考えたけれど、最終的にはアリが私より強いファイターだったという結論に達したよ。確かに彼は私よりも一枚上手だった。この敗北は、私を粉々に打ち砕いたね」
時間を掛けて敗因を分析し、アリとのリターンマッチを見据えて動き出した最中、フォアマンは思わぬ伏兵に足元を掬われる。そして、2つ目の黒星を喫した直後の控え室で、彼は神の啓示を聞くのだ。
「私はドレッシングルームで横になっていた。しばらくして、なぜか自分の手が血まみれになっていることに気付いた。顔にもべっとりと血が付いていた。試合で傷を負った訳でもないのに何事だ!と驚いた。自分が死んでしまうのではないか、という恐怖にかられた。すると次の瞬間、『お前が必要だ』というジーザスの声が聞こえたんだ。すぐに飛び起きたよ」
この日からフォアマンは、聖書の教えを広める牧師となる。3年後には故郷であるテキサス州ヒューストンに自身の教会をオープン。また、ユースセンターを築き、将来の見えない若者と寄り添った。

「ユースセンターを建てたのは1983年のことさ。10代の頃の私は、生きる目的を見出せず、この巨体を持て余していた。中学校さえまともに通っていない。
が、リンドン・ジョンソン大統領が貧民救済のために設けた職業部隊のお陰で、人生をやり直せたんだ。ボクシングにもその部隊で出会った。今度は自分が次世代の子を支えられたら、と考えた。『ジョージ・フォアマンが、そこにいる』。冗談を言って笑い合う、という空間だよ。何よりも、彼らとのコミュニケーションが大事だ。
通ってくる子供たちを目にしていると、昔の自分とダブることが頻繁にある。彼らにとって不可欠なものとは、かつての私に必要だったものだ。もし、私にも同じような場所があったら、マシな少年時代を過ごせただろう。生きるうえでの目標を持てないっていうのは、哀しいことさ」

だが、信頼していた会計士に財を横領され、教会、ユースセンターは危機的状況に追い込まれてしまう。
「私を待ち望んでいる人がいるのに、こちらの勝手な事情で止めるなんて出来なかった。
38歳にしてリングに復帰したフォアマンは、45歳で世界ヘビー級王座に返り咲く。もちろん、教会もユースセンターも守り続けた。
フォアマンと会話を重ねれば重ねる程、筆者はファイターである彼以上に、故郷のために身を粉にして進む姿に惹かれていった。ジョージ・フォアマン・ユースセンターに、「モハメド・アリ・ビルディング」「ジョー・フレージャー・ビルディング」と、棟にかつてのライバルの名を付けている点も彼らしかった。


しかし今、そのユースセンターは取り壊し作業が始まっている。フォアマンの死から3カ月が過ぎた頃、ヒューストンに足を運んだ筆者は、嫌でも一つの時代の終焉を感じざるを得なかった。アリ棟もフレージャー棟も、白い壁が外されていたのだ。フォアマンには5人の息子がおり、そのうちの一人が教会を継ぐこととなったが、ユースセンターの活動を続ける道は、誰も選ばなかった。
アメリカ合衆国においてユースセンターとは、地域の駆け込み寺のような意味合いを持っている。家庭や学校にストレスを抱える子供や不登校児が、第三者である大人との交流を通じて安らぎを得るのだ。フォアマンはバスケットコート、ボクシングジム、卓球場、筋トレルームなどを設け、次世代の若者たちを支援していた。
夏休みのプログラムを覗いたこともあるが、小学生たちが笑顔で参加していた。フォアマンは規律を教えると同時に、複雑な環境で生きる若年層に対し「世の中には信頼に値する大人がいる」ことを伝えているかに見えた。

2017年8月に「ハリケーン・ハービー」がヒューストンを襲った際には、このユースセンターを避難所として使ってくれ、と扉を開けている。被害に遭った400名強が、およそ2カ月間の避難生活を送った。
が、その事実がニュースになることはなかった。元世界ヘビー級チャンピオンが、「隣人のためにベストを尽くすのは当然。売名行為でやっているわけではないから」と、取材を拒否したからだ。筆者が、この件についてフォアマンから話を聞いたのも、ハービーが去って半年以上が経過してからである。
筆者が初めてジョージ・フォアマン・ユースセンターを訪れたのは、1998年の夏だった。以後、金曜日か土曜日着の便でヒューストンに赴き、レンタカーでユースセンターに向かった。プロボクサーとなった息子をフォアマンがコーチする姿や、地域の子供達と微笑み合う姿を目にした。
日曜日の礼拝に参加し、牧師である彼の言葉を聞き、その後、教会内で向かい合ってインタビューするーーー。

今、元世界ヘビー級チャンピオンの言葉が蘇ってくる。
「人生を変えるチャンスとは、行動を起こした者にしか掴めない。まずはゴールを定めて全力でぶつかってみることだ。負けることだって当然あるよ。でも、全身全霊をかけた人間は"何か"を得ている筈だ。それがいつしか、勝利に繋がると私は思っている。
神は見ているさ。目の前の結果以上のものをね。時には己に失望し、腹が立ち、落ち込むことがあるだろう。人生を投げ出したくなる時も来るだろう。でも、自分を信じてあげることさ」
"BIG"が、フォアマンのニックネームだった。体のサイズだけではなく、人間としての器も表していた。ヒューストンの大地に根を張って生きた彼は、ギラギラとした真夏の太陽のような生命力で周囲を照らした。

BIG Georgeはもういない。だが、彼の魂を後世に残していかねばならない。
取材・文・撮影/林壮一