「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の...の画像はこちら >>

先月25日、WBOアジアパシフィック・バンタム級2位の伊藤千飛は、エディオンアリーナ大阪で同級9位のリカルド・スエノと対戦。終始圧倒し、2回1分48秒TKOでデビューからの連勝を5(4KO)に伸ばした。

デビュー5連勝を飾った同日の3か月前。千飛は、メディア等から"モンスター2世"あるいは"ミライ・モンスター"と称される坂井優太のスパーリングパートナーとして大橋ジムに呼ばれていた。それは初めて、憧れ続けてきた井上尚弥と対面する機会を得た瞬間でもあった。

【憧れの存在からのサプライズ】

「スパーリングが終わった後、尚弥さんが『ナイススパー!』と声をかけてくれました。そのあと、『次の試合で使う分が出来上がったから、あげるよ』と言って、Tシャツを手渡してくれたんです。びっくりしました。伊丹から親父も見学に来ていたのですが、もう大興奮でした」

Tシャツを手渡された瞬間、千飛は、驚きのあまり声を出すこともできなかった。我に返ると「ありがとうございます」と大きな声でお礼を伝えた。黒ベースに胸あたりに大きな白い文字で「NAOYA INOUE」とロゴの入ったTシャツは非売品、後援会関係者専用のアイテムだった。

当時、井上尚弥は2か月後の9月14日、自身が「過去最強の挑戦者」と位置付けるWBA世界スーパーバンタム級暫定王者、ムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)と4団体統一戦を控えていた。

自らの練習中は近寄り難いオーラを発していたが、終わればいつも気さくに接してくれた。大橋ジムでのスパーリング合宿中、千飛が気軽に話せたのは、井上尚弥と、大橋会長のふたりだけだった。

父親に自分のスマートフォンを渡し、一緒にファイティングポーズをとり記念撮影。宿に戻る途中の電車の中でスマートフォンの画像を見返すと、穏やかながら引き締まった表情の怪物に並び、紅潮し、口元を開いてにやけた自分の顔がおかしかった。

「身長は自分の方が高いですが、尚弥さんは、背中の厚みが半端ない。スパーリングは時間が合わず見ることはできませんでしたが、ミット打ちは見学できました。とにかく迫力が凄くて圧倒されました。トレーナーに対して、試したいコンビネーションを的確に伝える。終われば、『受けてみてどうだったのか』を確認して、さらに自分の意見を伝える。納得できなければ『もう一度、お願いします』とやり直し。練習後も、姿見の前で延々とフォームを確認していました。どんな練習もひとつひとつ、丁寧に繰り返す姿が印象的でした」

【嫉妬と刺激】

「優太とは中2以来、久しぶりにスパーリングをしました。『足を使って動いて、長いリーチを生かして遠い距離から速いワンツー。打ったらすぐに回る』みたいなスタイル自体は、昔と変わらんけど、やっぱり強い。

当時より、クリンチワークが上手くなった印象です」

「高校6冠」、「世界ユース選手権金メダル」という実績を提げて、鳴り物入りでプロ転向した坂井は、子供の頃から指導を受ける父親、伸克トレーナーとともに上京。井上尚弥と真吾トレーナーと同じように、「親子鷹」で世界を目指している。

デビュー戦はタフなコリアンファイター相手に初回、右フックでダウンを奪うと、2ラウンドは連打でコーナーに詰めてそのままTKO勝利。4戦目で日本ユースバンタム級王座獲得し、千飛より一足早くプロ初タイトルを獲得した。地域ではなくあくまで"世界"を見据える坂井は、即座にタイトル返上。千飛とのスパーリング時は、デビュー以来続く、5戦連続KO勝利のかかる試合を1か月後に控えていた。

「中2のスパーリング大会では自分が勝ちましたけど、高校ではだいぶ差をつけられてしまった。『プロでは絶対負けない、必ずやり返してやる』と決めています」

スパーリング大会以来、おたがい相手に対するライバル意識はより強くなった。盟友であることは変わりないが、プライベートで会うことはもちろん、連絡を取り合うこともない。坂井は高2の夏、インターハイでの活躍が大橋会長の目に留まったことで、高3夏には大橋ジムで練習する機会を得、井上尚弥とも一緒に汗を流した。大橋ジム所属を決めた最大の理由は、「井上尚弥」の存在であることは、聞かなくてもわかった。

