8日に肺炎のため死去した俳優・仲代達矢さん(享年92)は70年以上にわたる役者人生を重ねながらも、揺るぎない「普通の感覚」を持ち続ける常識人として知られた。

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 仲代さんは、端正な容姿から生まれるリアリズムに徹した演技に定評があった。

それは、生死にかかわる壮絶な別れから生まれていた。自身、兵役には行っていない。しかし、一貫して反戦を訴えてきた。それは戦時中の忘れたくても忘れられない経験によるものだった。

 太平洋戦争時、まだ少年で毎晩続く空襲におびえた。焼夷(しょうい)弾が降る中、5歳くらいの女の子がいた。その子を連れて逃げようとしたその時、焼夷弾が少女を直撃。即死だった。仲代少年の手には、その子の腕だけが残っていた。「自分がそうなっていたかもしれない。今も夢に見る。その腕を置いて逃げてしまった。

一生の後悔。あまりこういうことはしゃべりたくないんですが」。やり残したことを聞かれれば、「戦争をやっている愚かな人間どもにくさびを打ち込むような作品を」と答えていた。

 仲代さんには実は息子がいた。結婚7年目に授かった。ところが、妻の恭子さんが臨月の時、階段で転倒。このことを、役者人生50周年の取材時に語っている。「死産でした。そんな時ですら妻は笑顔を向け、心配させまいとした」。亡きがらは仲代さんに似た赤ちゃんだったという。

 深い失意を埋め、次に進むために決意したのが、無名塾の設立だった。「役者教育というよりも僕たちが、刺激を受けたい」。

夫人と二人三脚で塾生に愛情を注ぎ、厳しく接してきた。仲代さんは出世頭の役所広司のことを話す際、何度も「あの子は」と言って「また、あの子と言ってしまった。我が子のように思ってきたから」と話していた。

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