激闘を演じた寺地拳四朗(左)とユーリ阿久井政悟(右)(写真/北川直樹)
2025年3月13日、東京・両国国技館で開催されたボクシング、WBA&WBC世界フライ級王座統一戦は、WBC王者・寺地拳四朗(BMB)が、WBA王者・ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)を12回1分31秒TKOで下した。
史上3度目となる日本人同士による世界王座統一戦。
11回終了時点の採点は2対1で阿久井優勢――しかし、最終12回、拳四朗の右ストレートが阿久井の顎を貫いて逆転し、王座を統一した。
あれから半年――。
両国の熱狂の陰で、何が起きていたのか。
拳四朗と阿久井――ふたりが繋いだ拳(戦い)の記憶と魂の軌跡。
いま、そのすべてを振り返る。
* * *
東京・両国国技館での激闘から1か月が過ぎた2025年4月16日、岡山・倉敷にある守安ジムを訪ねた。
あの日から半年が経ったいまも、著者の心にはあの試合の余韻が色濃く残っている。しかし、当時の現場で見えなかった表情や言葉は、時間をおいて初めて語られるものもあった。
試合を終えて10日ほどたった頃、守安竜也会長に電話をかけると、
「阿久井はもうジムに来とります、やる気満々ですわ」
と報告を受けた。
試合翌日の会見では現役続行か否かは明言しなかったが、早々に練習を再開したようだった。「ラスボス」と呼んで追いかけ続けた拳四朗に敗れたとはいえ、年齢は29歳。「まだまだ成長の余地はある」と自他ともに認めるだけに、「これで引退はない」とは思っていたが、わずか1週間で練習を再開したことには驚かされた。
阿久井の心は少しも折れていなかった。
むしろ「強くなりたい」という気持ちは、拳四朗に負けたことで、より増したのかもしれない。
寺地拳四朗の存在。
試合や当日を迎えるまでの思い。
そしてこれから先、ボクサーとしてどこに向かうのか。
直接会い、確かめたかった。
■誓い――悔いは微塵も残さない
取材同日、阿久井より先に、見守り続けた妻・夢と守安ジムで待ち合わせをした。
「現地で応援できない悔しさはありましたけど、不安は一切ありませんでした。誰よりも落ち着いた気持ちで、最後まで、見守ることができたと思います。練習を付きっきりで見ていたわけではないですが、『3月13日』という日を迎えるまで、強い覚悟を持って頑張ってきたことは理解していました。『調子はとても良い』と本人からも聞いていたので、試合当日は、ただ見守ることだけを考えていました」
第3子を妊娠中だった夢は体調を考慮し、試合当日は叔父に預けたふたりの娘たちだけ現地に赴かせ、自宅に残ってひとり、ライブ配信で観戦した。
試合前、夢は大一番に挑む夫と、こんな約束を交わした。

夢は家事と子育ての合間を見て、阿久井の様子を見に守安ジムを訪れる
「勝っても負けても、悔いだけは残らない試合にしよう」。
2024年1月23日、当時無敗の王者だったアルテム・ダラキアン(ウクライナ)に勝利して世界王座を獲得。初防衛戦は、桑原拓(大橋)に大差の判定勝利。2度目の防衛戦は、同級7位タナンチャイ・チャルンパク(タイ)に判定勝利した。
しかし、同試合は「2対1」という僅差の判定結果以上に、攻撃が単調になるなど、理想とはかけ離れた内容だった。
落ち込んだ阿久井は、岡山に戻ってからも悶々と過ごした。「ストレスで食事も喉を通らない程だった」という夫に対して、妻の夢は、慰めではなくこう発破をかけた。
「落ち込むのは別に構わんけど、このまま落ち込み続けても前には進まんよ」
WBAのタイトルを2度防衛に成功したことで、WBC王者・拳四朗との世界王座統一戦に対する周囲の期待は、俄然高まった。
ただ世界王者になってから8か月少々で、世界戦も通算3試合しか経験していない。一方、拳四朗は初の世界タイトル獲得から数えて8年目、ライトフライ級時代と合わせれば通算16度、世界戦を戦っていた。
阿久井は取材等で、拳四朗との統一戦について聞かれても、
「僕は、まだまだ新米の世界チャンピオンですから」
