今夏に相次いだプロボクシング界の死亡事故を二度と起こさないための取り組みが世界3階級制覇・中谷潤人(27)らが在籍するM・Tジムで行われている。同ジムの村野健会長(60)は同じ神奈川・相模原市にある「にしもと脳神経外科クリニック」の西本英明院長(50)に協力を要請。

リング禍防止に試合前のMRI検査を義務づけるなど、対策を指導している西本医師に話を聞いた。(取材・構成=谷口 隆俊)

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 今年8月、M・Tジムに所属していた神足茂利さんが試合後に急性硬膜下血腫を発症し、28歳の若さで亡くなった。

 悲劇は二度と繰り返してはいけない―。その強い思いを胸に村野会長が協力を仰いだ西本医師はボクシングが好きで、自らも空手に汗を流すなど格闘技に精通している。神足さんの事故にも心を痛めており、要請に快諾した。9月から毎月、所属選手に体調管理シートの提出を義務づけた。

 「例えば、脳しんとうの症状でも多種多様あります。選手自身に、自分の体を見つめ直す機会を月に一度、持ってもらうことにしました」と西本医師。シートは村野会長と西本医師に提出。ジムと医療機関の双方で選手をフォローするシステムだ。アンケート形式で書かれており、頭痛、めまい・ふらつき、ぼやけてみえる、光に過敏、霧の中にいる感じ…など該当するものがあれば申告し、西本医師がデータ化して管理する。「これは脳しんとうに当てはまる症状なんです。

慢性的に続く場合は慢性外傷性脳症などにつながってくる可能性がある。脳しんとうを見つけ出すことはファーストステップとして重要」と西本医師。村野会長は「ジム全体で事故防止対策をやっていこうと決めた。管理シートに書き込むだけで意識付けが全く変わってきます」と説明した。

 試合前には、スパーリングを打ち上げたタイミングでMRI(磁気共鳴画像)により脳をチェックすることになった。「そこでもし、脳に出血でも認められたら、リングには絶対的に上げてはいけない。どんなに大きな興行でも、命を守るために僕は医者としてブレーキをかけます」と西本医師。中谷はこれまで、西本医師にスパーリングに立ち会ってもらったり、世界戦前には毎回、MRI検査を受けた。ビッグバンは「試合前に検査してもらうのは大事だと思う。練習中、近くにお医者さんがいらっしゃると本当に安心できる」と大きな信頼を寄せている。

 ボクシング界では1990年代にリング上での事故が続き、定年制を設けたり、体調管理方法の見直しなどで対応した。だが、ここ数年、再びリング禍(か)が続いた。

過度な減量が一因に挙げられるが、神足さんのように計画的な減量を進めてきた選手も事故に遭った。日本ボクシングコミッション(JBC)は対策を検討。帝拳ジムは主催興行で救急科専門医らが待機するドクターカー常駐などの「帝拳セーフボクシング・プロジェクト」を発足させた。9月下旬には、神奈川県内のジム会長ら有志による神奈川拳志会の会合に西本医師が招かれた。西本医師は過去の論文をひもときながら、死亡事故を引き起こした急性硬膜下血腫を理論的に解説。会長らは医学的知識を得ようと、熱心に耳を傾けたという。「本当に切実な状態。我々は色々な選手を抱えていますから。聞きたいことがたくさん、ありました」と村野会長。大橋ジムの大橋秀行会長も自身のブログで「とても有意義な会合でした」と報告している。西本医師は「まずは知識の共有。小さな声をどんどん上げて、大きくしていく。
私もこういう会で話すことができたのは本当に良い機会でした」と会長らの熱意を肌で感じた。

 頭蓋骨の内側にある脳は「硬膜」や「くも膜」で覆われており、硬膜下血腫とは脳と硬膜の間にできた血の塊。脳と硬膜は架橋静脈でつながっていて、架橋静脈が切れて出血すれば、硬膜下血腫が発症する。「多くのボクサーは減量をします。減量による影響で何が一番怖いかというと、脳の体積が小さくなること。脳が収縮すれば、通常はピタリと付いている脳と硬膜の間に隙間ができて、橋渡し的な役割をしている架橋静脈が引っ張られる。パンチで脳が揺らされた場合、架橋静脈は通常よりも切れやすくなるんです」

 そのうえで、ここ数年の急性硬膜下血腫による重大なリング禍(か)は、8~12回戦の長いラウンドに起きていることを指摘する。

 「試合中に摂取する水分量は決して多くない。インターバルで水を口にしても、潤すだけで吐き出す選手も。ラウンドが進むにつれ、汗はかく。水分喪失量は多くなり、最終回近くになると脱水になっている可能性がある。そうなると試合中の脱水状態により脳が小さくなっているのでは、と推測できる。

まして、疲れてくると動きが悪くなったり、ガードも甘くなって被弾しやすくなる。JBCは12回戦のタイトル戦を10回戦に短縮したが、方向性としては間違っていないと思う」

 ボクシングでは倒しきれないと終盤、ポイントを稼ごう、または挽回しようと打ち合う傾向になる。ただでさえ体に負担の大きい終盤での殴り合いは事故を起こしやすい環境になっていることは想像にかたくない。

 「ボクサーは命をかけて戦う。医者は命を守るのが役目。リンクしないボクシング界と医療界を、しっかりつなげていかなければならない。事故を100%、なくすことは無理だが、未然に防ぐことはできるのでは。日々の練習からしっかり健康管理をやっていかない限り、選手は守れないんです。絶対に守れない。井上尚弥選手(大橋)、中谷選手ら日本人ボクサーの活躍はめざましい。世界が日本に目を向けている今だからこそ、事故防止策などはスピード感を持って、しっかり動いていく。日本のリングで同じ悲劇を起こしてはならないんです」。

西本医師は強い決意をにじませ、言葉に力を込めた。

 ◆近年起きたリング禍

 ▽2023年12月26日 日本バンタム級タイトルマッチ(有明アリーナ)に挑んだ穴口一輝選手(真正)は4度のダウンを奪われて判定負け。試合後に意識を失い、救急搬送。右硬膜下血腫により緊急開頭手術も、翌年2月に23歳で亡くなった。

 ▽25年5月24日 IBF世界ミニマム級タイトルマッチ(インテックス大阪)で重岡銀次朗選手(ワタナベ)は王座奪回を目指すも判定負け。試合後、救急搬送され、急性硬膜下血腫のため緊急開頭手術を受けた。現在は故郷・熊本県内でリハビリ中。

 ▽同年8月2日 後楽園ホールでの日本ライト級挑戦者決定戦で、8回TKO負けした浦川大将選手(帝拳)は試合後に救急搬送、急性硬膜下血腫で開頭手術も、同9日に死去。28歳だった。また、メインで行われた東洋太平洋スーパーフェザー級タイトルマッチで引き分けた神足茂利選手(M・T)は試合後、控室で意識を失い救急搬送。急性硬膜下血腫で数度の開頭手術を受けたが、同8日に28歳で死去。

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