空手家・佐竹雅昭(60)が今年、格闘家人生45年を迎えた。その実力と人気で1990年代に人気が沸騰した立ち技系格闘技イベント「K―1」を生み出したレジェンド。

スポーツ報知は現在の格闘技人気につながる礎を築いた佐竹を取材。空手家人生を代表する「十番勝負」を連載する。五番勝負は、「K―1」ピーター・アーツ戦(前編)。

 1993年4月30日、代々木第一体育館で初開催された「K―1グランプリ」の大成功で「K―1」は一気にブランド化した。9月4日に日本武道館で「K―1 ILLUSION」と題したワンマッチ興行を初めて開催。さらに12月19日には両国国技館で82キロ以下の世界的強豪による「K―2グランプリ」を行い、年が明けた94年3月4日には日本武道館で「K―1 CHALLENGE」を実施した。

 武道館、両国という1万人以上を収容する巨大アリーナはすべて超満員。長年に渡り興行でプロレスに完敗していた格闘技が完全に逆襲に出た時期だった。折しも世界では、総合格闘技のトーナメント「UFC」が93年11月12日に米デンバーで初開催。グレイシー柔術のホイス・グレイシーが初優勝し日本でも話題となった。K―1とUFCが誕生した1993年は、まさに現在につながる「格闘技元年」だった。

 そして、K―1を支えた主役が佐竹雅昭だった。

K―1グランプリ準決勝で優勝したクロアチアのブランコ・シカティックにKOで敗れたが、その人気と存在感は不動だった。シカティックにKOで敗れたわずか2か月後となる6月25日に大阪府立体育会館での「聖戦」でドン中矢ニールセンと再戦し1回TKOで勝利。そして9月4日の日本武道館での「K―1 ILLUSION」でオーストラリアのスタン・ザ・マンと対戦し5回判定で制す。続けて12月19日の両国国技館での大会「K―2グランプリ」でKICK世界スーパーヘビー級&ISKAオリエンタル世界ヘビー級王座決定戦で米国のジェフ・フォーランスを2回TKOで倒した。すべての大会でメインイベント、あるいはメインクラスを任された。しかし、熱狂の中で佐竹の心は冷静だった。

 「最初は良かったんです。どうなるか分からないからみんなが団結して、頑張っていこうっていうムードがありました。ただ、興行が成功すると、どこからかいろんな人が入ってくるんですね。僕たちがK―1に至るまで、どれだけの闘いを重ね苦労してきたことも知らないで、そういう外部から来た方々は、どういうわけか上から目線で接してくるんですね。人気が上がると外部だけでなく内部のスタッフも勘違いしていきました。そういうコロッと態度が変わる人たちを20代で目の当たりにできたことは、いい勉強になりました」

 ブームに浮かれ、リングで闘う選手の健康はないがしろにされていた。

プロボクシングは試合を管轄する日本ボクシングコミッション(JBC)がKO、TKO負けの選手は次戦まで「原則90日経過」(現在は義務へ改訂)の規定がある。ところが、当時のK―1には、こうした選手の健康、そして命を守る規定はなかった。

 この時の佐竹は、シカティックにKO負けした2か月後にニールセンと対戦した。さらに年が明けた94年3月4日には日本武道館での「K―1 CHALLENGE」でアーネスト・ホーストに2回KOで敗れたが、2か月も経過していない4月30日に代々木第一体育館での「第2回K―1グランプリ」へ出場した。

 興行のために選手を命の危険にさらす多大なリスクを負わせていたのが人気が沸騰した90年代「K―1」のもうひとつの顔だった。事実、佐竹はダメージの蓄積が現実になるが、それは今後、詳述したい。そもそも試合の公正、公平をつかさどるレフェリー、ジャッジは、プロモーター側の人選で厳格な規定に伴う資格を持つライセンス制度もない。象徴的な例を佐竹が告白する。

 「ドーピング検査はあったんです。ただ、実態はひどいものでした。僕が尿を取るためにトイレに入ると、名前は伏せますが、ある選手がトレーナーと個室に入って、コップに入った尿を提出していました。ドーピング検査は、尿を採取する時に検査員が立ち会うのは当たり前じゃないですか。

それが検査員はいなくてトレーナーと個室に入って尿を提出するって…当然、選手本人の尿じゃないんじゃないか?と疑いますよね」

 そして、続けた。

 「Kー1は、当事者たちが誰も予期しない形で人気が突然、爆発したんですね。人気に浮かれて競技スポーツとして一番、大切な選手の命、安全を守ることをおろそかにしてしまった。規約はありましたけど、ドーピング検査のように実態は、伴っていなくてひどかった。当時は、新しい格闘技、スポーツ、ともてはやされてましたが、スポーツでも何でもなくて僕は『見せ物小屋』と思っていました。そして、僕もその一部でした」

 ファイターは本物でもK―1の運営の実態は、新しい「スポーツ」ではなく格闘「ショー」だった。信じられない過酷なスケジュールの中、佐竹は94年のK―1グランプリに挑んだ。

 (続く。敬称略。取材・書き手 福留 崇広)

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