巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第4回は強打の捕手として阪神、西武で通算474本塁打を放った希代のホームラン・アーティスト、田淵幸一さん(78)の登場だ。

巨人に憧れを抱きながら、ドラフトで宿敵・阪神に入団。高々と舞い上がる美しい本塁打でファンを魅了し、トレードされた西武で悲願の日本一を手にした。ドラマチックな野球人生の「喜怒哀楽」を振り返る。(取材・構成=太田 倫、湯浅 佳典)

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 1973年に優勝していたら、人生が変わってただろう。10月22日の巨人とのシーズン最終戦の舞台は甲子園。勝った方が優勝だったのに0―9で負けて、奈落の底に突き落とされた。ショックで3、4日、家を出られなかった。

 マジック1で迎えた129試合目の中日戦(10月20日、中日球場)では引き分けでも優勝だったが、2―4で負けた。親友の星野仙一が先発で、後で言われたよ。「打たせてやろうと思ったのに打たねえじゃねえか」ってね。勢いはあったけど、経験不足だった。

 阪神では優勝を味わえず、78年のオフに発足したばかりの西武にトレードされた【注3】。

通告されたのは11月15日の真夜中だった。その日は江本孟紀と和歌山でゴルフ。家に帰って寝ようかと思っていた矢先、球団から午後11時半頃に電話がかかってきて、ホテル阪神に呼び出された。

 トレードとは分かっていた。それまで連日スポーツ紙の紙面をにぎわせていたからね。でもホテルの周りにはマスコミがいて、全部バレてるんだ。オレの前には江夏豊も南海に放出した。なんでこの球団は選手を大事にしてくれないのかな、と思った。ちょっと成績が落ちればヨソへ出す、じゃ優勝できない。ましてや夜中に呼ぶような球団とはサヨナラしてもいいやと思った。

 ところが、西武で優勝を味わうことになるんだから分からないもんだ。でも79年はいきなり開幕12連敗。

オレの野球人生は終わった…と思ったね。

 最初の3年間は最下位、4位、4位。81年のシーズンが終わったとき、監督の根本陸夫さんに呼ばれて「オマエ、明日から練習せいよ」と言われた。なんでオレだけ呼ぶのかな、と不思議に思っていたら、直後に広岡達朗さんの監督就任が発表された。とにかく厳しい人だから準備しておけ、っていうシグナルだったんだね。

 就任直後のミーティングで、広岡さんは言ったよ。「チームで一番給料が高い選手が守れない、走れないではダメだ」。オレのことだよ。で、選手に一人ずつダメ出ししていった。みんなで「あんなこと言われて悔しいよな、何とかこれは優勝しようや」って言い合った。「胴上げして、3回目に落としたろうや」と。それを合言葉に、一致団結したよ。

そこからは監督との闘いだった。

 【注3】阪神からは田淵と古沢憲司、西武からは真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史という2対4の大型トレードだった。

 ◆田淵 幸一(たぶち・こういち)1946年9月24日、東京都生まれ。78歳。法大で通算22本塁打を放ち、当時の東京六大学リーグ記録を樹立。68年ドラフト1位で阪神入り。69年に22本塁打で新人王。75年には本塁打王。78年オフに西武にトレードで移籍し、82、83年の連続日本一に貢献。83年は正力賞を受賞した。84年に現役引退。引退後はダイエー監督、阪神チーフ打撃コーチ、北京五輪日本代表ヘッド兼打撃コーチ、楽天ヘッドコーチを歴任。

2020年に野球殿堂入り。

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