長嶋茂雄さんの死去を受け4日、埼玉・ふじみ野市で讃岐うどん店「條辺」を経営する元巨人の中継ぎエース・條辺剛氏がスポーツ報知の取材に応じた。99年のドラフトで自身を指名してくれた恩師との別れに「ショックです」と悲痛の表情。
「今朝、スポーツ報知を買いに行きましたが、どこも売り切れでしたよ。(長嶋さんのことが)一番詳しく載っているから、みなさん、かなり買われたんでしょうね」。條辺氏は記者が持参した4日付けスポーツ報知紙面に目を通した。2001年2月10日、宮崎キャンプでランニングをする長嶋さんらの写真を見ると、マスク越しでも分かるほどニッコリ。「懐かしい。とても覚えています。僕は右も左も分からない状態。スター軍団についていくのがやっとで、顔を覚えてもらうのに必死でした。キャンプなのに4万人もファンの方が集まっていて、人の多さからも監督の人気を実感しました」と感傷に浸った。
長嶋さんにとって第2次政権ラストイヤーだった2001年、條辺氏はプロ2年目19歳。この年のドラフト1位だった阿部慎之助監督とともに宮崎キャンプを1軍でスタートした。
印象深いのは、この年の4月3日ヤクルト戦。この試合を終えたら、條辺氏の2軍落ちが決まっていたため、ミーティングで「明日から2軍に行きます」と報告していたが、転機が訪れた。6回から工藤公康の救援として登板した。ペタジーニにもひるまず直球勝負する新世紀の若武者に、ミスターは8回裏、「ピッチャー、このままいくぞ!」と絶叫で続投を宣言。長嶋さんの期待に応え、4回ノーヒットでプロ初セーブした。
「終わった後に監督が『よくやった』って満面の笑みで迎えてくれたことがとてもうれしかった。監督に『がんばれ』と言われると、不思議な力がわくんですよ」。
長嶋さんはこの年でユニホームを脱いだ。條辺氏も肩を壊し、2005年で引退した。引退後は1軍のピッチングコーチとして條辺氏を導いた同郷の先輩・水野雄仁氏のすすめもあり、飲食業の世界へ。高松市のうどん店での修業を経て、2008年に「讃岐うどん 條辺」をオープンさせた。水野氏から長嶋さんにサインをお願いしようと提案を受けたが、條辺氏は「無理でしょう」と消極的。それでも、長嶋さんは「セカンドキャリアを応援するのは我々の仕事だ」と承諾した。脳梗塞で療養中だったため、左手で屋号の「條辺」「じょうべ」をサイン色紙にしたためてくれた。のれんは、色紙の文字を染め抜いたものを使用している。
この日も店には長嶋ファンが来店。「残念だね」「さみしいね」と言葉を交わしたという。
「監督は僕をドラフトで指名してくれた。引退後もこの色紙があって、お客さんも見に来てくれて、いいスタートが切れた。いつも僕の分岐点を支えてくださった。感謝してもしきれないですね」。
闘将の支えを胸に、これからもおいしい一杯を作り続けていく。
(水野 佑紀)