新サッカースタジアムの役割

「ボクはサッカーで平和を叶えるため、この広島から“サッカー世界平和宣言”を全世界に発信します!」。新スタジアム東側2階にある巨大壁画で、サッカーマンガ「キャプテン翼」の主人公の大空翼くんが力強いメッセージを発信している。


 その階下の広島サッカーミュージアムでは、大型スクリーンに流れるサッカーと復興を描いた映像が来場者を迎え入れ、広島の歴史や新スタジアム建設についての展示が並ぶ。Eピースは広島の新たな平和発信地の役割も担っている。

 被爆と復興の地に建つサッカースタジアムは、これから未来に何を語っていくのだろうか。サッカースタジアムでは、NPO法人『Peace Culture Village』とサンフレッチェ広島の共催で2025年夏から「スポーツ×平和×対話」をテーマにした「ピースポダイアログツアー」が始まった。

 ガイドの1人を務める広島市内の高校生、明石華さんは「スポーツの魅力は、さまざまな人が楽しめて、関われるところにあると思います。応援する人たちにとっても、選手にとっても、人と人をつなぐものなので、大きな可能性があると思います。また、国際試合を通じて他国のことを知ることができるのも魅力なので、スポーツはそうした役割を果たすものであってほしいと思います」とスポーツを通じた平和への取り組みに期待を込める。

「ピースポダイアログツアー」は、広島の高校生が発案した対話型平和学習プログラムで、平和とスポーツをテーマに街の歴史や平和への思いに触れながら、対話を通じて過去を学び、未来を考える体験型のツアーだ。広島平和記念資料館から原爆ドームなどのスポットを巡ってサッカースタジアムへと向かう約2時間のコースで、ガイドの高校生が様々な問いかけをして参加者と対話しながら歩いていく。

 明石さんが平和活動に興味を持ったのは、中学生時代にG7サミットで献花をしたことが大きなきっかけだった。献花の活動について発表する機会があり、「生徒会のメンバーと平和のために私たちができることをたくさん話して、それが楽しいなと思いました」。高校生になって活動を始め、「ピースポダイアログツアー」のガイドを通じて自身も成長してきた。


「まずは参加者のみなさんと仲良くなることが1番だと思っていて、そこから私に興味を持っていただけたり、話を聞いていただけたらうれしいです。私は今までずっと人見知りだったし、ツアーだと参加する方々と初めて話すので、最初は無理かもと思っていたけど、ツアーの対話を通じて人ってこんなに優しいんだと気づきましたし、人と話せるようにもなりました」

 広島平和資料館からサッカースタジアムまで、原爆の子の像やレストハウスなど平和と向き合える場が至るところに存在する。そんな場所をツアーで巡る中で、明石さんは日常の尊さを感じている。

「当たり前ということがどれだけ素晴らしいことなんだろうと実感します。今ここにある建物も、建てた人の気持ちや残っている経緯があって、たくさんの人が関わって努力した結果、こうして今も存在していると思うので感動しています」

 街を歩き、関心を向けて、平和について話し合う。そうした地道な取り組みが少しずつ輪を広げていくことを明石さんは経験してきた。

「私が『ピースプロムナード』で平和の軸線を説明していたときに、参加者の方の知り合いのサポーターの方が通りかかって、その時に『ここって平和の軸線なんだよ』とか、『そこに込められた思い』とかをその場で共有してくださって。それを見て、こういうふうに平和は広がるんだって体験できたし、そこで人の優しさにも触れられて幸せでしたし、うれしかった記憶があります」

語り継ぐ

 広島市は現在約117万人(2026年1月1日時点)が住む都市となり、周りは山々に囲まれ、複数の川が流れて瀬戸内海へとつながる。街中ではサッカースタジアムをはじめ、この数年で再開発が進んで高層ビルの建設が相次ぎ、広島駅は新しい駅ビルの2階に路面電車が乗り入れるようになって様変わりした。

 Eピースはほぼ満員が続いていて、サンフレッチェ広島が街中を紫に染めている。広島駅の近くに本拠地のマツダスタジアムを構える広島東洋カープは赤く染め、2026-27シーズンからEピース隣の広島グリーンアリーナを本拠地とする広島ドラゴンフライズも朱色に染める。

 被爆後、「75年間は草木も生えぬ」と言われた街は、80年のときを経て自然や建物、そしてスポーツをはじめとした文化によって色彩豊かな街になった。


 ただ、時が流れ、街が変われば、それだけ過去の記憶も薄れていく。被爆者の数は9万9130人で平均年齢は86歳(2025年3月時点)。80年前の惨禍を経験した人たちの声が聞けなくなる日も遠くはない。

 86歳の岸田さんは、平和記念資料館などでいまも元気に被爆体験講話を続けている。

「被爆体験講話」は、被爆者が自らの体験を次の世代へと直接語り継ぐ活動だ。広島市が主体となり、広島平和記念資料館を運営する「公益財団法人広島平和文化センター」が指定管理者として事業の企画や運営などを行っている。

