2010年の福岡県のビル発砲事件で、工藤会の会長だった野村悟被告を捜索する県警捜査員ら。この4年後に野村被告は逮捕され、現在は最高裁での審理を待つ身だ
市民を狙った殺傷事件を繰り返し、唯一の特定危険指定暴力団に指定される工藤会。
■拘留中のトップに2000万円
毎日新聞は9月11日、「工藤会トップに山口組ナンバー2が2000万円 弱体化で吸収画策?」との見出しの記事を報じた。記事中では名前は伏せられていたが、山口組の高山清司相談役が福岡拘置所に拘留中の工藤会の実質トップで、殺人罪などで1審死刑、2審で無期懲役判決を受けて上告中の野村悟被告に対し、1審判決前の2020年9月以降に2回面会し、計約2000万円を差し入れたと報道。また、現在も福岡市を本拠とする山口組直系団体のトップが毎週のように野村被告の面会に訪れているとも指摘し、最高幹部の摘発で弱体化する工藤会を、山口組が取り込もうと画策しているとの観測を示した。今回の記事について、実話誌記者が語る。
「高山相談役による接見は、当時も実話各誌が報じました。高山相談役は当時は山口組ナンバー2の若頭で、実質トップとはいえ他組織の野村被告に面会するのは異例。しかも、コロナ禍で山口組でも感染対策として不要不急の外出や会合を避けるようにお達しが下り、神戸山口組との抗争も抱える中で敢えて接見に訪れたということで、その真意を巡って業界内では『合併の打診だ』、『単なる慰労』などと様々な憶測が飛んでいました」(実話誌記者)

野村被告と工藤会ナンバー2の田上不美夫被告が勾留されている福岡拘置所
工藤会は、野村被告が四代目会長だった2008年に構成員1210人を抱えてピークを迎えたが、その後は福岡県警による幹部クラスの一斉摘発により脱退者が続出。昨年末時点では福岡、山口、千葉の3県で310人と全盛期の4分の1程度まで減っている。
北九州市内にあった本部事務所は21年に撤去され、今年6月には、警察の厳しい取り締まりから逃れるため、工藤会を解散させて新組織への衣替えを画策した幹部2人が永久追放を意味する絶縁処分となるなど組織の動揺が目立つ。
「処分された2人は、特定危険指定の解除を狙って動いたとみられる。特定危険指定は、事務所に多数の組員が集結できなかったり、構成員がみかじめ料をせびった際に中止命令などの行政処分を経ることなく逮捕できてしまう。
山口組も神戸山口組との抗争で特定抗争指定を受け、抗争事件を出来(しゅったい)させた事務所の使用禁止が続いているが、工藤会は抗争に関係なく、仮に山口組入りした場合に事務所使用禁止が適用される口実にはならない」(暴力団事情に詳しいA氏)
■血塗られた抗争の過去も
山口組と工藤会を巡っては、浅からぬ因縁がある。
1963年、全国侵攻を活発化させていた山口組系列組織が小倉に事務所を立ち上げると、工藤会の前身組織である工藤組は反発。工藤組幹部が山口組の事務所を襲撃し、山口組は報復でこの幹部を射殺。工藤組も、山口組系の組員2人を拉致し、小倉を流れる紫川でいずれも撲殺するという紫川事件を起こして徹底抗戦。警察の厳しい取り締まりにより、その後に手打ちとなって山口組の小倉進出は頓挫した。
紫川事件で逮捕された工藤組の当時の幹部が離反して77年の出所後に自らの組織である草野一家を起こし、また山口組に接近して福岡市を本拠とする幹部と兄弟杯を交わしたことで工藤会と亀裂が生じた。そして、工藤会と草野一家による抗争が勃発し、幹部が射殺される事件も起きた。その後、87年に両者は再統合を果たし、後の工藤会へとつながっていく。その後、工藤会は「モンロー主義」を採って山口組を含む他組織の小倉進出を防いできたが、歴史の裏では菱の代紋が暗い影を落としてきた。
一方で、山口組からは全国制覇という見果てぬ野望が透ける。
「昭和の頃のように全国各地で抗争を繰り広げることはできませんが、他組織の糾合は手段を変えていまも続いています。
今回の工藤会への接近は、その一環かもしれません。コストのかかる抗争ではなく、強大な組織力を背景に平和裏に飲み込んでいくという手法が、今後の全国制覇のカギとなるのでしょう」(前出実話誌記者)
北風から太陽へ。手を変え品を変え、山口組の全国戦略は続いていく。
文/大木健一 写真/時事通信社、法務省HP