今回の弾丸ツアーのメンバー。左から、タイ人、ギリシャ人、日本人。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第139話
いろいろな国を体あたりで駆け巡る筆者。それぞれの糸は少しずつ複雑に絡み合い、大きなうねりへとつながっていく。今回はそんな手応えを感じたバンコク出張だった。
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■ふたたびバンコクへ
昨年末(79話)に訪れて以来、およそ半年ぶりの、また、当初の私のスケジュールにはなかった今回のバンコク出張。
改めて『深夜特急』(沢木耕太郎・著)を読み返すと、バンコクに到着した沢木氏は、それを「南の国の重く湿った空気」と表現していた。しかし、2024年においてもはやそれは、タイ、あるいは東南アジア諸国だけを形容する表現ではなくなっている。

バンコク到着時の、同時刻におけるバンコクと東京の気温の比較。東京の方が2時間進んでいる(写真はバンコクの時刻なので、東京は18時すぎ)ことに留意すべきである。
定宿となったホテルにチェックインし、普段の運動不足の解消のために、プールでたっぷりと泳ぐ。
やはり前回の経緯(79話)から、今回はちゃんとAirPodsを耳にはめて、やはりバカのひとつ覚えのようにパッポンストリートに繰り出す。
やはりなにか新しい音楽を、と思うものの、パッポンストリートに向かう道すがら、なかなか適当な音楽が見当たらない。アジアの喧騒、アジアの喧騒......と私のiPhoneのライブラリを探っていると、ひとつのバンドが見つかった。「YEN TOWN BAND」である。
■『スワロウテイル』
「YEN TOWN BAND」とは、CHARAがヴォーカルを務め、小林武史がプロデュースする、『スワロウテイル』という邦画のスピンオフバンドである。
『スワロウテイル』は、私の好きな映画のひとつである。90年代後半の日本の喧騒や空気感、そしてそれらが生み出す混沌とした未来への期待感が凝縮されているように感じている。
Wikipediaのあらすじを引用すると、「日本円が世界でいちばん強かった時代に、一攫千金を求めて日本にやってきた外国人たちが築いた『円都(イェン・タウン)』を舞台にした物語」である。
日本語、英語、中国語などが入り混じり、日本とも中国とも東南アジアとも言えない猥雑な喧騒の中で、伊藤歩演じる「アゲハ」の通過儀礼を軸として物語は進む。
ストーリーはぜひ映画を観ていただけたらと思うが、ここで描かれている喧騒や多言語感は、今のわたしを形作るひとつのピースになっているように思っている。
実はこの映画、放映されたリアルタイムでは観ておらず、「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」も、高校生当時はテレビなどで聴いたことがある程度だった(当時のヒット曲は、いくつかのチャンネルをひねれば、大抵すべてを網羅することができた)。
それなのになぜ好きな映画にリストアップするほどの扱いしているかというと、これを初めて観たのが、ちょうど初めて書いた論文の「リバイス(改訂)」の時期だったからである。
「リバイス(改訂)」のプレッシャーに追いやられた私は、京都の京阪電車の終点である出町柳駅にあるTSUTAYAに足を運び、おもむろにこのDVDを借りたのだった。たくさんのDVDの中からあえてそれを選んだその理由までは覚えていない。
しかし、研究のプレッシャーに押し潰されて混沌としていた当時の私のメンタルとこの映画の世界観がマッチしたのか、私はそのDVDのレンタルを延長し続け、「リバイス」が終わった論文の再投稿が終わるまで、在宅時にはずっとそれをBGMの代わりに流し続けていた。
劇中に登場する「YEN TOWN BAND」の音楽のみならず、さまざまな言語が入り混じる役者たちのセリフが、私の未熟な英語脳を刺激していたのかもしれない。
――そしてなにより、「アジアの喧騒」をキーワードに引き当てた今回のBGM「YEN TOWN BAND」であるが、上述のようにそれは、「日本円が世界でいちばん強かった」架空の世界を舞台にした映画から派生したものである。
かたや、半年前に訪れた時(79話)には4.09円、その前に訪れた時(12話)には4.01円だった1バーツが、この訪問時にはなんと4.41円である。単純計算で、すべてのものの値段が、日本円換算で、前回訪問した半年前の約1割増しになっているのである。
パッポンストリートの喧騒の中、「円都(イェン・タウン)」などという幻想から生まれたバンドの曲を聴く、2024年の夏の始めであった。ホテルに戻って為替を調べると、この日(2024年7月7日)の1アメリカドルは160.74円。世界でいちばん強いどころか、われわれの貨幣の価値は、凋落の一途を辿っている。

パッポンストリートでの夕食。海鮮チャーハン(左)とトムヤムクン(右)。屋台飯とあなどるなかれ、このトムヤムクンは人生イチうまかった。でも屋台飯で250バーツ。日本円換算で1100円。人生イチうまいバンコクの屋台飯が1100円、である。それを高いととるか、安いととるか......。
■「My Way」とアジアの息吹
翌日。前日深夜に到着したギリシャ人ポスドクのS、当日早朝に到着したタイ人ポスドクのCとホテルのロビーで合流する。
午前の部と午後の部に分かれたチュラロンコン大学での打ち合わせは、最初はお互いに腹を探り合いながらも、最終的にはなかなかうまい具合に着地できたのではないかと思う。ふたりのポスドクSとCにはもう1日滞在してもらい、さらに詳しい話を詰めてもらうことになっていた。
私はほかの仕事のために、ひと足先に東京に戻る。みんなと挨拶を交わし、手配してもらったバンにひとり乗り込み、スワンナプーム国際空港へと向かった。

チュラロンコン大学のスタッフたちが手配してくれた、空港行きのバン。外見は普通のバンだったが、内装が皮張りのVIP仕様。経験上、タイはこういうところがとても手厚い(もちろん悪い気はしないのだけど、私的には正直、若干手厚すぎるように感じることもままある)。
「YEN TOWN BAND」のアルバム『MONTAGE』は、劇中でCHARA演じる「グリコ」が歌うシーンが印象的な、フランク・シナトラの「My Way」のカヴァーで締めくくられている。
ある男の人生の締めくくりを歌うこの曲であるが、しっとりとした曲調の中で、しっかりとした質感の残る歌詞が綴られている。
I've lived a life that's full I traveled each and every highway And more, much more than this I did it my way
(対訳:DeepL、ChatGPT、筆者一部改変)
「僕は満ち足りた人生を生きてきたいろいろなところへ旅をしてきたんだでもそれよりも大切なことは、僕は、僕なりのやり方で生きてきたということだ」
私がこうやっていろいろな国を体あたりで駆け巡っているのは、現在進行形で「My way」を体現したいからなのかもしれない。
前編の最後にもすこし述べたが、「外向きのチャレンジ(27話)」のために、私がこうして東南アジア諸国を飛び回るのにはある大きな目的がある。まだまだ道半ばであるので、それをまだ公にすることはできない。
しかし、それぞれの糸が少しずつ複雑に絡み合い、あるひとつの大きなうねりへとつながっていく手ごたえを感じ始めている。入国から出国までたった30時間の滞在ではあったが、たしかな質感を手のひらに感じながらバンコクを後にした。
文・写真/佐藤 佳