スポーツ報知では、関東大学サッカーリーグの魅力を伝える企画を随時掲載する。第4回は「慶大ソッカー部」の中町公祐監督(39)と主将のMF田中雄大(4年)がインタビューに応じ、1部に復帰するまでの道のりなどを語った。

慶大は22年に3部へ降格し、翌年に2部昇格、中町監督が就任した昨季は優勝で1部に舞い戻った。「総和で勝つ」をテーマに掲げて復活を目指す陸の王者に迫る。(取材・構成=浅岡 諒祐)

 現実を受け止められなかった。22年12月3日の2部参入プレーオフ決定戦で、慶大は亜大と対戦。引き分け以上で2部に残留できたが、1―1の後半アディショナルタイム3分に決勝点を決められ、翌年から新設される3部への降格が決定した。

 田中(以降、田)「慶応が3部にいていい大学ではないと、全員が理解していた。降格してからの数週間や数か月は、ネガティブな雰囲気がありました」

 ただ、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。2年に進級した田中らは、学年ごとに行われるミーティングで「4年時の1部復帰」を目標に定めた。

 田「4年時の理想像を明確に決めた。4年になったタイミングで、1部で大学サッカーをけん引する存在になる。3部にいながらもその理想は掲げていましたし、常にメッセージとしてありました」

 3部で戦った当時の4年のひたむきな姿勢にも支えられた。当時は下級生がチームの中心を担い、主力として出場する選手は「3~4人くらい」。

しかし決して腐らず、日々を懸命に過ごす姿に感銘を受けた。

 田「早慶定期戦の前日の練習で、4年生が涙を流しながら最後のスプリントトレーニングをやっているのを見た。気丈に振る舞ってくれて、試合に出る下級生のために全力で声を出してくれた。その姿勢は慶応ならではだし、原動力になる。自分たちの心に来るものはありました」

 母校の3部降格をアフリカのザンビアで聞いた中町監督は「残念な気持ちはあった」としつつ、「学生たちが必死に日々を過ごしていることに疑いを持ったことはない」と信頼していた。就任前の23年12月には韓国遠征にも同行。正式に就任した1月に、指揮官は選手にある訓示を送った。

 中町監督(以下、中)「そういうふうに言った覚えはなかったんですけど、『ソッカー部はどこの位置にいるべきだ』と話したみたいで。慶応義塾として日本をけん引する大学の誇りを僕は持っている。『ソッカー部が下から上を見上げるような組織ではないよ』と自信をつけた。2部にどういう相手や選手がいるかは全く分からなかったが、自信と確信は持っていました」

 昨季途中、FW塩貝健人(当時2年)がオランダ1部NECに加入し、退部した。実力者が抜けたが、2部優勝へ動揺はなかった。

 中「シーズンの初めから、塩貝をあえて出さないこともあった。他のメンバーに対する信頼があったので全く問題ない」

 ソッカー部では「総和で勝つ」という言葉が3部降格前後から定着した。誰一人欠けることなく、自分の思いや考えを立場関係なくぶつける。そんな伝統がソッカー部にはある。現在は12チーム中11位。苦しい展開も総和ではね返す。

 田「とにかく一日一日、一試合一試合。その先に去年見たような優勝の景色が見られる。自分たちが最高の景色を見るのもそうですし、後輩たちに最高の舞台を残す、最高の景色を見せるのは自分たちの役目。そこに向かって全力で、総和で勝っていきたい」

要所の気遣いに“総和”の一端見た

◆取材後記 要所の気遣いにあふれた。特に表れたのは写真の撮影時だ。カメラマンがどう撮りたいかを考えて、中町監督は撮影位置を自ら提案。

より円滑に撮影を進めることができた。

 日吉駅への帰り道では、その話が真っ先に挙がった。ボールを依頼した際も、田中主将が「慶応」と書かれたボールをクラブハウスから持ってきた。練習を中断している間での撮影だったため、部員への配慮も忘れていなかった。

 インタビュー中は、中町監督は時折冗談を挟みながら、田中主将の緊張を和らげていた。長年プロとして数多くの取材対応を行ってきた慣れもあるだろう。しかし、ソッカー部の土壌があるからこその気配りでもあると感じた。“総和”という言葉がなぜ定着したか、その一端を見た。(大学サッカー担当・浅岡 諒祐)

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