釜本氏は1964年から1977年にかけて日本代表のエースとして活躍し、Aマッチ出場76試合で歴代最多の75得点を記録した。1968年のメキシコオリンピックでは大会得点王に輝く7ゴールの活躍で日本を銅メダルに導いた。
クラブではヤンマーディーゼルサッカー部一筋でプレーし、JSLでは通算251試合の出場で202得点を記録。1978年から1984年の現役引退まで選手兼監督を務め、JSL1部リーグ優勝1回、JSLカップ優勝2回を成し遂げた。1991年から1994年にかけては松下電器/ガンバ大阪の監督も務めた。
1998年からはJFA副会長に就任。FIFAワールドカップ日韓2002では組織委員会理事や強化推進本部長として日本代表の強化に尽力した。日本サッカーの発展に多大な貢献をし、2005年に第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。また、国政でも活動し、1995年に参議院議員選挙初当選。2000年の第二次森内閣において労働総括政務次官を務めた。
釜本氏はかねてより病気療養中だったが、10日午前4時に大阪府内の病院で肺炎のため逝去した。JFAは「通夜、告別式は近親の方々のみで執り行うご意向と伺っておりますため、詳細の公表は控えさせていただきます。