【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】裏コード9...の画像はこちら >>

「化身」になる覚悟で拳四朗に挑んだユーリ阿久井(写真/北川直樹)
2025年3月13日、東京・両国国技館で開催されたWBA&WBCフライ級王座統一戦。5回、阿久井は被弾しながらも前進を止めず反撃に転じた。
拳四朗に傾きかけた勝負の流れを一気に取り戻した原動力は、入場曲に選んだアニメのクライマックスシーンに見た、化身となったヒロインの姿だった。

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拳四朗との世界フライ級王座統一戦という大一番。毎回、入場曲を変える阿久井が今回選んだのは、人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の中で、物語のクライマックスで流れた楽曲だった。ちなみに、『新世紀エヴァンゲリオン』の初回放送は、阿久井が生まれた1995年9月3日の1か月後、10月4日だった 。

「全リミッターを解除。裏コード999(スリーナイン)!」

戦うことを宿命づけられた少女アスカ・ラングレーは、このBGMが流れる場面で、そう叫びながら戦いに身を投じて使徒化し、人間ではない存在――「化身」へと変貌を遂げる。

『裏コード999』とは、極秘の非常事態にのみ使用される特別指令。アスカは命さえ顧みず、圧倒的な力を発動する最後の手段に打って出る。

阿久井はシリーズの大ファンとしてこの場面を胸に刻み、「化身になってでも、拳四朗さんを超えてみせる」と決意してリングに上がった。環太平洋大学で取り組んだ低酸素トレーニングでは限界を超えて自らを追い込み、何度も過呼吸で床に倒れ込んだ。

すべては「ラスボス・拳四朗」に勝利するために――。

持てる技術、戦術、そして一戦に懸ける思いを最後まで発揮出来るスタミナを手にした阿久井は、5回、内なる「裏コード999」を自らに発動して使徒化、アスカさながらの「化身」となって、拳四朗に襲いかかった。


【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】裏コード999。「化身」に変貌した阿久井が、絶対王者を追い詰めた瞬間(12回連載/6回目)
鬼気迫る表情で拳四朗に襲い掛かるユーリ阿久井(写真/北川直樹)

鬼気迫る表情で拳四朗に襲い掛かるユーリ阿久井(写真/北川直樹)

■阿久井の「思惑」――加藤の「焦燥」

「チーム拳四朗」の参謀・加藤は5回、思いがけない反撃に転じてきた阿久井に、焦燥を覚えた。

「4回にペースを上げて良い流れを掴めた。『いつもの勝ちパターンになった。このまま崩していける』と思いました。でもユーリ君は、自分の身体に鞭を打つようにして気合を入れ直し、拳四朗が1発打てば2発、2発打てば3発、4発と、必ず多くパンチを打ち返してきた。あれは、気合以外の何物でもない。『この展開は厳しい』と焦りました」

一方、阿久井は5回の反撃について、こう振り返った。

「初回から全力で戦っていたので、もちろんキツかった。でも、『最後までやり切る』と決めていました。過呼吸になるほど追い込んできたから、試合中は『普段の練習の方が楽だ』と考えられた。新しいトレーニングで気づいたのは、『結局、最後は自分自身との戦い』ということでした。心拍数を上げる練習でも『今日より明日、今週より来週』と数値を上げ続けることだけを考えました。

拳四朗さんの存在は常に頭にありました。

でもやがて『相手を意識するより自分を高める方が大切』と思うようになったんです。

実際に試合が始まって感じたのは、『拳四朗さんを支えているのは、やはり加藤さんやチームの存在』ということ。自分の"全力でやり切る"という戦略は加藤さんに読まれている――それも承知の上で、『ならば、加藤さんの予想を覆せるだけのスタミナで最後まで出し切れば勝てる』と考えました。良い面も厳しい面も、すべて思惑通りでした」

5回は3者とも「10対9」で阿久井支持。6回も阿久井は下がらず前進し、ジャブ、ストレート、左アッパーと多彩なパンチを、低い体勢のまま内側から絞るようにコンパクトかつ力強く打ち込んだ。

対する拳四朗も、接近戦を挑む阿久井に臆せず、攻撃の隙間を見逃さず、生命線の左リードジャブと得意の右ストレートに加え、上下左右に打ち分けるアッパーで的確に打ち返した。

互いの積み重ねと持ち味がぶつかり合う攻防――。

ただ「必ず優劣をつける」とすれば、圧力で勝る阿久井のほうが、やや優勢に思えた。6回の採点は、2人が阿久井に「10対9」、1人が拳四朗に「10対9」を付けていた。

阿久井に、加藤の存在についても聞いた。

「加藤さんは、指導者でありながら現役ボクサーの視点で戦略を練る方だと感じます。三迫ジムでの指導やセコンドの姿からも、伝わってきました。

独自の視点を持ち、細部まで観察・分析して試合に備える。『どうしたらあの視点、思考に近づけるか』は、いまの自分の、課題でもあります」

小さな地方ジム所属という立場から世界王者にたどり着けた背景には、阿久井の研究心、貪欲さ、自主性がある。2019年4月、すでにWBC世界ライトフライ級を5度防衛していた拳四朗とのスパーリングで完膚なきまでに叩きのめされた阿久井は、目指すべき基準を「拳四朗」に設定し、ここから6年の追走が始まった。

世界チャンピオンになれたことは、阿久井にとってひとつ願いが叶った瞬間だったが、自分と同じ土俵、「フライ級」に階級を上げた拳四朗と戦い、勝利することが夢の着地点だった。

