◇報知プレミアムボクシング▽激闘の記憶 第6回 WBA世界ミドル級(72・5キロ以下)タイトルマッチ12回戦 〇同級4位・竹原慎二(判 定)王者・ホルヘ・カストロ●(1995年12月19日、後楽園ホール)

 日本ボクシング界に奇跡が起きた。挑戦者の竹原慎二(沖)が、WBA世界ミドル級チャンピオンのホルヘ・カストロ(アルゼンチン)を判定で下し、日本で初めて世界ミドル級のベルトを手にした。

当時23歳、23戦全勝18KOで世界に挑んだ竹原は、アジア圏では圧倒的な強さを発揮しながらも、世界的には無名の存在。アジア人には高すぎる壁といわれたミドル級で、百戦錬磨のカストロからダウンまで奪い快勝した。雑草魂で圧倒的不利を覆し、歴史の扉を開いた一戦となった。(敬称略)

 もう30年前になる。奇跡の一戦を竹原が述懐した。

 「カストロ戦は人生の分岐点。日本や東洋太平洋の王座をいくら防衛しても比べものにはならない。人生を変えた一戦で、あの勝利がなければ、今の自分はないです」

 天下のミドル級チャンピオンが後楽園ホールのリングに上がった。会場のファンは、そんな気持ちでカストロを見ていたはずだ。当時はそれだけ世界ミドル級というクラスが遠い存在だと思われていたからだ。が、挑戦者は勇敢だった。日の丸の鉢巻き姿で登場すると、100戦以上(98勝68KO4敗2分け)のキャリアを誇る王者を相手に、ひるむことなく真っ正面から打ち合った。

1回、身長で10センチ以上上回るアドバンテージをいかして左ジャブを効果的に当て、すきを見て放った右ストレートがヒットする。そして3回、スピードのある左ボディーブローを王者の腹に突き刺すと、カストロは弱々しく後退して青コーナーの前で崩れ落ちた。立すいの余地もない館内は恐ろしいほどの熱狂に包まれた。試合の決着を予感させるダウンシーンだったが、百戦錬磨のチャンピオンはそれでも立ち上がり反撃を仕掛けてきた。

 中盤になると分厚い胸板の王者は体を密着させた打ち合いに持ち込もうと、前に出て丸太のように太い両腕からフックを打ち込んできた。その圧力に負け、ジリジリと下がるのが普通の挑戦者だが、この日の竹原は違った。体で王者を受け止め、アッパー、フックを上下に打ち分けた。11回のゴングが鳴ると足を使い左を突き、まだまだ元気と健在ぶりを証明。最終12回終了のゴングまで互角以上に打ち合った。そして青コーナーに戻り、リングアナのコールを待った。

 「勝者、青コーナー竹原」。118―112、117―111、116―114。

疑う余地などみじんもない3―0判定勝ちで歴史の扉をこじ開けた。

 奇跡の一戦は開催するまでが、いばらの道だった。日本では開催したことのないミドル級の世界戦。竹原が東洋太平洋王座の防衛を続けると、世界挑戦への期待は自然と高まった。陣営は関係者を通じて海外のプロモーターに交渉を持ちかけるが、正直、相手にされなかった。王者側にしてみれば、日本のミドル級ボクサーと試合をしてもファイトマネーを含め何もメリットがないというのが本音だった。それでも陣営はあきらめなかった。何が何でも世界戦を実現させようと、ジムの親会社がプロジェクトチームを作り、英語が堪能な従業員を窓口にして米国のプロモーターと24時間体制での交渉に臨んだ。そんな苦難の末に実現した世界戦でもあった。

 試合の開催が決まったはいいが、ベルト獲得に現実味を感じる者は少なかった。竹原の日本、東洋太平洋王座の試合を中継していたのはTBSだった。本来ならばそのままTBSで世界戦を中継するのが本筋だが、ミドル級という階級から勝算が極めて低いという判断から中継を断念。

最終的にテレビ東京となるが、生放送ではなく深夜の録画放送。それだけ勝利を信じる者は少なく、日本ボクシング界にとっては高すぎる壁という認識だった。

 90年代、ミドル級は世界に通用しない階級と言われていた。そうした時期にボクシング担当になり、個人的にも「ミドル級の世界戦」は別世界の出来事のような感覚でいた。そんな新人時代、弊社の先輩記者から言われた言葉を今でもはっきりと覚えている。

 「日本と欧米の実力差は口で言う以上に大きい。だが、日本の重量級でひとりだけ突出して才能のあるボクサーがいる。もしかしたら、あの選手なら世界にいけるかもしれない。追いかけた方がいいぞ」

 全日本新人王を取ったばかりの竹原を指した言葉であり、デビュー当時から他を寄せ付けないスピード、パワーを持ち合わせていた。竹原は王座獲得から半年後の96年6月、ウィリアム・ジョッピー(米国)との初防衛に敗れ引退した。その時、「これから50年はミドル級王者は誕生しないだろう」と思った。しかしだ。

2012年ロンドン五輪金メダリストとなり、プロでも世界王者となった村田諒太(帝拳)という大スターが誕生した。このうれしい誤算も、日本が世界に誇れる史実だ。

 ◆竹原 慎二(たけはら・しんじ)1972年1月25日、広島・府中町出身。16歳の時にプロボクサーを目指すために上京。89年5月にプロデビュー。91年10月に西条岳人を7回KOで下し、日本ミドル級王座獲得。その後、東洋太平洋王座も獲得し6度の防衛に成功。95年12月に日本人初の世界ミドル級王者となる。引退後の2002年7月に2階級制覇王者の畑山隆則と共同でジムをオープン。過去にはラップCD「下の下のゲットー。」を発売したこともある。身長186センチの右ボクサーファイター。通算戦績は24勝(18KO)1敗。

家族は妻との間に1男1女。

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