と答えていた。
時は待ってはくれなかった。
フライ級戦線は拳四朗を軸に、アンソニー・オラスクアガ(アメリカ・帝拳)、京口紘人(ワタナベ)、矢吹正道(緑)など役者も揃い、主要4団体のベルトを日本人が独占したバンタム級に負けず劣らずの活況を見せ始めていた。
同階級をさらに盛り上げるべく、プロモーターの帝拳ジム・本田明彦会長は囲み取材で、「拳四朗の次戦は、阿久井かオラスクアガ」と答え、ファンが「いますぐ見たい」と思えるカードを提供したい意向を示した。そして、明言はしなかったものの、拳四朗とはライトフライ級時代に対戦したオラスクアガではなく、「初対戦となる阿久井戦のほうが、より注目される」と考えているようにうかがえた。
夢は話を続けた。
「遅かれ早かれ、拳四朗さんと対戦しなければならないことは、本人も覚悟していました。それはもしかしたら、次の試合かもしれない。なのに、いつまでも『だめだった』と落ち込み続けていても、『前には進めない』と思いました。阿久井には『落ち込む所まで落ち込んだら、次はこれから先、どうするべきかを考えなければ、いけんのじゃない』と伝えました」
プロデビュー以来、練習方法は自分自身で考えて取り組んできた阿久井。守安会長は時折、「練習し過ぎて身体だけは壊さんように」と声をかける程度で、技術的なアドバイスはめったにしない。
ミットも日本王者になる前は構えていたが、両膝と両肩に、日常生活に支障をきたす痛みを抱えてからは出来なくなった。本格的なミット打ちは試合前のみ、外部トレーナーにお願いし、スパーリングは出稽古で補ってきた。
阿久井が地方ジムのハンデを克服して世界チャンピオンになれた理由は、人並外れたボクシングに対する貪欲さ、自主性があったからに他ならない。
ただし、それは強みである一方、迷いが生じた時は袋小路に入ってしまう危うさもあった。

守安ジムでサンドバックを大きく揺らすユーリ阿久井
「阿久井は、『自分ひとりで考えてボクシングをやりたい』というよりも、悩みを打ち明けたり、相談したりすることは苦手かもしれません。『誰かに相談して助けを得るよりも、自分で考えてやったほうが早いや』と考えているように思えます。高校時代から10年以上一緒に過ごして来ましたが、それは、結婚して初めて気付きました。
本当は誰かに助けて欲しい。そう考えていても、『迷惑はかけたくない』という思いが強過ぎて、何もかもひとりで抱え込んでしまう。
拳四朗さんとの試合に向けても同じでした。守安会長以外のメンバーは外部の方で、専属ではありません。本来の仕事の都合を調整して協力いただいている遠慮もあるのか、練習予定や当日の作戦も、ひとりで考えていました。『よくそこまで、ひとりで考えることが出来るな』と感心する一方で、『いまのままの状態で試合を迎えて欲しくない、なんとか力になりたい』と思いました」
「次は、拳四朗と世界フライ級王座統一戦か」と騒がれ始めた11月初旬、夢は阿久井に発破をかけると同時に、「拳四朗さんと試合をするとなったら、自分では何が足りないと考えているの?」とそれとなく聞いた。
「あまりしつこく聞かれても鬱陶(うっとう)しいでしょうから、そのあたりはタイミングを見計らいました」
様子を見て本題を切り出すと、阿久井は、「フィジカル面をもっとやらんといけん」と答えた。そこで、母校である環太平洋大学への協力を提案し、「相談してみてはどう?」と持ちかけた。
「警備会社の仕事も『拳四朗さんとの試合に向けて本気で頑張れる覚悟があるなら、会社を辞めても構わない。生活が厳しくなるようだったら、娘たちは姉に預かってもらい、わたしも、フルタイムの仕事に戻れるようにする』と伝えました。
もちろん、簡単に決めたわけではなくて、いろいろ悩んだ末に決めました。でも、拳四朗さん......。ボクサーとして目標にして来た相手とリングで向き合う時が迫っているのならば、『わたしも腹を括るしかない』と思いました」
夢にとって阿久井は、プロボクサーである前に、家族を何よりも大切にし、守ってくれる最愛のパートナーだった。
