「性的」と「えっち」の差から現代の欲望構造を読み解く! なぜ...の画像はこちら >>

「非インタラクティブなものを楽しむとき、人は自分ではない何者かになっていて、『恋人感』がテーマのグラビアなら、鑑賞者は恋人のペルソナを立ち上げて、向き合っているように思います」と語る難波優輝さん

「これは性的だ」「性的ではない」。街中の広告やポスターが炎上するたび、同じような応酬が繰り返される。

しかし、そもそも"性的なもの"とはなんなのか。われわれは何に性的に引かれ、何に不快を覚えているのか。

その根っこから問い直したのが、美学者・難波優輝氏の『性的であるとはどのようなことか』だ。

* * *

――本書では「性的」と「えっち」を分けて論じています。

難波 私は「性的」であることと「えっち」であることは違うと考えています。

医学書の中の裸体は「性的」と言えるかもしれないけれど、普通はそれを「えっち」だとは感じない。一方で、滑らかな手触りの陶器を見て「えっち」だと感じることはできる。

「性的」かどうかは定義できます。私は「性行為に関わるもの」「人間の裸体や性器に関わるもの」「性的興奮を催させるもの」の3つのいずれか、またはすべてを満たすものだと考えます。だからAIでも分類に近いことはできるでしょう。

例えば街中の広告が炎上するとき、たいてい「これは性的だ」という指摘から始まり、擁護する側も「性的ではない」と言う。でも、その「性的」が何を指しているのかが共有されないまま議論が進むから平行線になる。

さらに、双方の主張を下支えしているのが「それが苦手か」「それが好きか」という感情のはず。その主観的な感情と向き合わないで、客観的な「性的」という言葉で処理しようとするから、議論は噛み合わなくなる。

本書では、そうした擦れ違いを出発点にして、「性的である」とはどういうことなのかを掘り下げています。

――では「えっち」の定義は?

難波 「えっち」であるかどうかは、「性的」であるかどうかとは違い、見る人の美的判断に強く依存するため、普遍的な定義を与えることはできません。

本書では、「えっちさ」を大きくふたつに分けています。完全さへと向かう「崇高のえっちさ」と、不完全さを味わう「崩れのえっちさ」です。

崇高のえっちさは、圧倒的で近づき難いものに触れる感覚です。これは完璧なプロポーションなど。一方で崩れのえっちさは、隙や未完成さに引かれる感覚です。これは一瞬だけふと見せた物思いの表情などです。

――そんな難波さんから見て、「グラビア」の魅力は?

難波 生まれて初めて考えます。考えてみましょう。

グラビアを考える上で、魅力の軸はふたつあると思います。ひとつは人の魅力、もうひとつは写真の魅力です。

まず人の魅力ですが、現代は良くも悪くも作品よりも"人"がコンテンツ化されている時代だと思います。いわゆる推し活ですね。では、なぜ人は人をコンテンツとして楽しむのか。その構造を考えるときに浮かぶのが、宝塚歌劇団のスターとファンの関係性です。

社会学者の東園子さんによると、宝塚には4つの名前があります。舞台上での役名、そして芸名、さらにファンが呼ぶ愛称、最後に、公表されていない本名。

ファンは、その人の奥へ奥へと近づいていく。役名から芸名へ、芸名から愛称へ、そして本名へ。遠くにいる人のペルソナ(社会的な人格)を、少しずつめくっていくような感覚です。この「めくりたい」という欲望が、推し活のエネルギーのひとつになっているのだと思います。

――それがグラビアの鑑賞にもつながるわけですね。

難波 はい。普段は見せない肌や、いつもとは違った素の表情に引かれるのは、ペルソナをめくりたい欲望を刺激しているからなのではないかと考えます。先述した「崩れのえっちさ」に分類できる感覚だと思います。

現代社会では男性は対人コミュニケーションが苦手だといわれますよね。男性同士で一緒にゲームをしたり、お酒を飲んでバカ騒ぎをしたりはするけれど、悩みを聞き合うような関係を築く訓練の場が少ない。

生得的ではなく社会的だと思いますが、だから近くの他者と親密になるのが難しい。その代わりに、距離のある存在に近づいた感覚を得ることで、社会関係を補填しているのかもしれません。

さらに、現代は"おせっかい"できる機会が少ない社会でもあると思います。"ケア"とも言い換えられますが、人間は他者を助けたい、支えたいという欲望が本能にある生き物なんだと思います。

かつては地域社会や家族の中で、おせっかいを焼く機会がたくさんあった。でも今は個人が自立して生きることが可能になった分、他人に介入する余地が減った。

とりわけ男性たちは、おせっかいによって対人コミュニケーションを構築してきたはず。

それを推しを応援することで解消している。それは単なる消費ではなく、ケアの欲望の発露でもあるのだと思います。

――では、写真の魅力とは?

難波 ラジオが社会に広がったとき、新しい関係の形が生まれました。実際に会ったことも話したこともないのに、放送の向こうの人物に親しみを感じる現象です。これは「パラソーシャル関係」と呼ばれます。

それまでの社会関係は相互的なものでした。でもラジオは一方向です。声を聴いているだけなのに、よく知っているような気持ちになる。やがてラジオスターという存在も生まれました。

配信者やアイドルにも同じことが起きています。向こうは自分を知らないのに、こちらは関係している感覚を持つ。

写真もまた一方向です。こちらから影響を与えることはできない。だからこそ解釈は鑑賞者に委ねられており、鑑賞者も一緒になって関係性をつくっていく媒体なのかもしれません。

そうした非インタラクティブなコンテンツを楽しむとき、人は自分ではない何者かになっていることってある気がするんです。例えば、「恋人感」がテーマのグラビアであれば、鑑賞者は恋人のペルソナを立ち上げて、そのグラビアに向き合っているように思います。

私はあらゆる表現が世界の本質の一端を解き明かそうとしていると思えてならないんです。だからグラビアという表現にも何かがあるはず。自分たちが何を欲望して、どういう世界をつかみたいのか。

被写体は素になっているのだったら、鑑賞者も素になって自分自身に対して自分の欲望をさらけ出してみたら、新しい世界が立ち上がってくるのではないでしょうか。

■難波優輝 
1994年生まれ、兵庫県出身。美学者、会社員。神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程修了。

専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。著書に『物語化批判の哲学:〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)、『批判的日常美学について:来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』(晶文社)、『SFプロトタイピング』(共編著、早川書房)がある

■『性的であるとはどのようなことか』光文社新書 990円(税込) 
「えっち」をこんな大真面目に考えた本があったろうか。本書は、タイトルの印象とは裏腹に、刺激的な告発本でも規制論でもない。むしろ本書が試みているのは、われわれが何げなく使っている「性的」や「えっち」という感覚を丁寧に分解し、そこから人間を浮かび上がらせることだ。議論は公共空間と私的空間の違いからジェンダー論へと広がる。だが本書は単純な断罪に向かわず、むしろ「えっち」を再発見する方向へと思考を進めていく

「性的」と「えっち」の差から現代の欲望構造を読み解く! なぜ性的な広告の炎上は議論がすれ違うのか? 『性的であるとはどのようなことか』(著:難波優輝)
『性的であるとはどのようなことか』光文社新書 990円(税込)

『性的であるとはどのようなことか』光文社新書 990円(税込)

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