◆天皇杯 ▽決勝 町田3―1神戸(22日・国立)

 町田が神戸を3―1で破り、初優勝を果たした。FW藤尾翔太(24)の2得点もあり、J1昇格2季目で初の国内主要タイトルを獲得した。

町田の前身となったのが1989年に創設された「FC町田トップ」だ。同クラブの創設者の一人で、現在は町田の相談役を務める守屋実さん(75)が、スポーツ報知の取材に応じ、プロクラブを目指すまでの歩み、2010年にJリーグ昇格を逃すなど、頂点に立つまでの苦難の歴史を語った。

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 数々の荒波を乗り越えてつかんだクラブ初タイトルだ。守屋さんは89年、義兄の重田貞夫さん(故人)らとFC町田トップをたち上げたが「プロにしようなんて話はなかった」と当時を振り返る。

 町田市は少年サッカーが盛んな地域として知られ、93年Jリーグ開幕前、後に横浜フリューゲルスとなるプロクラブの誘致に動いたことがあった。守屋さんは、その責任者として8万人の署名を集めた。しかし、行政の協力が得られずに計画は頓挫。そこで、守屋さんは95年から「FC町田トップ」を母体にすることを決め、プロクラブ誕生への夢に向かって動き出した。

 「当時、選手を集めて『このクラブでJリーグを目指すことになった』と伝えたら、選手たちが笑っちゃった。『そんなの俺たちはやりたくない。好きなサッカーをやれればいいんだ』って。同好会だよね。

急にプロだ、と言っても、あまりにも現実的じゃなかった」

 「ゼルビア」と愛称をつけてスタートしたが、練習はたった週2日。環境も悪く、現スカウト統括の丸山竜平氏しか参加しない日もあった。01年は都1部から降格寸前となり、解散危機にもあった。「(このままでは)とても上なんて目指せない」と02年に自ら監督に就任して、翌年にはNPO法人アスレチッククラブ町田を設立。町田サッカー協会から離れて資金繰りができるようになり、プロクラブを目指す土壌を整えた。

 09年にJFL昇格、10年にはJ2昇格基準の3位にも入った。しかし、スタジアム基準が満たしていないと通達され、幻となった。まさに「青天のへきれき」だった。「担当者とは(昇格に向けて)交渉が進んでいたから、『うそだろ…』って。選手に話したときは一番つらかった。電気はついていたけど消えているような感じ。暗くて、しーんとしていた。

このときも解散の危機だった。今は乗り越えなければいけない試練だったと思えるけど、その時は思えなかった」

 心が折れそうな場面はいくつもあったが、諦めなかった。守屋さんが大切にした「チャレンジャー精神」は、クラブの礎になって浸透。アマチュアから始まったクラブはこの日、国立で歓喜の瞬間を迎えた。「子供たちに夢を諦めるなと言って、自分が諦めたら、それは無責任。自分に誠実でいたかったから辞めなかった。優勝は重田さんから残された宿題だった。『見たかった夢は、こういうことだったんだよね』って伝えたい」と守屋さんは、しみじみと語った。

 ◆守屋 実(もりや・みのる)1950年10月5日、東京・町田市出身。75歳。公務員を4年務めた後に、26歳から小学校教員に。77年に小学生チームのFC町田を創設。

85年にジュニアユース、86年にユースを作り、89年にFC町田トップを設立。2002年から07年までは監督を務める。09年に小学校の教員を辞職。元町田サッカー協会理事長。現在はクラブの相談役及びNPO法人アスレチッククラブ町田の理事長。

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