 岸田さんは、「私は健康だし、大きな病気もしていなかったから、子供の頃に『被爆者でも被爆者とは言ってはいけないのよ』って大人に言われたこともあります。恥ずかしいという思いがあって、被爆者であることを口にすることを躊躇していました」と過去の複雑な心境を振り返る。

 初めて被爆者だと口にしたのは高校生のとき。教室で友人と会話中にお互いが被爆していたことを知った。「自分もその友達も原爆が原因で病気になったっていう症状がない限り、お互いに被爆者って言うのはタブーのように感じていました」。

 その友人が50歳の頃に癌を宣告されたことも、岸田さんが被爆体験の話を始めようと思った1つのきっかけだった。
友人はその後、元気を取り戻したが、現在も入退院や手術を繰り返し、様々な障害を抱えながら懸命に生きているという。

「やっぱり『黙っていていいのかな』という思いは常々ありました」と岸田さんは言う。ただ、被爆時は6歳の頃。「証言をしようという意識になるまでは、もう必要のない記憶として薄れていくばっかりでしたから、幻のごとくしか覚えていませんでした」と当時の記憶はわずかしかなかった。それでも、「前日のことは覚えていませんけど、8月6日当日の朝からのことははっきり覚えています」と力を込める。

 岸田さんは当時約3年間(現在約1年間)の研修期間を経て被爆体験講話を始めた。「被爆当時のことを思い出しながら、学んだことで点と点が線になりました」。いまも日々勉強しながら活動を続けている。その原動力の1つは“後悔”だ。

「自分が関心を持ったのが遅かったから、もっと早くに始めていればと思いました。他人事でしたね。自分は健康だし、その時の様子も幻ぐらいしか覚えてないので、伝えることなんてないと思っていましたし、自分が話す方が逆に亡くなった方々に失礼だとも思っていました」

「特に子供たちにはいつも『何事にも関心を持ってほしい』と話します。
関心がなかったら自分のことではないと素通りしてしまいます。これが私の大きな残念の1つです。他人事にしてしまったらいけないということを子供たちには伝えています」

文化をつなぐ

 こうした被爆体験は、伝承者たちに受け継がれている。広島市では「被爆体験講話」の他にも、被爆者から体験や平和への思いを受け継ぐ「被爆体験伝承講話」や、家族の被爆体験を伝える「家族伝承講話」も行われていて、被爆体験伝承者は239人、家族伝承者は39人(2025年4月1日時点)が活動している。

 被爆者の証言を次の世代へとつなごうと取り組んでいる人たちがいる。その1人の豊嶋起久子さんは、オペラ歌手としてオーストリアのウィーンに生活の拠点を置いていた頃に「被爆体験伝承講話」の活動を知った。

「被爆者がどんどんいなくなっているから次世代が大事だというネット記事を読んで、広島市の取り組みを知りました。すごく大事なことだと思いましたし、小さい頃に祖父が原爆の話をしてくれたときのことが蘇りました。瞬間的なことなので説明がつかないんですけど、もし日本に帰ることがあれば、伝承者になりたいと思いましたし、日本でやり残したことの1つだと直感しました」

 豊嶋さんの先祖は鎌倉時代に大工職で厳島社家に入り、江戸中期からは厳島に伝わる金剛座の系譜を汲む能楽師一家だ。起久子さんが原爆の話を聞いた祖父は豊嶋豊氏。広島県出身者として初の重要無形文化財(人間国宝)となった12代弥左衛門氏を長男とした能楽師豊嶋6兄弟の次男である。

 山口県の下関市に住んでいた豊氏は、原爆投下の直後に弟家族らを探しに広島市内へと入ったが、三男の要之助氏は被爆して行方不明。
末っ子の文二氏は広島第一陸軍病院で被爆して亡くなった。サッカースタジアム北側の川沿いにある広島陸軍病院原爆慰霊碑には「豊島文二」の名前が刻まれている。

 豊氏の孫である起久子さんは広島県呉市に生まれ、山口県や福岡県で育ったが、本籍は祖父の祖母方の実家である広島市横川町にある。伝承活動を始めて岸田さんの実家と近所であることも判明した。

 祖父から厳島の舞楽や能、歌舞伎の話を聞いて育った起久子さんは、オペラという異文化で開花し、チェコやセルビアなど中欧6カ国の国立歌劇場に招待されて公演を成功させてきた。欧州で約20年間過ごしたのち、2019年に帰国して、すぐに広島市の伝承者養成事業に申し込んで研修を受けた。コロナ禍の影響や原稿作成の期間を経て、2023年4月から岸田さんの体験を基にした伝承講話を続けている。

「おじいちゃんが話したことを忘れんでくれよ」。原爆の話をしてくれた祖父の言葉が起久子さんの伝承者としての原点だ。

「8月6日に消えてしまって、どのような最期だったのかも分からない先祖の魂を知ることは、私の中で大切なことです。会えなかった先祖に対する愛情です。その人たちがいたから私は今ここにいると思うので、それが活動のモチベーションになっています」