本音では「命の危険に晒されるようなことはやめてほしい。平凡な家庭を築きたい」と願っていた。それは、拳四朗戦を終えたいまも変わらない。
阿久井本人も、ボクシングは、人生そのものであることは間違いないが、「家族を犠牲にすることになるなら、迷わずグローブを置く」と人知れず決めていた。夢は、阿久井本人から言葉で聞かなくても、日常の姿から察していた。

拳四朗戦前、同門のプロボクサー相手にスパーリングをするユーリ阿久井
■「うまくいかなかったりしても『誰かのせいにするのは、絶対なし』ね」
阿久井にとって拳四朗戦は、世界チャンピオンになれた時とは別の意味、そして価値があった。
世界チャンピオンになれた時は、守安会長はじめ、守安ジムのプロ第一号だった父・一彦、元日本スーパーフライ級上位ランカーの叔父、赤澤貴之、そして、2度世界戦に挑むも夢敗れたウルフ時光など、「守安ジムの代表として、関わってきたすべてのひとたちの夢を叶えたい」という思いが強かった。
拳四朗と6年前、初めてスパーリングをした際に完膚なきまで打ちのめされ、現実を知った。そこから這い上がり、努力を積み上げて世界チャンピオンまでたどり着いた。そうして迎えた2025年3月13日は、ボクサーとして目標として来た存在を超えるための、自分自身との戦い。阿久井はそう考えていた。
ボクシングにより専念できる生活を始めるにあたり、夢は、ひとつだけ条件を出した。
「ボクシングをやるもやらんも、会社を辞めるか辞めないかも、自分で考えて決めて欲しい。家族としてサポートできることはすべてしたい気持ちでいます。ただ、それでうまくいかなかったりしても、『誰かのせいにするのは、絶対なし』ね」と――。
「阿久井は『じゃあ、もうここで辞めようかな』と答えたので、『辞めると決めた以上は、拳四朗さんとの試合に向けて、お世話になった方々に失礼のないように、本気でやらんと駄目だよ』と話しました」
2024年11月、阿久井は長年勤めた会社に退職届を提出した。試合前には必ず長期休暇を取得するなど、サラリーマンとして見ればわがままと言われてしまいそうなことも、会社の上司や仲間はみな快く受け入れてくれた。新たな船出も笑顔で祝福し、引き続き応援することを約束してもらえた。
以来、拳四朗戦を迎えるまでのおよそ4か月間、ボクシングを続けることに反対してきた夢が「初めて素直な気持ちで応援できた」と話すほど、阿久井は、強い覚悟を持って取り組んだ。
夢自身も余計な心配はせず、日常会話もなるべく控えるなど、可能な限りボクシングだけに集中できる環境に気を配った。ただし、その間も阿久井は、子育てに奔走する妻の姿を見かねて、炊事や雑用を率先して手伝ってくれたそうだ。
愛娘をお風呂に入れたり、練習を終えて家に戻れば以前と変わらない「良き夫」であり「良き父親」のままだった。
■決戦前夜――そして、賽は投げられた
2025年1月27日。WBC世界フライ級王者・寺地拳四朗(BMB)とWBA世界フライ級王者・ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)による王座統一戦が開催されることが正式に発表された。
日時は2025年3月13日、会場は東京・両国国技館――。
両国国技館は、本家ユーリこと「勇利アルバチャコフ」が1992年6月23日に世界初挑戦した場所でもあった。
昨年11月に倉敷守安ジムで取材した際は拳四朗戦について「尊敬する相手だからこそ思い切り殴れる。でも試合が終われば恨みっこなし。自分はそう考えています」と話した。しかし同日、記者会見場から出たところで声をかけると、淡々とした表情でこう答えた。
「お互い全力で戦うだけで、特別、拳四朗さんに伝えたい言葉はありません。実績には差があるので、自分が勝てば『大金星』と言われるかもしれません。でも、初めて追い越せるチャンスがきた。おそらく我慢比べの戦いになる。消耗戦、技術戦......それなりに準備はします」。
