平和記念公園から原爆ドームを臨む景色に新たな建物が加わった。
2026年2月にオープンから2年が経った新スタジアムは広島市の街中を活気づけている。特に試合日は、Eピースや隣の芝生ひろばなどを含む「ひろしまスタジアムパーク」を中心に、サンフレッチェのユニフォームを着たファン・サポーターでにぎわい、紫に染まる。
「スポーツができる平和」がこの街にはある。
スタジアムは広島市の中心地にある原爆ドームから徒歩約10分。被爆前は「広島県産業奨励館」だった場所から、路面電車が走る現在の「相生通り」を渡って北へ。建築家の丹下健三氏が描いた平和記念公園や原爆ドームを1本の線で結ぶ「平和の軸線」に沿うように、2023年3月に整備された「ピースプロムナード」を歩いていく。
現在カフェなどがある左側にはかつて広島護国神社があり、右側の旧広島市民球場跡地の広場には広島第一陸軍病院の分院、広島グリーンアリーナの付近には同病院の本院や小姓町被服倉庫などがある。その西側の中央公園ファミリープールやEピースを含む場所は、旧陸軍の軍事物資を輸送する部隊「輜重(しちょう)兵補充隊」の施設。今では平和を象徴するような場所は、もともと軍事関連の建物が並ぶエリアだった。
被爆の地
1945年8月6日、8時15分。
「午前7時からのことです。警報が鳴って最初の飛行機が旋回して入った時に一旦防空壕に入りました。その時はまだ兄もいて、解除になったのが30分後でした。『今日も広島に爆弾が落とされなくてよかったね』って話していたら、兄が『じゃあ学校へ行ってきます』って。でも、ホッとしたときに母が『あれ、警報が鳴ってないのに飛行機の音がする』って言うので、私は物見たさで広島の南側の空が見えるトイレに駆け込んだんです。けど、音はするのに見えなかったの。普通なら飛行機の音が聞こえる前から警報が鳴って避難するんですけど、『おかしいね。なんか変な日だね』って思いました。飛行機は真上を通って、またどっかに行ったんだろうなと思って顔を引っ込めた途端、バーンと爆風がきて生き埋めになったんです」
サッカースタジアムから川を挟んだ横川町で、岸田弘子さんは6歳のときに被爆した。
「当時の家は土壁でできていたから、それが私の頭を覆って息苦しくなって、『これでは死ぬ』と思って頭を振った時に顔が半分だけ外に出たんです。その時に『助けて、お母ちゃん!』って声を出しました。広島では建物の下敷になって身動きできずに、そのまま亡くなった人が大勢いるんですよね。でも、おじいちゃんと母と弟は壊れた家の斜めになった隙間にちょうどいて、それは大きな奇跡でした。そこから母が私の声のするところにきて掘り上げてくれました」
現在はサッカーの街としても知られる横川は、爆心地から北西へ約1.5キロ。当時の横川駅は広島市の北の玄関口として栄え、周辺の商店街もにぎわっていたが、被爆後は建物が倒壊し、家々が燃え上がり、駅前は重傷者や焼け死んだ遺体であふれていたという。
瓦礫や火災で歩くのも困難な街の中を岸田さんの家族は必死に避難した。
「おじいちゃんは体が不自由だったもんですから、『自分はガタガタになった道を逃げることはできないから、もう子供たちを連れて早く避難しなさい』って言って、母が『じゃあ後から必ずまた戻ってくるから』と言って、弟を背負い、私の手を引いて出て行ったんです。外はもう避難する人の流れができていましたよ。みんな裸足で怪我もしています。爆風で飛んだガラスのせいで血だらけになりながら、ゾロゾロ、ゾロゾロと。
「私はその日、家の中で黄色いクマさんのぬいぐるみと遊んでいたの。避難するときに、そのクマさんを拾おうと思ったら、母が『そんなもの捨てなさい!』って言ったのを覚えているんです。今までいつも優しい母だったのに、そこで怖い母を初めて見ました。それどころじゃないって母も錯乱していたんだと思いますけど。そんな記憶が残っています」
黒い雨のしずくが垂れた真っ赤なトマト。すでに亡くなった我が子を背負う女性。避難する中、子供ながらに目撃した光景が今も脳裏に焼き付いている。途中で農家の庭で休憩した時にもらったおにぎりは、「世界一おいしい食べ物だと思えるくらい印象に残っています。普段は満足できる食事もできず、お腹を空かして満たされることはなかったですから」と今でも忘れられない。
その後も歩き続けて、もともと疎開する予定だった母親の友人がいる郊外の村へと避難した。「それこそ馬小屋のようなところにお部屋を借りたんですけども、そこで3年間過ごしました」。事前に送っていた多少の家財道具が残っていて、母親が着物などを物々交換しながら生活していたという。
