巨人のライバルだった名選手の記憶を掘り起こしてきた「巨人が恐れた男たち」。最終回は星野仙一さんの足跡をたどる。

打倒・巨人に全てをかけてきた「闘将」。2005年、その宿敵からまさかの監督要請を受け、胸中は揺れ動く…。激情の中日時代を振り返る「最大の敵編」、20年前の夏を初めて巨人の元オーナー・滝鼻卓雄氏(86)らが語った「幻の監督編」。関係者の証言で「星野仙一と巨人」に迫る。(取材・構成=太田 倫)

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 【幻の監督編〈2〉】 ほどなくして、報知新聞の広島番記者である駒沢悟に、一本の電話が入った。ライバル球団の担当でありながら中日の若手時代から星野とは昵懇(じっこん)の間柄だった。電話の主は旧知の巨人関係者だった。

 「星野君と連絡を取ってもらいたい」

 「何用ですか?」

 「監督要請の話だ」

 仰天した。すぐに本人に連絡した。

 「ええっ!? 何でや…」。星野は絶句した。「ホンマかいな? 誰の考えや?」

 「渡辺さんの意向や」

 渡辺が動いた。

7月の終わり。チームとともに上京していた星野を、東京・青山の会員制ホテルに単身、訪ねた。星野がノックに応じてドアを開けると、渡辺はまず切り出した。

 「タバコを吸ってもいいかね?」

 トレードマークの葉巻の煙をくゆらせながら、渡辺は本題に踏み込んだ。

 「監督をお願いしたい。巨人のためじゃなく、球界のために」

 駒沢は2人の話が終わるのをロビーで待っていた。星野から「コマちゃんも一緒に会ってもらえんか」と頼まれたからだ。「そんなんおれるわけないやろ!」と即座に断ったが、当日、ホテルにいるのは承諾した。

 30分もたっただろうか。「ションベンちびるかと思ったで」。ロビーに下りてきた星野は、冗談めかしながら言った。「すごいオーラだった。

今までのナベツネさんのイメージがガラッと変わったよ…」

 ちなみに渡辺と氏家の2人は、時に星野の名前からとって「スター」と一種の親しみを込めて呼んだ。救世主としての期待感がうかがえる響きである。

 駒沢によると、会談直後の星野は「思ったよりクールだったが、複雑そうにも見えた」という。ただ、どの関係者の見方も「巨人から声をかけられてうれしかったはず」で一致する。あのドラフトから、打倒・巨人が星野の全てだった。その宿敵が、自分に頭を下げているという事実。男みょうりに尽きる瞬間ではなかったか。震えるほどの恍惚(こうこつ)を、クールな仮面の下に押し隠していたのではないか。

 「星野君と会った。後の交渉を頼む。誠心誠意、要請してくれ」。渡辺から交渉役を任されたのが、滝鼻だった。

8月1日、大阪市内のホテルで、星野と初めて直接顔を合わせた。

 星野は巨人のオファーを手塚昌利オーナーら阪神の球団上層部に報告し、「とどまってほしい」と求められていた。「監督要請は光栄に思う」と星野は言った。「読売が直接、阪神の首脳を説得してOKを取れたなら、私は動ける。しかし、難しいのでは…」。報酬の話を持ちかけようとすると、「阪神のOKが出てからにしてほしい」と遮った。

 滝鼻は1週間後に手塚とも会い、熱を込めて訴えかけた。

 「星野さんに要請したのは、球界のためです。このままではプロ野球は沈没してしまう。巨人・阪神戦がもっと盛り上がらなければ、プロ野球の再生はない。巨人・阪神は共同盟主です。プロ野球を救済するような気持ちを持ってほしい」

 手塚が首を縦に振ることはなかった。

いや、振れなかった。「今、星野SDがいなくなると、球団の再興は頓挫してしまう」。星野は財産だった。02年に監督として迎え入れると、03年には1985年以来のリーグ優勝をもたらした。大胆な補強戦略、強烈な求心力、客を呼ぶショーマンシップ。老舗球団の体質を抜本的に変えた。元球団社長で、連盟担当の職にあった野崎勝義は一時、星野を球団社長に推していた。「星野さんがいなければ改革はできていない。手塚オーナーも星野さんのものすごいファン。当然手放したくないと考えていたと思う」

 補強は必ず予算より少なく抑える。球団職員との小さな約束も必ず守る。勝たせるだけの男ではなかった。

健康問題で現場を退いたが、ある種の英雄だった。球団の副本部長を務めていた沼沢正二は、渦中の星野に一度だけ、監督問題について尋ねた。そのとき一瞬浮かべた険しい表情を覚えている。「まだ優勝して2年。今のソフトバンクの王球団会長のように、球団に在籍した上で、アドバイスをもらったり、球界に物申してほしかった。どう考えても、ライバルチームに出せる状況ではなかった」と、空気感を明かす。

 ◆星野 仙一(ほしの・せんいち)1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商から明大に進み、68年のドラフト1位で中日入り。6年目の74年に先発、リリーフ兼任で15勝9敗10セーブで巨人の10連覇を阻み、沢村賞受賞。82年に現役引退し、86年オフに中日の監督就任。その後、阪神、楽天で監督を務め、史上3人目の3チームでリーグ優勝。正力松太郎賞受賞2度。

17年1月にはエキスパート部門で野球殿堂入り。楽天の球団副会長だった18年1月4日、膵臓(すいぞう)がんのため死去。享年70。現役時代は右投右打。

 ※文中敬称略、肩書は当時のもの

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