◆報知プレミアムボクシング ▽後楽園ホールのヒーローたち 第27回前編 下田昭文

 プロボクシング元WBA世界スーパーバンタム級王者の下田昭文(41)が、埼玉・北浦和に「SUGAR FIT BOXING GYM」をオープンして6年が経過した。会員は順調に増え、今年7月には南越谷に2号店をスタート。

世界王者という肩書があったからこそのジムオープンだったと話し、その世界チャンピオンになるための原動力になったのは、同じ年の同門ボクサーの存在が大きかったという。元世界2階級制覇王者(WBCフェザー、スーパーフェザー)粟生隆寛へのライバル心。「エリートには負けない」と心に決めた現役時代を前編で、後編では何をやっても中途半端だった少年時代から、プロボクサーになることで好転した半生に迫る。(取材・構成=近藤英一、敬称略)

 現役時代は一年中真っ黒に日焼けした姿が印象的だった下田も41歳。大好きだった日焼けサロンは引退と同時に卒業し、今ではジム代表として地に足を着けた経営に励み、楽しくボクシングを教える日々を送っている。

 「引退して何をやろうか迷いましたが、自分にできることを考えたら、ここにたどり着きました。ジムをオープンできたのも、世界チャンピオンになることができたからです」

 2011年1月31日、東京・有明コロシアム。プロ26戦目の下田は、WBA世界スーパーバンタム級王者・李冽理(横浜光)に挑戦すると、3度ダウンを奪い判定で世界王座を手にした。約半年後の米国での初防衛戦には敗れたが、サウスポースタイルから回転の速い連打が特徴的なテクニシャンで、目と足でパンチをかわす天才肌のボクサーとして一時代を築いた。

 「自分はジムの中でアマチュアの経験のない少数派でした。トップアマからプロ入りしたエリートだらけの中で、異色の『たたき上げ』でしたから、正直、周りへのライバル心はありました。特に粟生とかは…」

 下田がジムに入門したのは中学3年の2月。

高校受験で5校に不合格となり、ストレス発散のために自宅近くの帝拳ジムを訪れ、ボクシングをスタートした。その後、入門から1週間後に合格した高校に入学するのだが、最終的に勉強には興味が持てずに3か月で中退。ボクサー一本で勝負する生活を選択した。

 確かに光るものはあった。入門2日目にスパーリングをすると、先輩ボクサーのパンチをいとも簡単にかわした。非凡な才能はすぐにジム関係者の目に留まり、大役を任された。02年3月、まだ17歳。デビュー前にもかかわらず、当時のWBA世界スーパーフライ級王者・セレス小林(国際)へ挑戦するために来日した、21戦全KO勝ち(当時)の“倒し屋”アレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)の公開スパーリングの相手を務めることになる。無謀とも思われた大役だったが、蓋を開ければムニョスのパンチをことごとく空転させた。その数日後にセレス小林を8回TKOで下し世界王者になる実力者から、一発もまともにパンチを受けずにポイントアウトしてみせたのだ。

 入門して約3年がたっていた。同年代の選手とのスパーリングのため、都内の高校に足を運んだ時だった。

ボクシング部の生徒から、こんな言葉をかけられた。

 「下田さん、習志野高の粟生という選手を知っていますか? 同じ年で階級も同じぐらい。高校では無敵、とにかく強いんです」

 その時は軽く聞き流した。「へぇー、ぐらいは返したと思いますが、正直、自分には関係ないこと」と興味を示さなかった。ところがだ。その数か月後、史上初の高校6冠を達成した粟生が、帝拳ジムに入門してきたのだ。「まさか、まさか、という感じでした。同じジムに入ってくるとは思ってもなかったし、『これがうわさの粟生か』という目で本人を見ていたのを覚えています」。当時は高校3冠で偉業といわれる時代。粟生の6冠は異次元であり、プロ入り時からマスコミに大々的に取り上げられた。