原爆が投下された広島市では、熱線や火傷、爆風による外傷、急性放射線障害などによって大勢の命が奪われた。現在も亡くなった人たちの数は正確にわかっていないが、その年の12月末までに約14万人が亡くなったと推計されている。岸田さんもあの日以来、祖父と再会することはなかった。
復興への歩み
岸田さんはその後、郊外の村で小学3年生まで過ごしたのち、横川町から北へ約5キロの祇園町へと引っ越し、父親が商売を始めて家族の生活を取り戻していった。現在はサンフレッチェ広島レジーナの練習拠点もある祇園の当時の様子を思い返し、「乗り物も走っていましたし、人の流れもあって普通の生活が始まっていました。生活水準は3年ぐらいかかってやや落ち着いてきたんだろうと思います」とすでに復興が進んでいたことをわずかに記憶している。
その頃、原爆で焼け野原となった基町の元軍用地には復興住宅が建ち進んでいた。現在の「ひろしまスタジアムパーク」があるエリアは戦後、公園用地として計画されたが、住宅不足の緊急対策として戦災者や引揚者など向けに簡易的な住宅が建設された。基町には、当時の住宅供給事業を行っていた住宅営団と県や市によって、1949年ごろには約1800戸の公的な復興住宅が建っていたという。
「いまスタジアムがある場所には、マッチ箱を並べたように住宅がありました。我が家のあたりは整然としていたけど、混乱の時代に住宅と住宅の隙間に家を建てて生活している人たちもいて、エリアによってはごちゃごちゃになっている場所もありました。いろんな人がいて、今を思えばとてもエキサイティングな地域で育ったと思います」
初代広島市民球場が完成した1957年、基町で生まれた元安博久さんは当時の様子をそう振り返る。
満州鉄道に務めていた父・明さんが引揚げ後、広島県北部の比婆郡西城町(現・庄原市)出身の母・ミサオさんと1956年に結婚し、基町の市営住宅へと移り住み、翌年に博久さんが生まれた。当時の住所は「第一基町35号」。現在Eピースのバックスタンドと南スタンドの角にあるコーナーフラッグ付近に位置していたと思われる。
家は簡易的な木造一戸建ての庭付き。「叔母が営林署(国公有林の管理や経営をしていた機関)に勤めていた関係で、我が家には植物が多かったそうです。クスノキ、桜、ソテツ、バナナの木もありました」と元安さんは父親が家の前で撮影してくれた写真を見せながらうれしそうに話す。
元安さんが住んでいた市営住宅は家賃が月400円。間取りは3DKと記憶している。「3畳と4畳半ぐらいの部屋と、その奥に6畳ほどの部屋があったぐらいで狭かったですね。ただ、どの家も巧みに増築をして倉庫のような部屋があって、我が家は父が写真好きで、現像をするための部屋を作っていたそうです」。
トイレは汲み取り式で、回収するバキュームカーを呼んで来るのは元安さんの仕事だった。屋根も毎年のように雨水対策の塗料を塗っていたという。
1人っ子の元安さんは5歳の頃に父親を亡くし、それ以来ずっと母親と2人暮らしだった。母親も郊外へと働きに出ていたため、「父もいない、兄弟もいないという寂しさとつらさはありました」と振り返る。それでも、周りの人たちに支えられながら日々過ごしていた。
「私が幼稚園生だった頃は、周辺の皆さんが私の世話をしてくれたようなもんでした。近所の多くの人が声を掛けてくれて、幼稚園から帰ったら誰の家に行けばいいだとか、もう今のマンションのような隣に誰が住んでいるかわからないのとは全然違う。だから、近所のみなさんにすごく助けられた。周りには仲のいいお兄さんもお姉さんもたくさんいましたし、人情味のある温かいエリアでした」
自宅から西側、現在の「ひろしまスタジアムパーク」の水辺ひろばもある河岸にはバラック住宅が密集していた。当時の住宅難は公的な住宅を建てても解消されず、原爆ドーム前の相生橋東詰からEピース北側の三篠橋東詰まで川沿い約1.5キロにわたって、住む場所に困窮していた人たちが不法に住宅を作って暮らしていた。
現在はきれいに整備されて花見やバーベキューでにぎわう河岸には、かつては「相生通り」(現在の路面電車が東西に走る大通りとは別)と呼ばれた通りがあり、1000戸を超える不法住宅が乱立していたという。「原爆スラム」とも呼ばれたエリアである。