拳四朗を追いかける過程の中で、阿久井は「加藤健太」という参謀の存在の大きさが、強さの源であることに気付いた。拳四朗の強さは、本人の実力はもちろん、加藤そしてチームの支えがあって発揮されているのだ、と。

同時に、それはボクシングについてほぼすべて、ひとりで考えて来た自分との大きな違い、埋められない差であることも、阿久井は思い知らされたのだった。

■師匠・加藤の"対拳四朗"策と一致した阿久井の戦法

ボクサー寺地拳四朗から勝利を掴むためには、加藤を含めた「チーム拳四朗」に勝たなければいけない。

妻の夢に打ち明けた「拳四朗さん一人だけだったら怖いとは思わない。でも、後ろに控えている加藤さんやチームの存在は怖い」という言葉の真意はその思いにあった。

岡山で阿久井に会った数日後、三迫ジムを訪ねて加藤に、あらためて話を聞いた。阿久井の立てた「最初から最後まで全力でやり切る」という戦略を、どう受け止めたのか。思考はあまりにシンプル、真っ正直過ぎる気もしたからだ。

答えは意外だった。

「拳四朗に勝つためのベストの作戦だったと思います。試合後に映像を見返して"面白いな"と感じたのは、ユーリ君が、自分が拳四朗とマスをする時と、同じ戦い方をしていたこと。とにかく動き、数多く打ち返す。自分もマスといえ負けたくないので、拳四朗に『加藤さん、こんな動けんの!?』と言われるくらい動き回ります。『この場面はこう打ち返す』『ここは必ずついていく』という局面で、ユーリ君は自分のイメージ通りの動きを見せていました。自分はスタミナがないから3回までしか対応出来ません。でもそれを最後までやり切ろうとしたのが、ユーリ君でした」

現在39歳の加藤は、日頃から現役さながらの強度でマスをこなす。20歳でデビューし、2006年度東日本新人王(Sライト級)で決勝進出。右拳のケガで1年のブランク後、2008年度はライト級で出場し、のちの日本王者・細川バレンタインとも引き分けた。将来を嘱望されたが網膜剥離を患い、24歳で引退。

生涯戦績は11戦9勝(7KO)1敗1分だった。

加藤に

「もし阿久井陣営だったら、拳四朗とあの戦略で戦ったと思うか」

と聞いた。すると即座に

「やると思います」

と答え、

「"あの作戦を自分で考えてやり続けた"ことは、本当に凄いなと思いました。でも、それが出来るボクサーが相手とわかっていたからこそ、自分も警戒しましたし、怖さや焦燥も覚えました」

と振り返った。

【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】裏コード999。「化身」に変貌した阿久井が、絶対王者を追い詰めた瞬間(12回連載/6回目)
拳四朗は、常に加藤と意見を交わし合いながら練習に取り組んでいる

拳四朗は、常に加藤と意見を交わし合いながら練習に取り組んでいる
■阿久井の僅差リードで折り返し、勝負は後半戦へ

史上稀に見る激戦となった世界フライ級王座統一戦は、6回終了時点で2対0(阿久井側:59-55/58―56/57―57)。阿久井がわずかにリードして折り返した。

6回終了後、阿久井は自陣に戻る際、大きくガッツポーズ。一方、いったんは流れを掴み、勝ち筋が見えた拳四朗、そして参謀・加藤は、逆に追い込まれた。

加藤はインターバル、「このままでは負けパターンにハマる。軌道修正が必要」と判断し、拳四朗の正面で膝をついて視線を合わせ、深呼吸を促しながら「ボディ打ってから、脚を切り換えて」と戦術を伝えた。

「絶対、弱気になんなよ。弱気になんなよ」

横井はロープ越しに右側から素早くマウスピースを洗浄、装着し、呪文のように耳元で囁いて鼓舞した。

篠原は静かに右肩をアイシングしつつ、首裏のツボ押しで回復を促した。

知力、気力、そして体力――。

7回のゴングと同時に立ち上がった拳四朗は、リング中央へと向かった。

【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】裏コード999。「化身」に変貌した阿久井が、絶対王者を追い詰めた瞬間(12回連載/6回目)

■ユーリ阿久井政悟(あくい・せいご)*写真左 
1995年9月3日生まれの30歳。岡山県倉敷市出身。本名は阿久井政悟。父親と叔父も元プロボクサーという環境に育ち、中2から倉敷守安ジムで本格的にボクシングに取り組む。地元の環太平洋大学進学後の2014年4月にプロデビューし、翌年、全日本新人王獲得。2019年10月、日本フライ級王座獲得。2024年1月、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に判定勝利し、岡山県にあるジム所属として初の世界王者に。2025年3月13日、寺地拳四朗とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦では最終12回TKOで敗れる。通算戦績は25戦21勝(11KO)3敗1分け。

■寺地拳四朗(てらじ・けんしろう)*写真右 
1992年生1月6日まれの33歳。京都府出身。B.M.Bボクシングジム所属。2014年プロデビューし、2017年、10戦目でWBC世界ライトフライ級王座獲得。9度目の防衛戦で矢吹正道に敗れて王座陥落するも、翌2022年の再戦で王座奪還。同年11月には京口紘人に勝利してWBA王座獲得し2団体統一王者に。2025年3月13日、ユーリ阿久井政悟とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦でも勝利し、二階級で世界2団体統一王者に。2025年7月30日、リカルド・ラファエル・サンドバルに判定負けを喫して王座陥落。通算戦績は27戦 25勝 (16KO) 2敗。

取材・文・撮影/会津泰成

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