東日本大震災15年、今だから語ることができる「笑って泣ける震...の画像はこちら >>

東日本大震災当日、東北の沿岸は甚大な被害を受けた

被災者はずっと悲しみに打ちひしがれ「泣いていた」のか――。家や仕事、大切な人を失い、真っ暗な避難所の中で過ごす暮らしの中にも、まるで喜劇のように被災者同士で笑い合える瞬間があった。

あの日、東北沿岸の人々の心の支えになったエピソードとは。

* * *

2011年に起きた東日本大震災は、2万人を超す死者・行方不明者を出す未曽有の天災となった。発生から15年がたった今も、身内を失った遺族の悲しみは消えない。

もっとも当時、被災地の全員が悲嘆一色だったかといえばそうでもない。思わず噴き出す面白いエピソードも少なくなかった。「切ないけど笑える話」。そんな逸話を探しに被災地を訪ねた。 

【避難所に漂うマツタケの香り】

〈やれやれ〉

岩手県沿岸部の釜石市で暮らす親の身を案じ、居住する盛岡市から駆けつけた尾形孝さんは両親の避難先の食卓に目をやるなり、あきれた表情を浮かべた。

震災3日後。実家は津波で流され、両親は被害を免れた市内の親戚宅に身を寄せていた。

アワビ、ウニ、イクラ。食卓には豪華な海産物がこれでもかと並んでいる。

〈被災者がこんなぜいたく品を食っていていいの?〉

津波で泥の海と化した被災地の光景と食卓のきらびやかさのギャップに、孝さんは戸惑いを隠せなかった。

孝さんは一家の次男で、震災当時は40代。父の久敏さんは80代、母の節子さんは70代だった。

釜石市は漁業のまちだ。釜石の産業というと製鉄のイメージが強いが、水産業も盛ん。世界三大漁場のひとつ、三陸沖に面し、全国でも指折りの漁獲高を誇る。

地元では水揚げされた水産物を冷凍して保存する習慣があり、一般家庭でも冷蔵庫から独立した専用の冷凍庫を持っている。

東日本大震災15年、今だから語ることができる「笑って泣ける震災秘話」
被災後の水産加工会社の冷凍庫。三陸沿岸部では一般家庭も大型の冷凍庫を持っている

被災後の水産加工会社の冷凍庫。三陸沿岸部では一般家庭も大型の冷凍庫を持っている

それが震災で一斉に停電し、使い物にならなくなった。庫内には高級海鮮をはじめ、大量の魚介類が入っている。

「このままにしておいても腐るだけだから、みんなで食べよう」

久敏さんと節子さんは高級海鮮に狙いを定め、親戚宅に持ち込んだ。こうして被災地には不釣り合いな豪華食卓が調う。

タイミングがいいのか悪いのかは別として、その場面に孝さんが遭遇したのである。

豪勢な食卓は海の幸だけとは限らない。被災者のある女性は電源の落ちた自宅の冷凍庫から凍っているマツタケを取り出し、自分が身を置く避難所に忍ばせた。

周りを見渡すと、同じ境遇の避難者が肩を寄せ合い、救援物資の食料を食べている。救援、復旧活動の自衛隊員やボランティアも頻繁に出入りする。

東日本大震災15年、今だから語ることができる「笑って泣ける震災秘話」
避難所はすし詰め状態。停電が続き苦しい毎日が続いていた

避難所はすし詰め状態。停電が続き苦しい毎日が続いていた

〈これではさすがに大っぴらには口にできない〉

人目を気にした女性は簡易炊飯器を屋外に持ち出し、配給のコメにマツタケを混ぜて炊き込みご飯を炊いた。

「ここなら大丈夫だろう」と高をくくっていたら、マツタケの香りの強さを侮るなかれ。特有のにおいが避難所内にも漂い、所内の人々が騒然となった。質素な食べ物しか味わっていない避難者にとって、マツタケのかぐわしい香りは嗅覚を敏感にさせるには十分だった。

被災地の食卓は意外にぜいたくだったとはよく耳にする。東北地方に根づく冷凍保存の食文化が生み出した現象だろう。

ところが、東京から取材で来るメディアにとって、被災者がグルメを堪能している姿は「画にならない」。寒さと空腹に耐え忍んでいてもらわないと、「欲しい映像」が撮れないのだ。