「住むところがなくて、市営住宅以外のところにもたくさんの人がぎっしり住んでいました。本当に迷路のような通りがあって、その中にすごい数の家があった。家と家の間に一晩にして家ができて、電気を引っ張ってきて既成事実化されていて、それが当たり前のようでした」(元安さん)
当時の基町は「原爆スラム」と呼ばれたエリアも含めて相生橋西側にある本川小学校の学区だった。元安さんも毎日、近所の子供たちと一緒に相生橋を渡って学校に通っていて、「中にはすごく悪いやつもいましたけど、私らはここ(基町地区)でずっと一緒だから、私らのことは絶対に守ってくれるし、仲間意識がすごく強かったですね」と当時の様子を回想する。
「私は学級員をしていたとき、休んだ同級生にパンを届けてやれって先生から言われて。当時はその1つのパンも大切でしたから。原爆スラムの中にある家に行って『こんにちは』って入ったら、狭い部屋に6人ぐらいの兄妹がいて、みんながこっちを見るので驚いたのを覚えています。同級生に『学校どうしたん?』って聞いたら、『今日は疲れた』って言うのよ。彼は小学生で毎朝、新聞配達をして親の生計を助けていたから」
反対側の自宅から東側には、大きなバス通り「基町本通り」があった。現在のEピース東側3階コンコースに沿うように、さまざまなお店が並ぶ商店街が栄えていた。「金物屋、八百屋、化粧品屋、本屋、お饅頭屋、散髪屋、料理屋、文房具屋。すごくにぎわっていたし、思い出せばきりがないぐらいなんでもありました」と元安さんは楽しそうに思い返す。
「子供の頃、いつも家にお客さんが来たら買いに行くお饅頭屋があって、目の前でふかすのよ。これが美味しかった。いつもお袋からは『10個買ってこい』って言われていて、子供ながらにお饅頭の商品名が「ジッコ(10個)」だと勘違いしていました(笑)」
「竹田という散髪屋があって、たしかその辺で1番にテレビが置かれたんです。だから、もうみんな集まりますよね。あるとき、『息子がおらん』ってお袋が探していたら、私は散髪する椅子に座らせてもらって1番いい場所でテレビを見ていたらしいです」
元安さんは近所の人たちの素性や事情を深くは知らなかったが、お互いに助け合い、たくましく生きていたことは記憶している。
「今の時代と違って、私はもう周辺の人をみんな知っていたし、みんなも私のことを知っていた。私は周りにお世話になったぶん、町内会費を集めて回ったり、電球が切れたら替えに行ったり、助け合いでした。遠くからバキュームカーを見つけて、隣の助手席に乗って家の近くに連れてきたら、もうヒーローでしたよ。本当に面白い街でした」
原爆で焼け野原になった地に、一人ひとりの営みが積み上がっていった。そうした地道に日々を生きる強さが広島の復興のベースにあった。
基町の移り変わり
被爆から約25年が経った頃、基町の様子はまた変わってきた。簡易的な作りの復興住宅は老朽化し、川沿いにバラック住宅が密集する「相生通り」では火災が多発して大きな問題となっていた。それを受けて、1968年に「基町地区再開発事業」が動き出し、翌年から「基町高層アパート」とその北側にある「長寿園」の高層住宅建設や不良住宅の撤去が始まった。
「ここが公園になるとき、(家の取り壊しを)見ていた人が言っていたけど、柱にロープをつけて大人が4人で引っ張ったらもう家が倒れたらしいです。自分が住んでいた時は壊れなかったけど、仮設と言われた住宅が25年も残っていた。これがすごいと思うし、この期間はまさに広島の復興の象徴だと思います」(元安さん)
元安さんは高校1年生の1973年、生まれ育った復興住宅から、現在もEピースの隣にある基町高層アパートへと移り住んだ。
家賃は月400円から30倍の1万2000円。間取りは36平米で2Kだった。元安さんは、「6畳と4畳と入ってすぐのキッチン周りぐらいしかなくて狭かったけど、ガスはあるし、トイレも流れて、風通しが良かったし、冷暖房もばっちし。母と2人だったら不自由はなく、むしろ2人で住むのには極めて快適でした」と当時の生活を思い返す。
平地で人とのつながりが強かった復興住宅から、階層によって隔たりがある高層アパートへの移転。中には環境の変化に馴染めない住民も多かったようだが、元安家の周りの環境は母親の性格のおかげもあって変わらなかったという。
「お袋が社交的な人間だったので、いろんな人を呼んで集めて話しかけるから、同じフロアはみなさんフレンドリーでした。夜にはお袋のところにお茶やお花を習いに4人も5人も来ていて、すごくにぎやかでしたよ。もうドアも開けっぱなしでオープンで、たくさんの人が出入りしていました。そういう意味では環境の変化はあんまり感じなかったね。お袋が病気になった時も、近所の人らがものすごくお世話をしてくれました」
