空手家・佐竹雅昭(60)が今年、格闘家人生45年を迎えた。空手家を志し15歳で「正道会館」に入門。

ヘビー級の空手家として異種格闘技のキックボクシングに挑戦。その実力と開拓魂、さらには明るいキャラクターで一般大衆にもアピール。それまで格闘技の興行は「入らない」が定説だったが、佐竹の存在が常識を覆し1990年代に立ち技系格闘技イベント「K―1」を生み出し人気は沸騰した。今年は佐竹がキックに初挑戦した1990年6月30日に日本武道館で闘ったドン・中矢ニールセン戦から35年。スポーツ報知は格闘技界に絶大な貢献を果たした佐竹を取材し、現在の格闘技人気につながるニールセンとの歴史的な一戦をはじめ空手家人生を代表する「十番勝負」を連載する。二番勝負は、ウイリー・ウイリアムス戦(前編)。

 ドン中矢ニールセンとの「人生をかけた」決戦をKOで突破し自身の未来は、もちろん、格闘技界における新時代の扉を開いた佐竹が次に挑んだ相手が伝説の空手家ウイリー・ウイリアムスだった。対戦は、ニールセン戦から1年後の1991年6月4日、場所は国立代々木競技場第二体育館だった。大阪・吹田市で育った中学時代に書店で極真空手の創始者・大山倍達が書いた「地上最強への道 大山カラテ もし戦わば」と出会って空手家を志した佐竹にとって1980年代に極真「最強の外国人」とうたわれた「USA大山空手」に所属するウイリーとの戦いは、夢の大一番だった。

 「まず極真というブランドが、僕にとって憧れだった。あの『地上最強への道』で大山先生が牛の角を持ってカメラ目線でにらむ写真を見た時に全身に電流が走ったわけですよ。そこから空手というものを知り空手家を志した。

つまり、大山先生イコール極真が僕の人生を決めたんです。一時は極真に入門しようとしたぐらいです。その中で『熊殺し』の異名を持つウイリーは特別な存在でした。人間が熊と闘うってすさまじいインパクトを受けましたから。その熊殺しと自分が闘うと決まった時は、うれしいなんてもんじゃないですよ。夢がかなったし、武者震いしました」

 1951年4月14日生まれの米国人空手家のウイリーは、極真会館コネチカット支部に入門。100人組み手を完遂するなど極真会館の猛者だった大山茂の指導を受け頭角を表し、79年の第2回全世界選手権で3位に入賞する。身長201センチ、体重130キロの巨体を持つ空手家の名を有名にしたのは、劇作家の梶原一騎が1976年に制作したドキュメンタリー映画「地上最強の空手 PART2」だった。この作品でウィリーは、巨大グリズリーと戦い”熊殺し”の異名で注目を集めた。さらに80年2月27日には新日本プロレスの蔵前国技館大会に出場しアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦で対戦。ど迫力の蹴りで猪木を追い詰め試合もドクターストップによる引き分けでプロレスのリングでも猪木に敗れずその強さをアピールした。

 幾多の伝説を築いたウイリーは佐竹にとってあこがれの存在で武者震いは当然だった。

さらにこの一戦は、空手家として一世を風靡したウィリーと新時代の扉を開いた佐竹という新旧世代交代の対決の意味合いも込められていた。

 試合は、佐竹が所属していた「正道会館」とウイリーが在籍した「USA大山空手」との5対5対抗戦。大将戦で佐竹は熊殺しに挑んだ。

(続く。敬称略。取材・書き手 福留 崇広)

 

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