 ジェラシーを感じた。「センスがある」などと言われ、自分に注がれていた視線が一気に粟生に移るのが分かった。

そこからは、同じ年、同じサウスポーの「超」がつくほどのエリートを必要以上に意識した。ただ、これは一方的なものだった。粟生が当時を振り返る。

 「自分はまったく下田のことを意識していませんでした。というよりも、下田の『し』の字も知りませんでしたから」

 粟生のデビュー戦(03年9月)は大きな注目を集めた。下田は「確かにインパクトのある勝利でした。それを見て、自分も燃えましたから」とライバルの2回TKO勝利に刺激を受ける。その8か月前にデビューし、東日本新人王戦に出場中だった下田はこう周囲に宣言した。「もっとインパクトのある勝ち方で新人王を取ります」

 デビューから破竹の勢いで白星を重ねた下田だったが、それでも粟生には常に一歩先をいかれた。理由は明白だった。「走るのが嫌いでロードワークをしていませんでした。朝早く起きるのがつらくて…。

相手が強くなったとたんにボロが出ました」。痛恨のプロ初黒星は今でも鮮明に覚えている。06年2月4日の瀬藤幹人との10回戦。「3ラウンドで早くもスタミナが切れました。最後は判定(0―2)でしたが、前歯も5本折られた」。プロ13戦目での屈辱は“ガス欠”による自業自得の黒星だった。

 待望の日本タイトルは07年4月。日本スーパーバンタム級王者・山中大輔を10回判定で下し初タイトルを獲得した。その1か月前だった。「粟生が先にフェザー級で日本タイトルを取っていたんです。新人王の時と同じで、負けられないという気持ちがより強くなった」。日本チャンピオンになると自信がついたのか、大胆な行動を起こした。

「あの頃は『ジムで自分が一番強い』と思い込み」、担当トレーナーの葛西裕一にこう嘆願した。「西岡さんより自分の方が強いので、もっと自分の方を重点的に見てほしい」。西岡とはジムの先輩・WBC世界スーパーバンタム級王者の西岡利晃だ。粟生の試合の時には、実力を認めながらも「俺の方が才能はありますから」と言ってきたことを葛西は明かし、この生来の負けず嫌いこそが下田の強さの原点であると指摘した。

 そんな関係も「日本王座を取ったぐらいからは会話をするようになった」と下田はいう。粟生も「お互い世界を意識し始めた頃からは、目標も同じになり話をするようになった」といい、名前すら知らなかった同じ年の「たたき上げ」ボクサーは意識する存在となり、お互い認め合うライバルとなった。

 下田は11年1月に世界のベルトを手にする。この時、粟生はひと足先にWBC世界スーパーフェザー級王者となり、10年3月のフェザー級と合わせて2階級制覇を達成していた。「いつも粟生には先を越されていた。日本も、世界も。でも、世界王者になれたのは粟生の存在が大きかった。それだけ自分は刺激を受けた」と感謝した。

そして、こう続けた。「(粟生は)動きが柔らかく、カウンターが本当にうまい。人がまねできないような動きをする。でも、試合は自分の方が面白いかな」(続く)

 ◆下田 昭文(しもだ・あきふみ) 1984年9月11日、北海道生まれ、東京育ち。中学3年の終わりに帝拳ジムに入門。2003年1月にプロデビュー。日本スーパーバンタム級、東洋太平洋同級王座を獲得後の11年1月に李冽理(横浜光)を下しWBA世界同級王座を奪取。米国での初防衛戦に敗れ王座陥落。16年12月がラストファイト。プロ戦績は31勝(14KO)6敗2分け。身長171センチ、ボクシングスタイルは左ボクサーファイター。家族は妻・英実さん(40)と長女・文香ちゃん(二つ)。

 ◆「SUGAR FIT BOXING GYM」 2019年11月に埼玉・北浦和にオープン。JR北浦和駅東口から徒歩3分、定休日・火曜日(年末年始、夏期休暇、臨時休業あり)。TEL048―749―1955。今年7月には2号店として南越谷店がスタート。南越谷駅、新越谷駅から徒歩3分。定休日は火曜日(年末年始、夏期休暇、臨時休業あり)。TEL048―911―7898(対応時間10時~21時)。

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