新たな変異株が流行の兆し!? 蝉とバギーとBA.3.2(後編...の画像はこちら >>

これまでの主要な新型コロナウイルス変異株の系統樹。2021年末のオミクロン株の出現、そして2023年末のJN.1株の出現と、これまでに少なくとも2度の「メジャーアップデート」がある。
BA.3.2株の出現が、3度目の「メジャーアップデート」になるのだろうか? ちなみに、図中左の「①武漢株からデルタ株まで」以外のすべての株が「オミクロン株」である。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第167話

「BA.3.2」はどこから来たのか? 進化の行き詰まりと"メジャーアップデート"の可能性、そして「蝉(セミ)」と名づけられた新変異株の謎に迫る。

* * *

【「BA.3.2」にまつわるいくつかの謎】

2021年11月に生まれてから、大手既成メディアはおろか、この「新型コロナウイルス学者」の連載コラムでも扱ってこなかったBA.3株。

そんな見向きもされなかった末っ子のBA.3株であるが、この株をめぐって、2025年の夏頃からSNS(XやBlueskyなど)がにわかに騒がしくなり始める。

「できそこないの末っ子」だったはずのBA.3株の子孫が、南アフリカやオーストラリアなどで散発的に確認され始めたのだ。

ここには、いろいろな驚きの要素がある。まず、これまでに紹介した通り、BA.3株は、有名なふたりの兄の影にずっと隠れたままで、一度も流行を広げたことがなかった。それが、生まれてから3年以上もの月日を経て、その子孫がじわじわと増え始めたのだ。3年以上もの間、いったいどこに、どのように隠れていたのか?

そしてふたつ目の驚きは、「なぜ今、BA.3の子孫株なのか?」。

まず、このふたつ目の疑問については、それを考察するヒントがある。

以下の図は、私たちG2P-Japanが最近発表した論文に載せた、2025年秋冬の新型コロナワクチンの接種によって誘導された中和抗体の「交叉性」を図示したものである。

新たな変異株が流行の兆し!? 蝉とバギーとBA.3.2(後編)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
ある科学雑誌に発表した論文に載せた図のひとつ。ワクチン接種で誘導された中和抗体の「交叉性」や「類似性」を図示したものの引用・改変。ややこしい図ですが、この図が意味することは本文で解説しています。

ある科学雑誌に発表した論文に載せた図のひとつ。
ワクチン接種で誘導された中和抗体の「交叉性」や「類似性」を図示したものの引用・改変。ややこしい図ですが、この図が意味することは本文で解説しています。

図の中の緑の矢印は、「JN.1一族(コードネームJN.1、XEC、LP.8.1、NB.1.8.1、XFG)」の進化の方向性を示している。つまりこの図は、は、JN.1一族が、図の中央あたりから右下に向かって「進化」していることを意味している。

つまりこの図から、JN.1株が出現してから現在までのおよそ2年間、JN.1一族が手を替え品を替え、ワクチン接種や感染で獲得された免疫から逃げるように進化を続けてきたことが推察できる。

しかし、この右下方向への進行は、図中青色のXFGで「打ち止め」になっているようにも見えなくもない。これは、「この辺で、JN.1一族の進化が頭打ち」であることを示唆しているようにも見える。

そして懸案のBA.3.2株は、この緑矢印に対して、ほぼ直角の方向に位置していることがわかる(赤矢印)。これは、JN.1一族の進化の方向性(緑矢印)から「いちばん遠い」向きに進化した、とも考えられるのだ(緑矢印の線のどこからも「いちばん遠い」向きになるには、緑矢印の線に「直交」する必要がある)。

言い方を変えれば、JN.1一族とはまったく違う方向に進化をするのが新型コロナの生き残りには好都合で、それがたまたまBA.3.2株だったとも考えられる(おそらく科学的にはこのような解釈が正しい)。

およそ2年間、JN.1一族は、JN.1株をベースに「マイナーアップデート」を繰り返してきた。しかし、ついに進化する余地がなくなってしまい、それを打開するために「メジャーアップデート」、つまり、JN.1一族とはまったく異なる株の出現が必要になった、というわけだ。

このような「メジャーアップデート」は、これまでの新型コロナ変異株の歴史の中でも何度か見られている。

2021年末のデルタ株→オミクロン株の「メジャーアップデート」がいちばん有名だが、実は「メジャーアップデート」はそれだけではない。

2022年初頭、BA.2株による日本の「第6波」(43話)の後、2023年夏に突如出現したBA.2.86株(詳しくは28話を参照)。このBA.2.86株がいくつかの変異を獲得し、JN.1株へと進化して、一気に主流の株へと躍進した。その後は、先ほど述べたように、JN.1一族はマイナーアップデートを繰り返しながら現在に至っている。

