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豊臣秀信とは、どんな人物だったのか?

豊臣秀吉と弟の秀長。彼らはふたりで天下を取った。

しかし、秀長が何をしたかはあまり知られていない。どんな人物だったのか? どんな功績を上げたのか? その人物像に迫った! これで君も秀長博士になれる!?

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【秀長は秀吉よりも人たらしだった!?】

2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を主人公にした物語だ。しかし、秀吉に比べて秀長はそれほど知られていない。では、秀長とはどんな人物だったのか?

大河ドラマ『真田丸』(16年)や『どうする家康』(23年)などの時代考証を務めた健康科学大学特任教授で歴史学者の平山 優氏に聞いた。

――豊臣秀長が主人公の大河ドラマが始まりました。

平山 秀長は、現場を動かしていく実務能力がとても高い人で、特に諸大名との調整役や調停役として優秀でした。秀吉はよく〝人たらし〟といわれていますが、秀長も秀吉と同じか、それ以上に人たらしです。

例えば、あるとき、毛利輝元は秀長が治める大和(現在の奈良県)に招かれました。すると、向こうから馬に乗った男がひとりやってきます。誰だろうと思ってよく見ると秀長でした。お供も連れずに毛利輝元を迎えに来たのです。

そして、大和に着くと大歓迎、大接待。

毛利輝元の家臣はもちろんのこと、人足のところにも顔を出して「みんな食べてるか? 飲んでるか? どんどんやってくれ」と声をかけて回りました。さらに馬の飼い葉まで準備していたのです。

そして、立派なお土産まで用意してくれて、毛利家はお金を一切出すことなく自分の国に帰っていきます。ここまで気を使ってくれたら、豊臣家に対する信頼度はすごく増すでしょう。

また、豊後九州(大分県)の大友宗麟が島津家に攻められて秀吉に助けを求めにやって来たときも、秀長が対応して秀吉に会わせたり、自らも「何かあったら私に相談してくれ。あなたの悪いようにはしないから」と話したりしているんです。

時のナンバー2からそんな声をかけられたので大友宗麟は感動して、家臣にも「大友家は今後、秀長様を頼りにする」と手紙を出すほど信頼を置きました。

――なぜ、そんなことができたのでしょうか。

平山 もしかしたら、農民出身ということと関係があるのかもしれません。秀長は尾張(愛知県西部)の中々村(現在の名古屋市中村区)で生まれ、青年期まで育ちました。

尾張の国も当時は戦乱の時代でしたから、自分の住んでいる村の近くで戦もあったりしたでしょう。どうすれば家族を守れるかと考えたに違いありません。

すると村の中の人間関係が生活に大きく関わってきます。そうした中で人の動かし方や世の中を見る目を養ってきたんだと思います。それが兄に負けない〝人たらし術〟につながったのかもしれません。

――秀長は名参謀としても活躍したんですよね。

平山 はい。秀吉の戦術では「兵糧攻め」や「水攻め」が有名です。鳥取城の兵糧攻めでは、攻める前に城の周辺のコメを普段よりも何倍も高い値段で買って、城内にコメが行かないように先手を打っていました。

高松城の水攻めのときも、土木工事をする農民らに高額な報酬を払っています。秀長は農家で生まれたこともあって、高く買ってくれる人にコメを売りたがるといった、庶民の心理などもよくわかっていたのでしょう。

ちなみに、戦国時代というと大勢が武器を持って戦う〝決戦〟というイメージがありますが、実は自分たちが育てた兵士の人数を減らさずに勝つことのほうが重要でした。できれば、相手が撤退して、その後にその場所を占領するというのが最も望ましい。

すると、兵糧攻めや水攻めは自分たちの兵士を減らさずに攻略する、とても有効な戦略だったのです。

こうした作戦にも参謀として秀長は関わっていたのかもしれません。

――戦以外での功績などはありますか?

平山 秀吉は水田や畑などの土地を日本全国一律の基準で評価して、そこに税金をかけるというシステムを作りました。それを実際に進めたのが秀長でした。

同じ広さの水田でも、どれくらいの量のコメが取れるかは違ってきます。そこで農民に実際にコメの取れる量を聞いて、「ここは上田、こっちは中田、これは下田、下々田」と分けていく。

すると、上田一反(約10a)は1石5斗(約225kg)程度のコメが取れるという目安ができます。この石高制を作ったことで、大名を動かすことができるようになったんです。

例えば「上杉家は越後と越中の一部、それから佐渡を合わせて90万石だな。ならば加増して120万石にするから会津に移ってくれ」と。また、上杉家が120万石で、前田家が100万石だとしたら、その石高に応じて課税すれば公平性が保たれる。そうしたことも、農民出身だったから考えられたのかもしれません。

――そんな優秀だった秀長は、秀吉より先に病気で亡くなっています。

そして、秀長がいなくなってから豊臣家は急速に権力を失っていく。もし、秀長が生きて秀吉を支えていたら、豊臣の時代はもっと長く続いていたのでしょうか。

平山 そうかもしれません。もしかしたら秀長は、秀吉が死んだ後、徳川家康がやったように朝鮮から軍勢を引き揚げさせて、国内を固めるという方策を取ったかもしれません。そして、秀頼の成長を待って豊臣政権が続いていた可能性はあるでしょうね。

――秀長は本当に優秀な人だったんですね。

平山 そうですね。秀吉の本拠地は大坂城です。そして、秀長に与えられた国は大和、紀伊(和歌山県)、そして大阪の南側の和泉。これはすべて治めにくい場所です。

大和は東大寺や春日大社があることからわかるように寺社勢力が強い。紀伊は一揆が多い。

和泉は大坂の隣です。ここが安定していないと秀吉は枕を高くして寝られません。秀長は知恵と人柄で寺社勢力に言うことを聞かせ、一揆も鎮圧した。とても優秀な人間だったと思います。

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奈良県にある郡山城跡の堀と石垣。秀長はここを居城としていた

奈良県にある郡山城跡の堀と石垣。秀長はここを居城としていた

――尾張・中々村出身の豊臣兄弟の物語が大河ドラマで描かれることで、今年は名古屋ブームがやって来るかもしれませんね。

平山 私はブームや聖地になるのは、秀長の城があった奈良の大和郡山市だと思います。秀長は千年の歴史を持つ古都・奈良に新興都市を造ったんです。

そして、奈良の社会と経済の中心を郡山に移した。大和郡山市に行くと、秀長が何をしたのか、どんな人物だったかがよくわかるのではないでしょうか。ぜひ訪れてみてください。

――ありがとうございました。

もしかしたら、名古屋出身の人はガックリきているかもしれませんが、秀吉の弟が主人公となる『豊臣兄弟!』を楽しんでもらいたいです。

取材・文/村上隆保 写真/aflo(秀長) 時事通信社(郡山城)

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