日本オリンピック委員会(JOC)前会長で五輪柔道金メダリストの山下泰裕氏(68)が18日、母校の東海大(神奈川・平塚市)で、2023年10月に負った頸髄(けいずい)損傷による長期療養から特任教授として講義に復帰後、初めて会見に臨んだ。9月に退院し、大学では週に1度、柔道論を担当。

首から下がほとんど動かせない車いす生活の中で「ありのままの姿をさらけ出し、障害者を身近に感じてもらえたら」と新たな決意が芽生えたと明かした。

 車いすをスタッフに押してもらい、山下氏は教室に入室した。表情は決意に満ちあふれていた。頸髄を損傷する大けがを負ってから約2年。長期療養を経て、11月末に東海大の体育学部武道学科特任教授として講義に復帰。この日の4度目の対面講義では、約30人の3年生に「日本柔道と障害者スポーツ」をテーマに熱弁。そのまま教室での会見に臨み「ありのままの姿をさらけ出し、(社会や学生に)障害者を身近に感じてもらえたらいい。お役に立てることがあれば力になりたい」と目を輝かせた。

 突然、視界が変わった。JOC会長在職中だった23年10月29日に家族で出かけた神奈川・箱根町の温泉施設の露天風呂から上がる際に意識を失い、2メートル近い崖下に転落。駆けつけた人の声で意識を取り戻した。救急搬送され、病院で頸髄損傷との診断。

4つの病院で手術やリハビリに励んだ。今年9月23日に退院したが「首から上は達者。上、下半身はともに麻痺(まひ)している。左手が少し動く」と説明した。着替えには2人がかりで約30分かかる。現在は自宅近くの施設に移り、リハビリに取り組んでいる。

 2年前は、JOC会長として30年冬季五輪招致を巡る対応などに追われ、「プレッシャーが大きかった」と回想した。事故後に意識が戻った際、「最初に思ったのは『あぁ、これでプレッシャーから解放される』。それが正直(な感想)」。長い入院生活では面会を断り、治療に集中した。快方に向かった今年6月に2人だけ会った。陸上の瀬古利彦氏(69)とレスリングの富山英明氏(68)だった。

1984年のロサンゼルス五輪でともに戦った親友。わずかな時間だったが「楽しい会」と励みになった。

 手足が自由に動かせない講義。「途中、(スタッフに)鼻水を拭いてもらった。肺活量も3分の1。息切れもする。昔はこういう姿を人前にさらけ出したくなかった」という。それでも前向きに励む理由がある。事故後、家族に「生かされている意味を考えて頑張らないと」と背中を押された。来年度も講義は前後期で行う予定だ。「自分のできることをしていく」と山下氏。真の柔道家としての生きざまを、後進に伝える。

(宮下 京香)

 山下氏に聞く

 ―事故当時の状況は。

 「リラックスして、そろそろ(温泉を)出ようかと立ち上がった瞬間から意識がなくなった。意識が戻って手足の感覚が全くないということが分かった」

 ―9月の退院後は。

 「(リハビリに)やる気は満々でも、体がついていかず。全身かゆさを感じ、悪寒があったり。リカバーするのに1か月かかった」

 ―講義を終えて。

 「こういう状況で教壇に立てたことは、多くの人の支えがあった」

 ―事故後に変わったスポーツ観は。

 「先日の東京デフリンピックも素晴らしい大会。私にできることがあれば、障害者スポーツが普及していくことで(何かを)していきたい」

 ―今後の人生で伝えたいことは。

 「大層なことはできないけど、自分の活動を通して車いす、障害者の方々に対して(社会で)少しでも理解が深まっていけばいい」

 ◆山下 泰裕(やました・やすひろ)1957年6月1日、熊本・上益城郡生まれ。68歳。東海大相模高―東海大から同大学大学院へ進む。

77年日ソ親善試合から9連覇した85年全日本選手権決勝まで203連勝。84年ロサンゼルス五輪無差別級金メダル。同年10月に国民栄誉賞(中曽根康弘首相)を受賞。世界選手権は79年から95キロ超級3連覇。85年に引退。92年から00年シドニー五輪まで全日本柔道連盟男子監督。19年6月にJOC会長に就き、今年6月に任期満了で退任。

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