1978年には県や市によって相生通りのバラック住宅を含む不良住宅の撤去が完了し、住人たちは高層住宅や地区外などに移り住んでいった。同年9月に最後の基町高層アパートが完成したことで、10年にわたる再開発事業は完了した。
1978年10月11日、基町地区再開発事業完成記念式が行われ、完成した高層住宅群が見渡せる広島城内堀の南側に記念碑が建てられた。記念碑はのちにスタジアム建設を機に移設されて、現在は広島城内堀の北西側にある。碑文には「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」と刻まれていて、広島の復興において基町が重要な場所であったことを示している。
元安さんは1981年の大学卒業まで基町高層アパートに住み、就職を機に広島を離れた。現在は住み慣れた兵庫県の甲子園近くに居を構え、趣味のカープ観戦や音楽などを楽しみながら暮らしている。改めて当時の基町での生活を振り返ると、わずかな父親の記憶と母親とともに懸命に過ごした日々が頭によぎって涙が溢れる。
「まず思い浮かぶのは父と母。父の記憶はほんのちょっとしかないけど、それでも基町のことは非常に懐かしい思い出です。何歳になっても、親のことを思い出すと、やっぱり涙が出ますね」
元安さんが広島を離れた2年後、かつて復興住宅が建ち並んでいたエリアを含む中央公園の整備が完了した。その当時、サンフレッチェ広島はまだ誕生しておらず、前身の東洋工業が1981年に「マツダSC東洋工業サッカー部」へとチーム名を変えた頃。1988年から日本サッカーリーグのプロ化への動きが生まれると、1992年に紆余曲折ありながらマツダを筆頭としてサンフレッチェ広島が創設され、翌1993年にJリーグ開幕を迎えた。
サンフレッチェはこれまでJ1リーグで3度の優勝を果たすなど、30年以上のサッカーの歴史を広島に積み重ねてきた。その中で、新スタジアム建設の動きは2003年に始まった。サンフレッチェ広島、サンフレッチェ広島後援会、広島県サッカー協会が連名で県知事と県議会に「サッカー専用スタジアム建設要望書」を提出。「サッカースタジアム推進プロジェクト」も設立された。それから10年後、のちにJ1初優勝を果たす2012年にスタジアム建設を求める署名活動を開始し、2013年には約37万人の署名が集まったことを県と市へと報告。「サッカースタジアム検討協議会」が設置され、新スタジアム建設へと大きく動き出した。
新スタジアムの誕生までには多くの議論がされた。特に建設地を巡っては二転三転あったが、久保允誉会長を筆頭に様々な関係者が街なかスタジアムの実現に尽力した結果、紆余曲折を経て2019年2月に中央公園の自由・芝生広場にサッカースタジアムを建設する方針が決まった。2022年2月にスタジアム建設工事が着工し、約2年後の2023年12月に完成。中央公園の整備完了から約40年後の2024年2月、サッカースタジアムはオープンを迎えた。
2024年4月、広島に帰省した元安さんは完成したスタジアムを初めて目にした。
「平和になったよ。すごいよ。『こんなに変わったか』と思ってうれしかった。それは、それは、うれしかったよ」
当時暮らした家があったと思われる場所にも立ってみた。
「寂しさもあります。ただ、ここももう限界だったから。思い出がたくさんあるけど、当時の人はみんなもう歳をとったり、お亡くなりになったりして、時代はどんどん変わっていくから、この場所が変わっていくのも仕方ない。それを受け入れて、今後どう活性化されていくかが楽しみです。ただ、平和記念資料館みたいに、当時あったことをどこかにきっちり残しておくことは必要だと思います。後世に残すために、自分たちが生きた時代があったということを伝えていってほしいし、ミュージアムの中に1行でもいいから記録に残してくれたらうれしいです」
スポーツ観戦が好きな元安さんは、まだ新スタジアムでサッカー観戦はできていないという。「一度は見てみたいですね」と遠い目で故郷を思った。【後編に続く】
取材・文=湊昂大
【取材協力】
公益財団法人 広島平和文化センター
基町プロジェクト
NPO法人『Peace Culture Village』

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