「それの代わりにこれを食べてもらえませんか」

メディアクルーのひとりが、高級食材を豪快に口に運ぶ避難者にカップ麺をそっと手渡した。

【幻の新社長就任劇。社長の奇跡の生還】

「ヨッ! 次期社長!」

釜石市の石材店の専務だった清水延泰さん(現在51歳)は職場の同僚に冷やかされた。

「ふざけんなよ」とたしなめながらも、まんざらでもない顔をしている。

震災当日、社長に当たる父は仕事で隣の市に出かけ、不在だった。その父が夜になっても帰ってこない。職場では「津波にのまれて命を落としたのではないか」と生存を危ぶむ見方が強まっていた。父は一夜明けても姿を現さない。悲観論が高まる。

同僚の軽口はそんな局面で飛び出した。

社長の代替わりを見越してのことだ。

「次期社長、バール取ってきて」

「ハイよ」

清水さんは同僚の励ましに乗り、小間使いも苦にせずに引き受けた。倒れた清涼飲料水の自動販売機の扉をバールでこじ開け、中の飲み物を取り出し、子供たちに分けてやった。

「明日から社長夫人だな」

職場に戻り、妻(現在49歳)の肩に手を置いた。振り向いた妻の顔には笑み。非常事態ではあったが、夫婦そろってその気になっていた。

そのとき、ひとりの人影が近づいてきた。

「えーっ、社長!」

奇跡の生還である。津波に巻き込まれそうになりながらも間一髪で回避できたのだという。

父が無事でうれしくないわけはない。でも社長の座は幻に。悲喜ない交ぜの複雑な心境になった。

「どちらの感情の割合が大きかったのか」はまだ父に伝えていない。

【「見せ物じゃない」。誰(た)がために虎は舞う】

〈またかよ〉

三陸地方に住む50代の男性の顔には「うんざり」の文字が浮かんでいた。地元の伝統芸能「虎舞(とらまい)」の保存会に所属している。

ここでの虎舞は漁の安全を願う舞踊で、獅子舞の虎版のような装束を身にまとい、笛や太鼓の音に合わせて舞う。震災で保存会のメンバーの多くが亡くなり、装束も流失して存続の危機に直面したが、全国からの支援を受けて復活した。

この再生ストーリーがメディアには復興のシンボルと映り、演舞のリクエストが保存会に相次いで舞い込んだ。カメラクルーが訪れるたび、メンバーは駆り出され、舞を披露させられる。

〈もういいかげん、勘弁して〉

男性はため息をつきながら、虎の頭をかぶり、カメラの前に立った。

「虎舞は本来、毎年の秋祭りで踊るだけ。年1回だからありがたみがあるのに、こう乱発しては威光も薄れる。負担も増すし、見せ物にされているような感じ」

今度同じ依頼が来たら、断るかどうか逡巡している。

【本当の将来の夢はユーチューバー】

震災から数年。宮城県石巻市の小学生だった男子は、手元の用紙に目を落とし、悩ましい気持ちになっていた。

「大人になったらなりたい職業」

設問でそう問われている。

〈本当はユーチューバーになりたいんだけどなあ〉

しかし、当時の被災地は答えにそう書くのをためらわせる雰囲気があった。

被災地の男の子の憧れの職業は断トツで「自衛官」。厳しい環境の中、黙々と救援、復旧活動に励む姿は、被災者にとって頼もしい存在であり、子供たちの羨望の的だった。

本心から自衛官になりたい子なら構わないが、そうでない子にもそう書かせる同調圧力は確かにあった。

男の子は迷った挙句、「消防士」と記入した。本人は「中間を取った」つもりでいる。

東日本大震災15年、今だから語ることができる「笑って泣ける震災秘話」
命がけの救援活動を遂行し続けた自衛隊員ら。憧れを抱く子供も多かった

命がけの救援活動を遂行し続けた自衛隊員ら。憧れを抱く子供も多かった

* * *

被災者に話を聞くと、惨劇に見舞われた被災地でも「笑える話」は幾つも散らばっていたという。「と言うより、自ら進んで笑い話を見つけにいった」と被災者の女性。「そうして無理にでも笑っていないと精神が持たなかった」と振り返る。
 
1000年に1度の天災に襲われた被災地で、被災者が笑い合っている姿は奇異に見えるかもしれない。それでも被災者にとって、ばか話で盛り上がる行為は押し潰されそうなメンタルを立て直し、生き延びるための生存本能だったのだろう。

取材・文/いとうたいち 写真/時事通信社 AFP=時事

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