プロ転向してまもなく、同門になった自分も憧れるボクサーから、使っていたグローブを譲り受けたことは風の噂で知った。

直接聞いたわけではないので、事実かどうかはわからなかったが、千飛にとってそれは少なからず、嫉妬心をくすぐる知らせだった。同時に、「優太には絶対、負けない」という覚悟をより強くした。

「メッチャやられてしまった日もありましたが、『自分の方が優っていた』と思える日もありました。でも、本当の勝負は試合のリング。いまは優太のほうが大きく注目されていますが、必ず追い越してみせます」

3週間に渡る大橋ジムでのスパーリングは毎回、一進一退の白熱した攻防が続いた。初日のスパーリングを見た大橋会長は自身のブログで、「恐ろしくレベルの高いスパーリングでした」と綴り、井上尚弥も、最終日まで毎回のように、後輩の様子をリング脇まで来て見守ったそうだ。

「仮に、今回のスパーリング期間中すべて合わせて勝敗を決めるとすれば」

と、千飛に聞いてみた。千飛は少し考えてから、「そうですね、うん、『引き分け』かな」と答えた。

「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の夢<後編>
「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の夢<後編>
「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の夢<後編>
「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の夢<後編>
WBOアジアパシフィック・バンタム級9位のリカルド・スエノを終始圧倒した千飛。来年、地域タイトル挑戦の期待も一気に高まった

WBOアジアパシフィック・バンタム級9位のリカルド・スエノを終始圧倒した千飛。来年、地域タイトル挑戦の期待も一気に高まった

【ミライ・モンスター】

2025年8月21日、坂井は8回戦で5回2分47秒KO勝利。デビュー戦からの連続KO記録も5に伸ばした。

2ヶ月後の先月25日、千飛も同じくバンタム級8回戦で2回1分48秒TKO勝利。

ふたりの通算成績はともに5戦5勝と並んだ。

同じバンタム級で世界を目指すふたつの才能――。

試合で拳を交える日も、いつか必ずやってくるに違いない。

「プロ転向したばかりの頃は、『優太とはすぐにでも決着をつけたい』と考えていました。でも、スパーリング最終日に優太のお父さんからは『おたがい世界チャンピオンになるまで、やらへん。統一戦でやるほうが、絶対盛り上がるやろ』と言われました。自分自身も、『たしかにそのほうが面白い』と新たな目標が出来ました」

試合翌日、難波の街で記事用の写真撮影をした。

井上尚弥からもらった黒いTシャツを着て現れた千飛。写真撮影の途中、通りすがりの外国人観光客が近づいてきて、明るい日本語で話しかけてきた。

「アナタ、イノウエ・ナオヤサン、デスカ?」

男性は、胸に「NAOYA INOUE」と書かれたTシャツを着た逞しい体躯の若者が写真撮影している様子を見て、井上尚弥本人と思ったらしい。

思わぬ勘違いに、千飛は、照れ笑いを浮かべて首を横に振った。

著者が男性に、「彼もプロボクサー。

井上尚弥と同じように、世界チャンピオンになれる逸材と期待されている」と伝えると、男性はフランスに戻ってからも応援すると約束し、並んで記念写真を撮った。

ファインダー越しに覗いた、まだ少年のあどけなさが残る二十歳の若者は、右拳を静かに握りしめた。

――12年後。

井上尚弥と同じ32歳になった時、千飛は難波の街で外国人観光客から、こう声をかけられるかもしれない。

「アナタ、イトウ・セントサン、デスカ?」とーー。(了)

「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の夢<後編>

●伊藤千飛(いとう・せんと) 
2005年6月25日生まれ、20歳。兵庫県伊丹市出身。元プロキックボクサーの父親の影響で4歳からキックボクシングを始め、ジュニア日本王者に。同時にボクシングにも取り組む。興国高校進学後、ボクシングに専念し選抜2冠、アジアユース&ジュニア選手権で銅メダル獲得。2024年1月にB級ライセンス取得し同年4月20日にプロデビュー。戦績5戦5勝4KO。
日本バンタム級12位、OPBF東洋太平洋同級8位、WBOアジアパシフィック同級2位。

取材・文・撮影/会津泰成

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