今年で59歳になる釈永信(手前)。全国人民代表大会の代表を約20年間も務めるなど政界の大物でもある
巨額の富と権力を築いた中国少林寺の住職・釈永信が、あまりにも俗物的なスキャンダルで失脚した。
不可解なのは持ち前の剛腕と政治力で守られていた男が、なぜ今になって"潰された"のか? 背後に見えてきたのは粛清を重ねる習近平政権の暗闘だった。中国の実情に詳しい安田峰俊氏が解説する。
■単なるナマグサ住職のスキャンダルではない
少林寺の住職、当局に捜査されて僧籍剥奪――。今年7月末、中国発のこんなニュースが世界で話題になった。
今回、捜査対象になったのは釈永信(しえいしん)という僧侶。武術「少林拳」で有名な、中国河南省にある嵩山(すうざん)少林寺の住職を長年務めた人物だ(ちなみに日本の「少林寺拳法」は、現代中国の少林拳とは別組織)。
今回、釈が捜査を受けた理由は、ネットに流れた真偽不明の情報によると、愛人51人、非嫡出子(ひちゃくしゅつしゅし)174人を持ち、資産総額は1500億ドル以上に及んだため......。
もちろん、これらの数字は「フカシすぎ」。だが、寺の資産の横領や、仏教の戒律を破って多数の女性と性的な関係を持ち私生児をもうけていたこと自体は事実のようだ。
中国では、当局の正式な捜査対象になることは(実質的に)有罪を意味する。そのため、中国仏教会は捜査が明らかになった翌日、早くも釈の僧籍抹消を発表している。
もっとも、この事件はただの「ナマグサ住職の笑えるスキャンダル」ではない。
釈は中国仏教協会の副会長で宗教界の重鎮だったほか、2018年まで全国人民代表大会の代表(国会議員に相当)を務めた政治家としての側面も持つ。彼の失脚は政治的事件なのだ。
実のところ、釈の不義不正は、とうの昔から周知の事実でもあった。15年に彼の弟子らが告発を行ない、中国社会で大きな話題になったからだ。
当時、この告発は世間を騒がせたものの、当局側が事実関係を否定。ひとまず沙汰やみになった。むしろ告発した弟子が逆にスキャンダルを食らわされたほどだ。釈の政治力の強さを示す話である。
今回の失脚劇の最大のポイントは、10年前に揉み消した話とほぼ同じ問題が蒸し返されたこと。さらに処分にまで至ったことのほうにある。
■「少林寺」上場を計画
少林寺と釈永信について、もう少し説明しておこう。
少林寺は495年に創建された伝統ある大寺院だが、近代以降の戦乱や文化大革命で破壊され、1970年代には無惨に衰退していた。
その運命を変えたのが、82年に公開されたアクション映画『少林寺』だ。同作は大ヒットとなり、国内外から観光客が殺到。そして86年に前住職の死去後を継いだ釈は、寺の再建に邁進する。
当時はちょうど、中国が資本主義を受け入れ始めた改革開放政策初期。そこで少林寺武僧団ショーの巡業を始めると、これが大当たりした。
釈は中国の僧侶として初めてMBA(経営学修士)を取得したと噂され、99年に正式に住職に就任する前後から複数の少林寺関連企業を創業。商標登録を通じてブランド確立に努めた。
やがて、香港で「少林寺の株式上場」を計画したり、オーストラリアで3億ドル規模のゴルフリゾートの建設をもくろんだりと(いずれも撤回)、話題を振りまくようになった。
こうしたビジネス手腕もあり、中国では皮肉も込め「少林CEO」と呼ばれるに至る。

釈のスキャンダルが再浮上する2ヵ月前、白馬寺を訪れた習近平(中央)。この写真には釈の後を継いだ印楽法師の姿も(前列左から3人目)
釈は98年から全人代の代表を務め、政界にも進出。江沢民(こうたくみん)ら往年の党指導部のメンバーとの交友は深かったとされる。
一方、こうした釈の姿勢については、15年の告発前から、批判的な世論が存在した。中国では日本以上に「僧侶は戒律を守り清貧であるべき」という考えが強いからだ。
だが、それでも彼がどこ吹く風だったのは、政治的に強力な後ろ盾がいたからだとする見立てが有力である。
汚職や贅沢を厳しく取り締まる習近平政権下で、スキャンダル告発後もなお10年にわたり好き放題できたのは、よほど強い誰かに守られていたため。中国社会の常識に照らすと、そう解釈するのが妥当だ。
■見え隠れする熾烈な暗闘
国内外の報道や論説では、釈永信の失脚の理由について以下の3つの仮説がある。
①党の宗教弾圧の強化
②財政難の地方政府による少林寺利権の接収
③党内の政治闘争を背景とした後ろ盾の消滅
ただ、①は説得力が弱い。習近平政権は確かに宗教統制に積極的だが、主な弾圧対象は「外国勢力」との結びつきが疑われがちなキリスト教やイスラム教だからだ。
漢民族の仏教は、この面では「優等生」で、すでに党の支配を受け入れて久しい。とっくに体制に組み込まれている中国仏教に、わざわざ弾圧を仕掛ける意味は薄い。
一方、②はやや有力な説だ。
ただし、釈は15年のスキャンダル告発事件を乗り切れるほど、強い政治的影響力を持つ人物。地方政府が自分たちの稼ぎだけを目的に彼を陥れるにはハードルが高い。
そこで③だ。ただ、釈の後ろ盾については、習近平に近い人物(もしくは習自身)とする説と、習派とは別人物とする説の双方がささやかれている。
仮に「後ろ盾=習近平」説を取る場合、釈の失脚は、彼を守れなかった習近平の権力失墜を意味する。少林寺は習近平と関係が良好なロシアのプーチン大統領のお気に入りでもあり、習近平と釈が友好関係だったという想像も不可能ではない。
だが、香港紙の報道によれば、習近平は今回のスキャンダルで少林寺の後任住職に就任した印楽法師という僧侶と、事件の約2ヵ月前に面会していたとされる。この話が正しいなら、釈の失脚は「習近平公認」と考えるのが妥当だ。

中国では国防部長を含む軍高官が次々と粛清されている。
釈は前々政権時代からの党内人脈の影響が強く、素行も悪い。折を見て排除したいと考えていた習近平が動き、自分が認めた人間を中国仏教界の高位に送り込んだというわけだ。
この仮説の場合、釈の失脚は習近平の権力が依然強固であることを物語る。
中国では近年、軍の高官が汚職容疑で相次いで処分されるなど、真相不明の失脚劇が相次いでいる。
習近平政権が掲げる〝反腐敗〟の名の下に、熾烈な政権闘争が見え隠れする中国。
スキャンダル再燃による少林寺の住職失脚という事件もまた、これらの一環に数えられるミステリアスな出来事なのかもしれない。
取材・文/安田峰俊 写真/時事通信社