 2024年4月からは家族伝承者としても活動し、縁故疎開で宮島にいた要之助氏の長女で、6人家族で唯一生き残った豊島廣子さんの体験も語り継いでいる。
さらに同年にはドイツ語での伝承講話も作り上げた。現在は北九州市に住み、毎月広島を訪れて活動している。

 芸術とともに成長してきた豊嶋さんが活動を通じて伝えたいのは、「文化を大切にすること」だ。

「やっぱり自分たちの文化の豊かさを失ってほしくないということが大きいです。広島はデルタの土地を埋めて、毛利家、福島家、浅野家、みんなが文化を大事につないで構築されてきました。文化は目に見えない財産です。より良くなりたいとか、より上手くなりたいとか、明日はもっといい日でありたいとか、人間は『もっと』という思いで生きていると思います。そうした思いの蓄積が広島の至るところにあった。それは人間が営んできた宝物だと思います。私たちは戦争や原爆でこれを一度失ったということですから。生ける命だけじゃない、有形文化も無形文化も街ごと焼けた。こんなことはもう2度と地球上で起こってほしくない」

 伝統芸能、オペラ、サッカー、そうした文化には平和へとつながるチカラがあると起久子さんは信じている。

「スポーツ選手ならスポーツ、音楽家なら音楽の中で自分と戦うわけです。サッカーであればチームプレーですが、最終的に勝ち負けは決まって、その結果をみんなで受け止めて満足することができると思います。負けても自分たちに足りなかった点を振り返って、『次は頑張ろう』と前を向けます。戦争になると品格のタガが外れて、命令に従って自分を捨て敵と戦います。芸術やスポーツはそれとは正反対で、個人が自分と葛藤しながら納得し、自分自身を超えて行く世界です。そこに大きな意義があると思います」

「観客はそれを見ていろんな思いを抱きます。オリンピックが感動的なのは、自分では体験できない自己の戦いに触れ、選手とともに一喜一憂し、自分事としてその結果を受け取れるからだと思います。芸術も同じで、自分には奏でられない音や表現を深く感じて、精神の中で自分の体験として消化することができます。そうして自分と向き合って満たされていくことが平和につながると思います」

 起久子さんもオペラを通じて自分と戦ってきたからこそ、人生の価値を見出してきた。その自身の思いも込めながら、今後も80年前の惨禍を語り継いでいく。

「日々の営みがどれだけ大事なものなのか。生命がいかに尊いものなのか。それを人類で共感できれば、相手を無駄に攻撃することもないですし、自分の大事なものを簡単に手放す行動に出ないはずです。真の抑止力は自分の心の中にあるから、それを育てることが大事だと信じています。見えるものだけ失われるのが戦争ではない。その思いを私は言葉で丁寧に伝えていきたいです」

「スポーツができる平和」

 原爆によって焼け野原となった街には、80年という長い月日をかけて再び文化が積み重ねられてきた。それは紆余曲折ありながら、この街で日々生きてきた人々の思いが形となった結果だ。

 ただ、いまでは当たり前に存在するものこそ、意識しなければ、そこに注がれてきた努力は見えてこない。新サッカースタジアムもそうだ。試合日の華やかな演出や盛り上がりだけを見ても、その地に積み重なってきた歴史や建設に懸けた人たちの熱量は、関心がなければ想像し難い。

 被爆と復興の地に建つスタジアムは、様々な議論を経て誕生し、オープンから2年以上が経ったいまも、クラブを中心とした関わる人たちによって、より良い環境作りや活用方法の試行錯誤は日々続いている。そして、サポーターたちも素晴らしい一体感で、選手の背中を力強く押す最高の雰囲気を作り上げている。

 それは「当たり前」ではない。素晴らしい環境も声援が飛び交う熱い雰囲気も、行動し続ける人がいてこそ成り立つものだ。それと同じように、「スポーツができる平和」も当たり前にあるものではなく、作り続けていくものである。

 17歳の明石さんは、「平和へのアクションは誰でもできると思うし、私が1番思うのは『平和を作るのはみんなだよ』ということです。もちろん若者が頑張らないといけないのもそうですけど、でも大人の人もたくさん関わっているので、いろんな世代の人と平和を作っていきたいです」と明るい未来へ期待を込める。

 86歳の岸田さんは、「あの残酷な出来事を最後にしてほしいというのが1番の願いです。あの地獄のような体験を誰にもしてほしくありません。子供に味合わせてはいけない。私はそれを絶対に言い続けます」と語気を強めて平和へのメッセージを残した。

「そのためにはやっぱり関心を持つこと。戦争、平和、人間の生き方、何のために生まれたのか、どう生きねばならないのか、自由とは何なのか、人間として守らないといけないことは何なのか。そういったことを特に若い人たちには関心を持ってもらいたいです。被爆者だけではなくて、人それぞれにいろんな人生があると思いますけど、やっぱり『楽しかったね』って言える人生を送りたいですから」

取材・文=湊昂大

【取材協力】
公益財団法人 広島平和文化センター
基町プロジェクト
NPO法人『Peace Culture Village』
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