このコラムの冒頭に載せた「系統樹」では、それぞれの「枝の長さ」が「変異の数」を意味している(つまり、「枝」が長ければ長いほど、「変異」が多いことを意味する)。この図を見れば、BA.3.2株が、武漢株からデルタ株までのグループ(図中①)、BA.2株からXBB.1.5株までのグループ(図中②)、そしてJN.1一族(図中③)のいずれからもはるかにかけ離れた株であることがわかるだろう。

そしてこのようなビッグジャンプは、BA.2.86株の出現のとき(28話)ととてもよく似ている。これらのことから、BA.3.2株の出現が、次の「メジャーアップデート」の布石となっているのではないか? と考えられているのだ。

【BA.3.2はどこから来たのか?】

ここで、ひとつ目の謎についても言及してみよう――BA.3株はどこに隠れていて、BA.3.2株はどこから来たのか?

ちなみにBA.3.2株は、親株BA.3に比べて、50以上の変異をスパイクタンパク質に、ウイルスゲノム全長では90近い変異を獲得している。

これはあくまで推測でしかないが、エイズのような免疫不全の患者の体内では、新型コロナウイルスは持続感染することが知られている。そして、新型コロナウイルスが持続感染すると、ウイルスゲノムの中に変異が蓄積することも知られている。

これらのことから、BA.3株が、ある免疫不全患者のからだの中で長い間ひっそりと増え続けていて、それが2025年になってヒトからヒトに広がり始めた、というのは科学的に妥当な推測だろう。

また、WHO(世界保健機関)が、COVID-19のPHEIC(国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態)の終了を2023年5月5日に宣言して以降、新型コロナ変異株の調査アクティビティは世界中で顕著に低下している。

そのため、実は世界のどこか(おそらくは南アフリカのどこかだろう)でひっそりと流行していたものが、調査の網が粗くなったせいでずっと捕捉できずにいた、という可能性も否定できない。

いずれにせよ、BA.3.2株を含めたBA.3株の「子どもたち」が、出現から3年もの間、公にはその姿を見せず、2025年も半ばになって突然世間の耳目に触れた、というのは、私だけではなく、新型コロナ研究に従事してきた(している)研究者にとっては、にわかには信じられない、少年漫画のような展開のようにも思えてしまう。

しかしそれが、現在のわれわれの目の前に突きつけられた現実である。

【BA.3.2の「ニックネーム」】

最後に、過去のコラムでも紹介しているが、2021年末の「長男」たるBA.1株の出現以降、すべての新型コロナ変異株は、WHOの命名によれば「オミクロン株」となる。

しかし、このコラムの冒頭に載せている「系統樹」を見れば一目瞭然だが、元は同じ「オミクロン株」だった変異株たちは、現在ではまったくバラバラの方向に進化を遂げている。これを十把一絡げに「オミクロン株」と呼び続けるのは、さすがにちょっとナンセンスではないかと思う。

そこで、SNSを跋扈(ばっこ)する変異株ハンターたちは、WHOに頼るのをやめ、変異株たちに独自のニックネームをつけるようになった。たとえば、2022年冬に出現したXBB.1.5株は「クラーケン(3話)」というように。

ちなみにこのニックネーミングはいまも続いていて、最近の変異株では、NB.1.8.1株には「ニンバス(Nimbus)」、XFG株には「ストラトス(Stratus)」というニックネームがそれぞれつけられている。

それでは、『ONE PIECE』のバギーのように、長い物語の伏線回収のごとく出現したBA.3.2株にはどんなニックネームがついているのだろうか?

――それは、「シケイダ(Cicada)」。

和訳すると、この連載コラムで私が何度か偏愛を語ってきた、「蝉(セミ)」である(133話、134話、135話、142話)。

数年もの間、さながら幼虫のように地中で暮らし、日の目を見ることがなかった「末っ子」。それがついにおもむろに地上に這い出し、羽化して鳴き始めた、という喩(たと)えからついたニックネームのようだ。

――さて、長期連載の少年漫画の伏線回収、という、またも想定外の展開を見せ始めた新型コロナウイルス。この変異株をめぐる物語は、いったいいつまで続くのだろうか......。

ちなみにこの冬の日本では、新型コロナの顕著な流行はまだ確認されていない。もしこのまま流行が起こらずに春を迎えれば、新型コロナパンデミック以降、大きな流行がなかった初めての冬となる。

さらに日本だけではなく、世界中を見回しても、新型コロナの流行が広がっている国や地域は見当たらない。これは、それを観測する方法が乏しくなったために流行を捕捉できていないだけなのか、それとも本当に流行が起こらなくなったのか、その答えを知るには、まだもう少しの時間が必要である。

――2月26日、東京と宮城で、BA.3.2株が初めて見つかった。これがこれから日本の流行の主流株になっていくのか? その答えを知るのにも、もうちょっと時間が必要である。

文/佐藤 佳 図/川久保修佑、伊東潤平、佐藤佳

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