エイズの流行をもたらしたのは誰か? 感染症の「ゼロ号患者」を突き止めることはきわめて困難であり、それはスティグマを生むだけの行為にすぎない(写真はイメージです)。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第156話
「エイズをアメリカ合衆国に持ち込んだ男」というレッテルを貼られたひとりの男がいる。
* * *
【感染症の「スティグマ」】言われのない偏見や差別などによって植えつけられた負のイメージ、あるいは風評被害のことを「スティグマ(stigma)」と言う。
人種やLGBTQ、身体的な障碍(しょうがい)に対して用いられることが多い用語であるが、9話で新型コロナウイルス、77話でSARSコロナウイルス、91話でエムポックスウイルスの例を挙げているように、感染症にも縁深い用語でもある。
感染症にまつわるスティグマにはいろいろな種類のものがあるが、そのひとつが、「建造物や地域」にまつわるスティグマである。たとえば、SARSコロナウイルスにとっての「香港のメトロポールホテル」(77話)、エイズウイルスにとっての「(1980年代の)サンフランシスコのカストロ地区」(151話)などがそれに該当する。
つまり、そこが感染症の発信源になったことによって風評被害の対象となり、ネガティブな印象、つまり「スティグマ」が植えつけられてしまう、というものである。
【「エイズをアメリカ合衆国に持ち込んだ男」?】エイズについては、「カストロ地区(151話)」に加えてもうひとつ、有名なスティグマの逸話がある。今回のコラムでは、それを紹介したいと思う。それは、「エイズをアメリカ合衆国に持ち込んだ男」という、都市伝説のようなスティグマを植えつけられた男の話である。
その男の名前は、ガエタン・デュガ(Gaëtam Dugas)。フランス系カナダ人で、エア・カナダのフライト・アテンダントを務めていた。1984年、エイズ患者どうしのつながりを調べたある臨床研究論文が発表された(*1)。
『American Journal of Medicine』という科学雑誌に発表された論文に掲載された図(引用・改変)。丸ひとつひとつがエイズ患者で、図中「LA」はロサンゼルスの、図中「NY」はニューヨークの患者。この感染者どうしのつながりのハブに位置する、「0(ゼロ)」とラベルされた患者がデュガ(赤丸)。
この研究によって、デュガが、ロサンゼルスとニューヨークのふたつの大きな感染クラスターのハブとなっていることが示唆された。
彼の検体は最初、「カリフォルニア州の『外の患者("Outsider"あるいは"Out-of-California")』」という意味で、「patient "O(オー)"」とラベルされていた。しかしそれがいつの間にか、「O(オー)」が「0(ゼロ)」と誤読されるようになっていった。
エイズウイルスが、アフリカから、カリブ海に浮かぶ国ハイチを経由してアメリカへと広がったことは151話で紹介した。
デュガにまつわる誤報は、大手既成メディアによって匿名が解かれ、「このガエタン・デュガという患者こそが『patient "0(ゼロ)"』、つまり、エイズウイルスをハイチからアメリカ合衆国に持ち込んだ『ゼロ号患者』である!」というデマが流布してしまったのである。
彼がゲイであること、フライト・アテンダントとしてアメリカの大都市を行き来していたことなども、その流布を助長する要因となった。
これによってデュガとその家族は誹謗中傷の的となり、スティグマを背負うこととなる。このインフォデミックの被害者となったデュガは、この疑念を晴らすことができないまま、1984年、エイズ関連腎疾患でこの世を去った。
【「分子系統学」という探偵道具】この連載コラムでは、「エイズウイルスの起源は、チンパンジーが持っているウイルス」ということを紹介したことがある(5話、151話)。
また、これは私たちの現在の研究テーマにも関連するところであるが、「SARSコロナウイルスや新型コロナウイルスの起源は、コウモリが持っているウイルス」であると考えられている。これらはいったい、何を根拠に言及されているのか?
ウイルスの伝播のルートをたどることができる、探偵のような研究手法がある。それこそが、私が「グラスゴー長期出張(87話)」で習得を試みた、「分子系統学」という研究手法である。
ウイルスのゲノム配列を調べ、その類似性から「系統樹」というトーナメント表のような図を作り、ウイルスの類似性・近似性を可視化するのである。
この方法でウイルスゲノムを調べると、エイズウイルスはチンパンジーが持っているウイルスのグループに含まれ、新型コロナウイルスはコウモリが持っているウイルスのグループに含まれる形になる。
これはつまり、エイズウイルスはチンパンジーが持っているウイルスから、新型コロナウイルスはコウモリが持っているウイルスからそれぞれ派生したことを示唆する。
アメリカ・アリゾナ大学のマイケル・ウォロビー(Michael Worobey)らは、1978年~79年のアメリカの同性愛者の血清を集め、そこに含まれているエイズウイルスのゲノム配列を、「分子系統学」の方法を使って調べた。
その結果、当初考えられていたよりもずっと早い70年代前半には、エイズウイルスはアメリカ合衆国にすでに侵入していたことが示唆された。つまり、デュガが感染するよりずっと前に、ウイルスはアメリカにすでに存在していたのである。
ウォロビーらはさらに、残されていたデュガの検体を再解析し、デュガが感染していたエイズウイルスの配列を調べ、それを、1978年~79年にアメリカで流行していたウイルス配列と比べてみた。
その結果、デュガのウイルスは、70年代後半に流行していたウイルスの「末裔」に位置するものであり、それらの「祖先」ではないことがわかった。
つまりデュガは、当時すでにアメリカ合衆国で流行していたウイルスに感染したにすぎず、この科学的知見をもって、「エイズをアメリカ合衆国に持ち込んだ男」というデュガのスティグマは晴らされたのである(*2)。
そして、このデュガの冤罪を晴らしたウォロビーらの研究成果は、2016年に科学雑誌『ネイチャー』に発表された(*3)。
【「感染をもたらしたのは誰か?」】上記のデュガの例は極端にしても、「感染をもたらしたのは誰か?」という謎解きのような発想自体が、感染症につきまとうスティグマのようなものである。これは、新型コロナパンデミックを経験した現在の私たちには理解しやすい、誰しもが経験したことがあることではないだろうか。
ある集団に感染をもたらした人、つまり「ゼロ号患者」を突き止めることはきわめて困難であり、それはスティグマを生むだけの行為にすぎない。そして新型コロナの場合には、自分が次の感染クラスターの「ゼロ号患者」になってしまう可能性は誰しもにあるのである。
誰かにスティグマの烙印を押す行為は翻(ひるがえ)って、自分がスティグマを背負う可能性と表裏一体である。
そもそも、「ゼロ号患者」が見つかったところで、何も解決しないのである。感染をもたらしてしまった人を見つけ出し、それを非難するのではなく、やはりそれぞれが感染対策をして、感染を広げないように努めることの方が、その原因を探るよりも、感染症対策という文脈においてははるかに大切なことだと私は思う。
文・写真/佐藤 佳
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