試合開催決定の記者会見から5日後の2月2日、阿久井はいったん岡山に戻ったのち、ふたたび上京。東京にウィークリーマンションを借りてスパーリング合宿に入った。
練習拠点は国内随一の名門・帝拳ジム。スパーリング相手は、WBO世界ライトフライ級王者(当時)の岩田翔吉、日本ライトフライ級1位・高見亨介(現WBA世界ライトフライ級王者)、そしてアマチュア世界選手権日本人初の金メダリスト、同興行でプロ転向初戦を控えた高校時代のライバルにして友人・坪井智也(現WBOアジアパシフィックバンタム級王者)など、実力者ばかりを相手に、週5日のペースでこなした。夢は当時についてこう話した。
「試合前にした最後のやりとりは、LINEのメッセージでした。普段は、試合の直前でもLINEでやりとりしますが、今回は一度きりでした。試合当日の夕方、滞在先のホテルを出発したぐらいの時間に『やり切って来い! 全部出し切って来い!』とエールを送ったら、一言だけ、『わかった』と返信が来ました」

「ラスボス」拳四朗との大一番へと向かうユーリ阿久井(写真/北川直樹)
「はじめに青コーナーより、WBA世界フライ級チャンピオン、ユーリ阿久井政悟選手の入場です!」
リングに上がった阿久井の表情は、妻の夢には驚くほど落ち着いて見えた。前回のチャルンパク戦は、逸(はや)る気持ちを抑えきれず、必要以上に気負っていたようにも感じたが、今回は、目の前にいる拳四朗とだけ向き合おうとしている様子が伝わってきた。
夢はこの時、
「どんな結果になるにせよ、彼は、最後までやり切ることができる」
と確信した。
ただひとつだけ、気がかりなことがあった。
試合を迎えるまでに、阿久井が何度もこんな話をしていたことだ。
「『拳四朗さん一人だけだったら怖いとは思わない。でも、後ろに控えている加藤さんやチームの存在は怖い』と話していました。三迫ジムには何度も出稽古に通って、拳四朗さんと加藤さんの関係性やチームとしての強さを目の当たりにしたので、『それはどうしても気になる』と。拳四朗さんのチームや、加藤さんへの警戒心は、試合当日まで消えなかったようです」
阿久井が恐れた「チーム拳四朗」のチーフトレーナー、加藤健太の存在――。
しかし、拳四朗と一緒に幾度なく修羅場を潜り抜けて来た加藤もまた、阿久井に対して、過去にないほど強い警戒心を抱いて当日を迎えていた。

■ユーリ阿久井政悟(あくい・せいご)*写真左
1995年9月3日生まれの30歳。岡山県倉敷市出身。本名は阿久井政悟。父親と叔父も元プロボクサーという環境に育ち、中2から倉敷守安ジムで本格的にボクシングに取り組む。地元の環太平洋大学進学後の2014年4月にプロデビューし、翌年、全日本新人王獲得。2019年10月、日本フライ級王座獲得。2024年1月、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に判定勝利し、岡山県にあるジム所属として初の世界王者に。2025年3月13日、寺地拳四朗とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦では最終12回TKOで敗れる。通算戦績は25戦21勝(11KO)3敗1分け。
■寺地拳四朗(てらじ・けんしろう)*写真右
1992年生1月6日まれの33歳。京都府出身。B.M.Bボクシングジム所属。2014年プロデビューし、2017年、10戦目でWBC世界ライトフライ級王座獲得。9度目の防衛戦で矢吹正道に敗れて王座陥落するも、翌2022年の再戦で王座奪還。同年11月には京口紘人に勝利してWBA王座獲得し2団体統一王者に。2025年3月13日、ユーリ阿久井政悟とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦でも勝利し、二階級で世界2団体統一王者に。2025年7月30日、リカルド・ラファエル・サンドバルに判定負けを喫して王座陥落。通算戦績は27戦 25勝 (16KO) 2敗。
取材・文・撮影/会津泰成